7話:誘拐②〜届けたい思い出〜
ロンドン郊外。
黒神家。
アストラル・オーダー本部で翌日の合同実習について説明を受けたあと、零と蕾は自宅へ戻っていた。
玄関に荷物を置き、慣れ親しんだリビングへ入る。
夕暮れを迎えた室内には窓から淡い橙色の光が差し込み、ようやく二人の間に穏やかな時間が流れ始めていた。
蕾はソファへ腰を下ろすと、待ちきれない様子でバッグの中を探り始める。
やがて取り出したのは、手のひらに収まるほどの小さな封筒だった。
封を開け、中から現像したばかりの写真を取り出す。
「えへへ……」
思わずこぼれた笑い声が、静かなリビングに小さく響いた。
蕾は写真を一枚ずつ、宝物を扱うような手つきでテーブルへ並べていく。
時計台から眺めた、茜色の夕焼け。
和菓子を囲みながら、楽しそうに笑い合う三人。
そして最後に撮った、三人そろっての記念写真。
写真を並べるたび、昨日の出来事が鮮やかによみがえってくる。
初めはどこか遠慮がちだったアイリスが、少しずつ王女としての立場を忘れ、一人の少女として笑うようになった。
その変化が嬉しくて、蕾も一日中、笑っていたような気がする。
桜色の瞳が、楽しかった思い出を懐かしむように細められた。
冷蔵庫からミルクを取り出した零は、上機嫌な蕾を横目で眺める。
「ずいぶん気に入ったみたいだな」
蕾は写真から目を離さないまま、大きく頷いた。
「うん。だって、すっごく楽しかったもん」
三人で並んだ写真の中では、アイリスが王女であることも、護衛される立場であることも忘れたように笑っている。
その隣では、蕾も太陽のような明るい笑顔を浮かべていた。
零はグラスへミルクを注ぎながら、ゆっくりとテーブルへ近付いていく。
「まあ、アイリス姉も楽しそうだったしな」
そっけない言い方だったが、その声音はどこか柔らかい。
黄金色の瞳にも、時計台で楽しそうに笑っていたアイリスの姿が浮かんでいた。
護衛対象としてではなく、自分たちと同じ一人の少女として見せた笑顔。
零にとっても、昨日の出来事は決して悪い思い出ではなかった。
グラスを片手に、テーブルへ並べられた写真を眺める。
そのうちの一枚へ目を留めたところで、零の眉がわずかに寄った。
「というか、それ、いつ現像したんだ?」
「今日のお昼だよ」
蕾は何でもないことのように答える。
けれど、その口元には、何かを隠している子供のような笑みが浮かんでいた。
「アストラルの現像室で、こっそり現像してきたの」
グラスを口元へ運ぼうとしていた零の手が止まる。
「おい」
呆れたような黄金色の瞳が、ゆっくりと蕾へ向けられた。
「勝手に使ったのか? 見つかったら怒られるぞ?」
ただでさえ、つい先ほどエレノアから「粗相のないように」と釘を刺されたばかりだ。
その直前に、蕾は本部の設備を無断で使っていたことになる。
もし見つかっていたなら、説教だけでは済まなかったかもしれない。
しかし、当の本人はまったく気にした様子を見せなかった。
並べた写真の中から一枚を選び、零の前へ差し出す。
「はい。これは零の分ね」
予想していなかった零は、反射的に写真を受け取った。
蕾は待ってましたとばかりに、悪戯っぽく笑う。
「受け取ったね。これで共犯だね?」
「勝手に巻き込むなよ」
零の呆れた声にも、蕾は楽しそうに笑うだけだった。
むしろ話は終わったとばかりに、残った写真を楽しそうに分け始めた。
自分が大切に持っておく分。
玄一に見せる分。
そして、アイリスへ渡す分。
誰にどの写真を渡すか迷いながら、一枚ずつ丁寧に選んでいく。
やがて三人で並んだ記念写真を小さな封筒へ入れると、蕾は満足そうに頷いた。
「よし。これで準備できた!」
ソファから勢いよく立ち上がり、封筒を大切そうにバッグへしまう。
そのまま玄関へ向かおうとする蕾を見て、零は受け取った写真とその背中を交互に見た。
「今から行くのか?」
「うん。昨日、明日持っていくってアイリス様と約束したから」
蕾は振り返り、迷いのない笑顔で答えた。
明日には、アイリスたちの帰国準備も本格的に始まる。
その前に写真を届けたい。
そのために、昼間のうちに本部の現像室へ忍び込み、こっそり現像まで済ませてきたのだ。
一度交わした約束を、蕾は決して忘れない。
相手が王女であっても、それは変わらなかった。
零は壁に掛けられた時計へ視線を向ける。
窓の外では夕日が沈みかけ、ロンドンの街並みが少しずつ夜の色へ変わり始めていた。
まだ遅すぎる時間ではない。
それでも、明日は朝から合同実習が予定されている。
「明日は朝から合同実習だぞ」
「分かってるよ。写真を渡したら、すぐに帰ってくるから」
蕾はソファの背に掛けていたコートを手に取り、慣れた手つきで袖を通す。
その足取りは軽く、今にも玄関から飛び出していきそうだった。
零は止める言葉を探すように、その背中を見つめる。
しかし、すぐに小さく息を吐いた。
一度こうすると決めた蕾を止めても無駄だ。
困っている人を見つければ放っておけず、交わした約束は何があっても守ろうとする。
6歳の頃から一緒にいる零だからこそ、その性格は誰よりもよく分かっていた。
「何かあったら、すぐ連絡しろよ」
靴を履こうとしていた蕾が、きょとんとした顔で振り返る。
「写真を渡すだけだよ?」
「分かってる。念のためだ」
零はグラスへ口を付けながら、何でもないことのように答えた。
けれど、その視線は蕾から逸れていない。
その様子がおかしかったのか、蕾は小さく笑った。
「はーい。零は心配性だね」
「誰のせいだと思ってんだ」
零がじとりとした目を向ける。
これまで蕾の行動に振り回された回数は、一度や二度ではない。
そんな零の胸中を知っているはずなのに、蕾はわざとらしく首を傾げてみせた。
「誰だろうね?」
「お前以外にいるか?」
「さあ?」
悪戯っぽく笑う蕾に、零はそれ以上言っても無駄だと諦めたように肩の力を抜いた。
「とにかく、気をつけて行けよ」
「うん!」
蕾は元気よく答え、玄関の扉へ手を掛ける。
そのまま外へ出ようとして――不意に動きを止めた。
何かを思い出したように振り返り、零が持っている写真へ視線を向ける。
「零、その写真なくさないでね?」
「なくさねぇよ」
「ちゃんと飾ってもいいんだよ?」
零はもう一度、手の中の写真へ目を落とした。
夕焼けに染まるロンドンの時計台を背に、自分たち三人が並んで笑っている。
写真を飾る自分の姿など想像できなかったのか、わずかに眉を寄せる。
「それは考えとく」
どこか気のない返事に、蕾は不満そうに頬を膨らませた。
「もう。大切な思い出なんだからね?」
「分かってるって」
零はそう答えると、写真を無造作に放り出すことなく、テーブルの上へ静かに置いた。
ほんのわずかな仕草だった。
けれど、それを見た蕾の表情がすぐに明るくなる。
零にとっても、この写真が大切な一枚になった。
言葉にしなくても、蕾にはそれだけで十分伝わっていた。
「それじゃあ、行ってきます!」
「ああ。あんまり遅くなるなよ」
「はーい!」
蕾が玄関の扉を開ける。
冷たい夜風が吹き込み、室内に残っていた穏やかな空気をわずかに揺らした。
蕾はコートの襟を整えると、写真を入れたバッグを大切そうに抱える。
向かう先は、昨日まで護衛任務で通っていた王室専用ホテル。
アイリスとの約束を果たすため、蕾は明かりの灯り始めたロンドンの街へ軽やかに駆け出していった。
その後ろ姿が夜の街並みへ消えるまで、零は玄関から静かに見送っていた。
けれど――。
このささやかな出来事が、終わったはずの護衛任務へ二人を再び引き戻すことになる。
このときの二人は、まだ知らなかった。




