7話:誘拐①〜次の任務〜
ロンドン郊外。
世界最高峰の国際魔法機関――アストラル・オーダー本部。
アイリスの護衛任務を終えた翌日。
零と蕾は任務報告のため、第1執行部『星刻』の作戦室へ呼ばれていた。
窓の外では、夕方の訓練を終えた隊員たちが、屋外訓練場から引き上げ始めている。
廊下の向こうから聞こえる足音や話し声も、朝の慌ただしさとは違い、どこか落ち着いていた。
作戦室の中央に並んだ二人を、エレノアは机の向こうから静かに見つめていた。
やがて手元の報告書を閉じると、柔らかな笑みを浮かべる。
「昨日の護衛任務、お疲れ様でした」
蕾は背筋を伸ばし、元気よく頭を下げた。
「はい! ありがとうございました!」
桜色の瞳には、初任務を無事に終えられた安堵と達成感が浮かんでいる。
その隣で、零も軽く会釈した。
「特に問題なく終わりました」
「……そうですね」
エレノアは再び報告書へ視線を落とした。
穏やかな声だった。
しかし、紙面をなぞっていた指先が、ある一文の上でぴたりと止まる。
「報告書の上では、問題なく終わっています」
蕾の肩が小さく跳ねた。
零も何気ない素振りで、窓の外へ視線を逸らす。
先ほどまで漂っていた穏やかな空気が消え、作戦室に妙な沈黙が落ちた。
エレノアは二人の反応を見逃すことなく、静かに顔を上げる。
「ところで――」
柔らかな笑みは、まだ崩れていない。
それがかえって、蕾の不安を強くした。
「護衛対象であるアイリス様を、許可なくホテルの外へ連れ出したそうですね?」
蕾の桜色の瞳が泳ぐ。
隣に立つ零の黄金色の瞳も、何事もなかったかのように窓の外へ向けられた。
「えっと……」
蕾は何かを答えようとしたものの、うまい言い訳が浮かばない。
助けを求めるように零を見る。
その視線を受けた零は、いつもの気怠そうな表情を崩さずに口を開いた。
「何のことでしょう」
あまりにも自然な返答だった。
知らない者が聞けば、本当に心当たりがないと思ったかもしれない。
しかし、蕾まで隣で何度も頷いたため、かえって二人の不自然さが際立っていた。
エレノアは額へ指先を添える。
「こういうときだけ、息がぴったりですね……」
呆れを含んだ息を零すと、机に置いていた別の報告書を手に取った。
「それから、護衛期間中にロンドンの空を黒い閃光が走ったという報告も届いています」
今度は、零の眉がわずかに動いた。
蕾が思わず隣を見る。
その視線に気づいた零は、何も言わずに黄金色の瞳を細めた。
――余計なことは言うな。
その視線が何を訴えているのか、長年一緒にいる蕾にはすぐに分かった。
蕾は慌てて正面へ向き直る。
「き、綺麗な流れ星でも飛んでいたんじゃないですか?」
「夕方のロンドンにですか?」
エレノアが間髪を容れずに問い返す。
蕾の頬に、冷や汗が浮かんだ。
「珍しいこともあるんですね!」
懸命に笑顔を作っているものの、その声は明らかに上擦っていた。
エレノアはしばらく無言で二人を見つめた。
零は窓の外を眺めたまま動かない。
蕾は笑顔を貼り付けたまま、桜色の瞳だけを左右へ泳がせている。
どうやら二人とも、自分たちの口から事情を話すつもりはないらしい。
エレノアは呆れたようにため息をついた。
「まあ、今回は何事もありませんでしたし、良しとしましょう」
その言葉を聞き、蕾の強張っていた肩から力が抜ける。
「よ、よかったぁ……」
安堵のあまり、本音が口から漏れた。
しかし、エレノアの話はまだ終わっていなかった。
「ただし――」
エレノアは柔らかな笑みを浮かべたまま、零と蕾を交互に見つめる。
「次に同じことをしたら、どうなるか。分かっていますね?」
穏やかな声だった。
だが、その笑顔から放たれる圧力に、蕾は弾かれたように背筋を伸ばす。
「は、はい!」
零も窓の外から視線を戻し、わずかに顔を引きつらせた。
「……分かりました」
二人の返事を聞き、エレノアは満足そうに頷く。
「よろしい」
張り詰めていた空気が、ようやく少しだけ和らいだ。
エレノアは机の上から一枚の資料を取り出す。
「それでは、明日の予定を伝えます」
その一言で、二人の表情が自然と切り替わる。
「明日は朝から、訓練生の合同実習を行います」
配属から半年間は、訓練生として基礎訓練や実戦形式の実習を受ける。
それが今の零と蕾にとっての主な役目だった。
ときには今回の護衛任務のように、先輩執行官の指揮下で実地任務へ参加することもある。
朝から。
その言葉を聞いた瞬間、零は露骨に顔をしかめた。
眉間に皺を寄せ、心底嫌そうに口元を歪める。
隠す気すらない反応だった。
「……朝からかよ」
「そこまで嫌そうな顔をしなくてもいいでしょう?」
エレノアが呆れたように眉を下げる。
零は何も答えず、差し出された資料へ視線を落とした。
そこには、零と蕾と同じ同期の訓練生名簿と、一日の実習予定が記されている。
黄金色の瞳が、予定表の集合時間で止まった。
ただでさえ嫌そうだった表情が、さらに険しくなる。
「早すぎないか?」
「移動の時間もありますから」
エレノアは取り合うことなく、きっぱりと言い切った。
今回の実習場所は、ロンドンから離れた地域にある合同演習場だ。ヨーロッパ圏内とはいえ、本部から向かうにはそれなりの時間がかかる。
反論の余地はない。
零は諦めたように資料から目を逸らした。
そんな零とは対照的に、蕾は身を乗り出すように資料を覗き込み、桜色の瞳を輝かせていた。
「合同実習……!」
初めて顔を合わせる同期の訓練生。
これまで経験したことのない訓練。
どのような相手がいるのか。どんな実習を行うのか。
蕾は期待を隠しきれない様子だった。
「複数の執行部が合同で行う実習です。実戦形式の訓練も含まれていますので、遅刻しないようにしてください」
エレノアは楽しそうな蕾を見ながら、説明を続ける。
「明日は私も参加します。それに、他の執行部からも複数の執行官が来る予定です」
「他の執行部の人たちも来るんですか?」
蕾の瞳に宿っていた期待へ、わずかな緊張が交じる。
エレノアは静かに頷いた。
「はい。皆さんの訓練を見るために、それぞれの執行部から担当者が集まります」
一度言葉を切り、零と蕾を交互に見つめる。
銀色の瞳が、わずかに細められた。
「くれぐれも、粗相のないようにしてくださいね?」
穏やかな口調とは裏腹に、その声には反論を許さない圧があった。
蕾は勢いよく背筋を伸ばす。
「はい!」
隣に立つ零も、気怠そうに頷いた。
「分かってますよ」
蕾はそんな零へ顔を向けると、心配そうに眉を下げる。
「だって。気をつけてね、零」
「お前も人のことを言えないだろ」
「私は大丈夫だもん!」
蕾は不満そうに頬を膨らませる。
零は何も言わず、疑わしそうな目を向けた。
ホテルからアイリスを連れ出した張本人が誰だったのかを思い出せば、その自信がどこから湧いてくるのか分からない。
二人のやり取りを前に、エレノアはとうとう頭を抱えた。
「あなたたち二人に言っているのよ……?」
深い疲れを滲ませながら、小さく息を吐く。
「まったく……。さすが、玄一さんお墨付きの新人ね」
零と蕾は揃って口を閉ざした。
どちらからともなく視線を逸らす仕草まで、見事に重なっている。
その様子を見て、エレノアはますます頭が痛くなったのか、眉間を押さえた。
「昨日までの護衛任務で、疲れが残っているかもしれません。明日も大切な訓練ですから、今日は早めに休んでください」
「はい!」
蕾は資料を両手で受け取り、大きく頷いた。
零も続いて資料を手に取る。
「分かりました」
二人の返事を聞き、エレノアは満足そうに表情を和らげる。
「それでは、本日は以上です」
蕾は深く頭を下げた。
「ありがとうございました!」
零も軽く会釈する。
「失礼します」
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二人が作戦室を出ると、背後で扉が静かに閉まった。
廊下へ出た途端、蕾は張り詰めていた息を一気に吐き出した。
「怒られるかと思ったぁ……」
「十分怒られてただろ」
零が隣でぼそりと呟く。
蕾は不服そうに頬を膨らませた。
「でも、今回は何事もなかったからいいって言ってくれたもん」
「次に同じことをしたらどうなるか、分かってるな、とも言われたけどな」
「それは……そうだけど」
先ほどのエレノアの笑顔を思い出したのか、蕾はわずかに顔を引きつらせる。
二人は並んだまま、夕暮れの差し込む廊下を歩き始めた。
窓から伸びる茜色の光が、二人の影を床へ長く映している。
数歩進んだところで、蕾が不意に足を緩めた。
「でもさ」
桜色の瞳が、たった今出てきた作戦室の扉へ向けられる。
「エレノアさん、最初から全部分かってたよね」
「ああ」
零も足を止め、閉ざされた扉を振り返った。
アイリスをホテルの外へ連れ出したこと。
ホテルの庭園で、零が銀河魔法を使ったこと。
二人が誤魔化そうとしている間も、エレノアには慌てる様子がなかった。
おそらく最初から、何があったのかほとんど把握していたのだろう。
零は訝しげに黄金色の瞳を細めた。
「……どこから見てたんだ」
「もしかして、ずっと近くにいたのかな?」
蕾は不思議そうに周囲を見回した。
しかし、廊下を行き交っているのは、任務や訓練を終えた人たちだけだった。
「エレノアさんなら、どこかに隠れて見ていてもおかしくないよね」
「いや、さすがにそれはないだろ」
零はそう答えたものの、その声にはどこか自信がなかった。
蕾も少しだけ考え込んだが、すぐに追及を諦めたらしい。
「まあ、いっか」
明るく言って、前へ向き直った。
「それより、明日の合同実習、楽しみだね!」
先ほどまでの警戒はどこへやら。
桜色の瞳を輝かせ、弾むような足取りで歩き始める。
零もその隣へ並んだが、その表情は対照的だった。
「俺は、朝が早い時点で楽しみじゃない」
明日の集合時間を思い出したのか、零は再びあからさまに顔をしかめる。
そんな幼馴染みを横目で見て、蕾は呆れたように腰へ手を当てた。
「ちゃんと早起きするんだよ?」
「分かってる」
「寝坊しても置いていくからね?」
蕾が念を押すと、零は悪びれる様子もなく口元を緩めた。
「そん時は起こしてくれよ。お・ね・え・ちゃ・ん」
昨日の言葉を思い出させるように、わざと一音ずつ区切って呼びかける。
蕾の頬がぴくりと引きつった。
「……バカにしてる?」
「してねーよ」
即座に返す零だったが、その口元には楽しそうな笑みが浮かんでいた。
「絶対バカにしてる!」
「気のせいだろ、お姉ちゃん」
蕾の抗議する声が、夕暮れの廊下へ響き渡る。
零は楽しそうに笑いながら、その隣を歩いていた。
二人はそのまま肩を並べ、本部の玄関へ向かっていく。
明日の合同実習について、他愛のない言葉を交わしながら。
今夜、自分たちが大きな事件へ巻き込まれることなど、まだ何も知らずに。




