5話:思い出④
時計台を後にした三人は、夕暮れのロンドンを歩いていた。
茜色に染まっていた空は少しずつ群青へと移り変わり、街灯が一つ、また一つと灯り始めている。
蕾は歩きながら、先ほど撮った写真を何度も眺めていた。
画面に映る三人の姿を見るたび、桜色の瞳が幸せそうに細められる。
「えへへ」
堪えきれないように笑みを零し、二人へ画面を向けた。
「やっぱり、すっごくいい写真!」
隣を歩くアイリスも画面を覗き込み、柔らかく微笑む。
「本当に素敵ですね」
三人で肩を寄せ合い、夕焼けを背に笑っている。
それは王女としてではなく、一人の少女として過ごした時間を、そのまま閉じ込めたような一枚だった。
アイリスは写真を大切そうに見つめる。
「一生の宝物にします」
その言葉に、蕾の表情がさらに明るくなった。
「私もです!」
スマートフォンを胸元へ抱え、元気よく頷く。
「ちゃんと現像して明日、渡しにきますね」
二人の少し後ろを歩いていた零もどこか嬉しそうだった。
やがて、一週間を過ごしたホテルの正面玄関が見えてくる。
楽しかった時間の終わりが近付いていることを察したのか、三人の歩みは自然と緩やかになっていった。
玄関の前まで辿り着くと、アイリスが足を止める。
静かな夜風が吹き抜け、三人の髪と服を優しく揺らした。
アイリスは零と蕾を交互に見つめ、丁寧に頭を下げる。
「今日は、本当にありがとうございました」
顔を上げた彼女の口元には笑みが浮かんでいた。
けれど、その琥珀色の瞳には僅かな寂しさが滲んでいる。
「この一週間、とても楽しかったです」
蕾も真っ直ぐにアイリスを見つめ返した。
「私もです!」
太陽のような笑顔を浮かべ、胸の前で両手を合わせる。
「アイリス様と一緒に過ごせて、本当に楽しかったです!」
零も片手をポケットへ入れたまま、軽く頷いた。
「ああ」
アイリスと過ごした日々を思い返すように、一度だけホテルを見上げる。
「悪くない一週間だった」
二人の言葉を聞き、アイリスは少しだけ俯いた。
このまま別れてしまえば、もう二度と会えないのではないか。
そんな不安が、胸の奥を過ぎる。
「また……」
小さく呟き、一度だけ息を吸う。
アイリスは意を決したように顔を上げた。
「また、お会いできますよね?」
その問いに、蕾は少しも迷わなかった。
「もちろんです!」
桜色の瞳を輝かせ、大きく頷く。
「だって、私たちはもう友達なんですから!」
「友達……」
アイリスは目を丸くし、その言葉を大切そうに繰り返した。
王女でも、護衛対象でもない、ただの友達。
その響きが、胸の奥へ温かく染み込んでいく。
零も僅かに口元を緩めた。
「ああ。また会えるに決まってるだろ」
気負いのない声で答えると、不意に何かを思い出したように続ける。
「それに、今日は時間が足りなかったからな。」
「時間ですか?」
アイリスが首を傾げると、零は気楽な笑みを浮かべた。
「次に会った時は、日本を案内してやるよ」
「日本……」
「景色のいい場所もあるし、甘いものが美味い店も結構ある」
零の言葉を聞き、蕾も待ちきれない様子で身を乗り出した。
「私も案内します!」
おすすめの場所を思い浮かべながら、人差し指を立てる。
「アイリス様に食べてもらいたいものも、見てもらいたい場所も、いっぱいあるんです!」
アイリスの表情が、ぱっと明るくなった。
「はい!」
嬉しそうに頷き、二人を真っ直ぐに見つめる。
「約束です」
「ああ、約束だ」
零は短く答えた。
その直後、何かに気付いたようにアイリスへ目を向ける。
「そういや……友達になったのに、いつまでも『アイリス様』って呼ぶのも、なんか距離があるな」
蕾が不思議そうに首を傾げた。
「え?」
零は少し考えたあと、何でもないことのように告げる。
「じゃあ、これからはアイリス姉で」
一瞬、その場の空気が止まった。
「ちょっと、零!」
我に返った蕾が、慌てて零へ詰め寄る。
「アイリス様は、アルディア王国の王女様なんだよ?」
呆れたように腰へ手を当てた。
「いきなりそんな呼び方をしたら、失礼でしょ!」
零は蕾が怒っている理由が分からない様子で瞬きをする。
「そうか?」
本気で不思議そうにアイリスへ目を向けた。
「友達なんだから、別にいいだろ」
「そういう問題じゃないの!」
蕾はすぐに言い返すと、申し訳なさそうにアイリスへ向き直った。
「すみません、アイリス様」
深く頭を下げる。
「零って、昔からこういうところがあって……」
しかし、アイリスは不快に思うどころか、堪えきれないように笑みを零した。
「ふふっ」
琥珀色の瞳を優しく細め、零へ顔を向ける。
「私は構いませんよ」
「え?」
蕾が顔を上げる。
アイリスは少し照れくさそうに両手を重ねた。
「友達ですから」
アイリスは、はにかむように微笑む。
「『アイリス姉』と呼んでもらえたら、私も嬉しいです」
零はどこか得意げに蕾を見る。
「ほらな」
「もう……」
蕾は困ったように頬を膨らませたが、すぐに表情を和らげた。
「アイリス様がそう仰るなら、いいですけど」
それでも自分の呼び方は変えるつもりがないらしく、明るく笑う。
「私は、これまでどおり『アイリス様』と呼びますね!」
「はい」
アイリスも嬉しそうに頷いた。
別れを惜しむように少しだけ見つめ合ったあと、蕾は満面の笑みで手を振る。
「それじゃあ、またね! アイリス様!」
零も片手を上げた。
「ああ。またな、アイリス姉」
「はい!」
アイリスも笑顔で、何度も手を振り返す。
「また、お会いしましょう!」
穏やかな夜風が、三人の間を吹き抜ける。
いつか再会するという約束を胸に、三人はそれぞれの帰る場所へ歩き始めた。
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ホテルの中へ入ったアイリスは、ふと足を止めた。
名残惜しそうに振り返る。
ガラス扉の向こうでは、零と蕾がまだこちらへ手を振っていた。
その姿にもう一度微笑み返し、アイリスも小さく手を振る。
やがて二人の姿を遮るように、自動ドアが静かに閉じた。
アイリスが護衛と共に廊下の奥へ消えていく。
その姿を――一人の男が、離れた場所から無言で見つめていた。
王国護衛隊長。
この一週間、誰よりも近くでアイリスを守り続けてきた男だった。
男は周囲へ素早く視線を巡らせる。
人の気配がないことを確かめると、先ほどまでの穏やかな表情を消し、懐から小型の通信機を取り出した。
「俺だ」
押し殺した声が、静かな廊下へ響く。
『状況は?』
通信機の向こうから、低い声が返ってくる。
「問題ない。アストラル・オーダーの護衛任務は、今日で終了した」
男は廊下の奥へ視線を向けた。
そこにはもう、アイリスの姿はない。
僅かな沈黙のあと、その口元が冷たく歪む。
「予定どおりだ」
先ほどまでアイリスへ向けていた温かな眼差しは、跡形もなく消えていた。
男はさらに声を落とす。
「決行は――明日の夜」
『了解』
短い返答と共に、通信が途切れる。
護衛隊長は通信機を懐へ戻した。
そして何事もなかったかのように表情を整えると、静かな足取りで廊下の奥へ歩き出した。




