5話:思い出③
三人は石造りの時計台へ足を踏み入れた。
薄暗いらせん階段を、一段ずつ登っていく。
壁に設けられた小さな窓からは、夕暮れのロンドンが覗いていた。
階段を登るにつれて、その景色も少しずつ遠くまで見渡せるようになっていく。
アイリスは窓の前を通るたびに足を緩め、外へ目を向けていた。
「すごい……」
思わず零れた声に、先を歩いていた蕾が振り返る。
「もうすぐ、もっとすごい景色が見られますよ!」
期待に満ちた琥珀色の瞳を見て、蕾は楽しそうに階段を駆け上がっていく。
やがて、三人は最後の段へ辿り着いた。
蕾が、時計台の外へ続く重い扉を押し開ける。
その瞬間、夕暮れの風が吹き込み、三人の髪と服を優しく揺らした。
扉の先にあったのは、大時計の文字盤のすぐ上に張り出した細長い足場だった。
アイリスは恐る恐る外へ足を踏み出し――眼下に広がる景色に、息を呑んだ。
目の前には、夕日に染まるロンドンの街並みがどこまでも広がっている。
茜色に染まった空。
黄金の光を反射するテムズ川。
夕焼けに包まれた石造りの街並み。
そのすべてが、一枚の絵画のように美しく溶け合っていた。
アイリスは言葉を失ったまま、その景色を見つめる。
しばらくの間、誰も口を開かなかった。
静かな風だけが、三人の間を通り抜けていく。
「……綺麗」
やがてアイリスの唇から、掠かな声が零れた。
それだけで、目の前の光景に心を奪われていることが十分に伝わってきた。
蕾は隣へ並び、満足そうに微笑む。
夕日に照らされた桜色の瞳が、柔らかな光を帯びていた。
「でしょ?」
アイリスと同じ景色を眺めながら、懐かしそうに目を細める。
「私も初めて来た時、同じことを言ったんです」
「そうだったのですね」
アイリスはようやく蕾へ顔を向けると、もう一度ロンドンの街を見渡した。
「本当に、素敵な場所です」
少し後ろでは、零も手すりのそばに立ち、夕暮れの街並みを眺めていた。
黄金色の瞳に、茜色の空と無数の建物が映り込んでいる。
「何度見ても、飽きねぇな」
その呟きを聞き、蕾が振り返った。
「だから、私たちのお気に入りなんだよね」
零も僅かに口元を緩める。
「ああ」
二人にとっては、これまで何度も眺めてきた景色だった。
訓練を終えたあと、何度も一緒に訪れた場所。
けれど、今日はいつもと少しだけ違う。
隣には、この数日を共に過ごしたアイリスがいる。
三人で同じ夕焼けを眺めている。
それだけで、見慣れた景色が少しだけ特別なものに思えた。
穏やかな風が吹き抜け、時計台にはゆっくりとした時間が流れていく。
すると、蕾が何かを思い出したように声を上げた。
「あっ、そうだ!」
肩に掛けていたバッグを下ろし、中を探り始める。
やがて取り出したのは、丁寧に包まれた小さな箱だった。
「実は、これを持ってきたんです!」
包みを開くと、中には色とりどりの和菓子が綺麗に並んでいた。
夕陽を受けた一つひとつが、宝石のように艶やかな輝きを帯びている。
アイリスが目を丸くした。
「和菓子……?」
「はい!」
蕾は得意げに胸を張る。
「アイリス様の魔法が成功したお祝いです!」
箱を三人の間へ置き、太陽のような笑顔を浮かべた。
「最後に、みんなで食べようと思って持ってきたんです!」
その言葉を聞き、零は納得したように苦笑する。
「やっぱりな」
蕾が不思議そうに首を傾げた。
「やっぱり?」
「今日は、やたら荷物が多かったからな」
零は箱の中から和菓子を一つ手に取った。
「どうせ、何か持ってきてるんだろうと思ってた」
蕾は少し気まずそうに笑う。
「ばれてた?」
「ああ」
零は慣れた様子で肩をすくめた。
「嬉しいことがある日は、だいたい和菓子だからな」
「えへへ……」
蕾は照れくさそうに頬を緩める。
「だって、今日は特別だから」
桜色の瞳を、アイリスへ向けた。
「アイリス様が初めて魔法を成功させた記念だもん!」
その言葉に、アイリスの胸の奥が温かくなる。
自分のために、蕾が前もって用意してくれていた。
それが何よりも嬉しかった。
「ありがとうございます、蕾さん」
アイリスは両手で和菓子を受け取り、そっと一口食べる。
優しい甘さが口いっぱいに広がり、自然と頬が緩んだ。
「とても美味しいです」
「よかった!」
蕾も自分のことのように瞳を輝かせる。
「それ、私も大好きなんです!」
三人は夕焼けに染まるロンドンを眺めながら、ゆっくりと和菓子を味わった。
任務のことも、王女と護衛という立場も、この時だけは忘れて。
他愛のない話を交わしながら、三人だけの穏やかな時間を過ごしていく。
やがて、蕾が最後の和菓子を食べ終えると、再び声を上げた。
「あっ、もう一つ忘れてた!」
「まだ何かあるのか?」
零が呆れたように尋ねると、蕾はバッグからスマートフォンを取り出した。
それを見たアイリスが、不思議そうに首を傾げる。
「写真ですか?」
「はい!」
蕾は満面の笑みで頷いた。
「せっかく三人でここまで来たんです。記念に撮りましょう!」
アイリスの表情も、ぱっと明るくなる。
「ぜひ!」
「それじゃあ、二人ともこっちに来て!」
蕾は零とアイリスの間へ入ると、スマートフォンを持った腕を三人の前へ伸ばした。
画面を見た蕾が、すぐに眉を寄せる。
「零、もう少し寄って!」
「近いって」
零は面倒そうに答えながらも、言われたとおりに蕾との距離を縮めた。
「まだ遠い!」
「これ以上は狭いだろ」
「いいから!」
蕾は空いている手で零の腕を掴み、強引に引き寄せる。
それから、反対側に立つアイリスへ顔を向けた。
「アイリス様も、もっとこっちへ!」
「は、はい」
アイリスも少し照れながら、蕾の隣へ身を寄せる。
三人の肩が触れ合うほど近くに並んだ。
蕾は画面の中に三人と夕焼けの街並みが収まっていることを確かめ、満足そうに頷く。
「それじゃあ、撮りますよ!」
零は仕方なさそうに笑い、アイリスも柔らかな笑みを浮かべた。
三人の真ん中で、蕾が太陽のように笑う。
「はい、チーズ!」
軽いシャッター音が、夕暮れの時計台に響いた。
「撮れた!」
蕾はすぐにスマートフォンを胸元へ戻し、画面を確認する。
そこには、茜色に染まるロンドンを背に、肩を寄せ合って笑う三人の姿が収められていた。
「見て!」
蕾は興奮した様子で、二人へ画面を見せる。
「すっごくいい写真!」
アイリスも画面を覗き込み、嬉しそうに目を細めた。
「本当ですね」
その写真を見つめる琥珀色の瞳には、喜びと名残惜しさが入り交じっていた。
零も二人の後ろから画面を覗き込み、僅かに口元を緩める。
「悪くないな」
「でしょ?」
蕾は満足そうに笑い、スマートフォンを大切に胸元へ抱えた。
三人は顔を見合わせる。
そして、誰からともなく笑みがこぼれた。
沈みゆく夕陽に照らされた時計台へ、三人の笑い声が穏やかに響き渡る。
その日に撮った一枚は――。
三人で過ごしたロンドンの思い出を、いつまでも鮮やかに残し続けることになる。




