5話:思い出①
アイリスの護衛任務も、いよいよ最終日を迎えていた。
夕暮れの柔らかな陽射しがホテルの庭園を優しく照らし、色とりどりの花々が穏やかな風に揺れている。
この数日、アイリスは護衛の合間を見つけては、蕾と魔法の練習を続けてきた。
最初は、魔力を形にすることさえ難しかった。
それでも諦めることなく、一つずつ練習を重ねてきた。その努力は、少しずつ確かな成果となって表れ始めている。
残る課題は――狙った場所へ正確に当てること。
庭園の中央には、木製の訓練用の的がいくつも並べられていた。
蕾はアイリスの隣に立つと、いつもの明るい笑顔を向ける。
「焦らなくて大丈夫です!」
桜色の瞳が、優しく細められた。
「今までやってきたことを思い出してください」
蕾は胸の前で両手を握り、力強く頷く。
「アイリス様なら、きっとできます!」
その言葉に励まされ、アイリスも小さく頷いた。
「……はい」
琥珀色の瞳が、正面の的を真っ直ぐに見据える。
ゆっくりと右手を前へ差し出し、一度、大きく息を吸った。
焦らず、心を落ち着かせる。
この数日、蕾から何度も教わったとおりに。
アイリスが意識を指先へ集中させると、淡い光が掌へ集まり始めた。
やがて光は、小さな魔力弾となって形を成す。
これまでのように輪郭が揺らぐことはない。
アイリスは静かに息を吐いた。
「……いきます」
次の瞬間、魔力弾が一直線に放たれた。
夕暮れの庭園を駆け抜け、狙った的へ真っ直ぐに迫っていく。
乾いた音が響いた。
魔力弾は狙い違わず、的の中心へ命中していた。
一瞬、庭園が静まり返る。
その静寂を最初に破ったのは、蕾だった。
「やったぁーっ!」
満面の笑みで駆け寄ると、そのままアイリスの両手をぎゅっと握る。
「成功です!」
蕾は自分のことのように瞳を輝かせた。
「ちゃんと真ん中に当たりました!」
アイリスは、まだ信じられない様子で的を見つめていた。
何度も失敗した。
狙いを外し、力加減を間違え、悔しくて笑うしかなかった日もある。
それでも、毎日諦めずに続けてきた。
その努力が、今ようやく形になったのだ。
「……当たった」
唇から、掠かな声が零れる。
琥珀色の瞳には、うっすらと涙が滲んでいた。
アイリスは両手を握ってくれている蕾へ顔を向ける。
「ありがとうございます……蕾さん」
すると、蕾はぶんぶんと首を横へ振った。
「違います!」
胸を張り、太陽のような笑顔を向ける。
「アイリス様が諦めずに頑張ったからですよ!」
握った両手へ、もう一度力を込めた。
「私は、少しお手伝いしただけです!」
その言葉に、アイリスは照れくさそうに微笑んだ。
二人の様子を少し離れた場所から見守っていた零も、ポケットへ手を入れたまま歩み寄ってくる。
黄金色の瞳が、魔力弾の命中した的へ向けられた。
「ちゃんと真ん中に当たってるな」
アイリスが少し驚いたように振り返る。
零は僅かに口元を緩めた。
「よくやったな」
「あ……ありがとうございます!」
アイリスの顔に、嬉しそうな笑みが広がる。
零はそのまま的を見つめ、気楽な口調で続けた。
「けど、一回成功したくらいで満足するなよ」
「え?」
アイリスが不思議そうに首を傾げる。
「魔法ってのは、使わないとすぐに感覚が鈍るからな」
零はポケットから右手を出した。
「うまくいく日もあれば、何度やっても失敗する日もある。それでも続けてりゃ、少しずつ自分のものになる」
その言葉を受け、アイリスの表情が引き締まる。
零は僅かに笑った。
「だから、国へ帰っても鍛錬は続けろよ」
アイリスは真っ直ぐ零を見つめ、それから力強く頷いた。
「はい!」
迷いのない返事に、零も満足そうに口元を緩める。
「よし。なら、最後にもう一つだけ見せてやる」
そう言って、零は右手を空へ掲げた。
並んだ的ではなく、茜色に染まり始めた遥か上空へ。
その構えを見た蕾が、僅かに目を見開く。
「ちょっと、零」
桜色の瞳が、空へ掲げられた右手へ向けられる。
「まさか、ここで使うつもり?」
「空に撃つだけだ」
零は何でもないことのように答えた。
「地上に向けなきゃ問題ないだろ」
「そういう問題かなぁ……」
蕾が呆れたように眉を下げるなか、零は静かに上空を見据えた。
漆黒の魔力が掌へ集まり、一つの黒い星が生み出される。
その大きさは、先ほどアイリスが放った魔力弾とさほど変わらない。
黒い球体の周囲を、無数の紫銀の粒子が星屑のように舞っている。
見た目だけなら、小さな銀河星にすぎなかった。
けれど――内包された魔力の密度が、まるで違う。
膨大な魔力が、逃げ場を失ったかのように小さな星の内部へ圧縮されていく。
庭園を吹き抜けていた風が止まった。
空気が重く沈み、花々が零へ頭を垂れるように揺れる。
アイリスは息を呑んだ。
小さな黒い星へ視線を向けているだけで、身体が押さえつけられるような圧力を感じる。
先ほど自分が生み出した魔力弾とは、あまりにも違いすぎた。
「銀河星――バージョン超新星」
零の掌で、漆黒の星が静かに脈動する。
そのたびに紫銀の粒子が強く輝き、周囲の大気が微かに震えた。
零は、目を奪われているアイリスへ視線を向ける。
「続けてりゃ――」
僅かに口元を上げ、再び遥か上空を見据えた。
「いつか、こんなでかい魔法も使えるようになるかもな」
空へ掲げた右手に、静かに力を込める。
「砲撃」
次の瞬間――。
小さな黒い星から、巨大な魔力の奔流が放たれた。
漆黒の砲撃が紫銀の輝きを纏い、夕暮れの空を真っ直ぐに貫いていく。
その威力は、銀河星の大きさからは想像もできないほど凄まじいものだった。
轟音とともに大気が震え、庭園の花々が吹き荒れる風に大きく揺れる。
漆黒の光は遥か上空まで駆け上がり、空を覆っていた雲を一直線に吹き飛ばした。
やがて砲撃が消えると、紫銀の粒子が星屑のように夕空へ散っていく。
アイリスは言葉もなく、その光景を見上げていた。
琥珀色の瞳には、夕空を舞う無数の輝きが映り込んでいる。
「……すごい」
ようやく零れた声は、驚きに震えていた。
零は何事もなかったかのように右手を下ろす。
「まあ、すぐには無理だろうけどな」
そう付け加えながらも、その口元には僅かな笑みが浮かんでいた。
アイリスは空に残された光景から、ゆっくりと零へ視線を戻す。
自分が放ったものは、まだ小さな魔力弾にすぎない。
それでも、今日初めて狙った場所へ当てることができた。
この一歩を積み重ねていけば、いつか――。
「はい!」
アイリスは胸の前で両手を握り、力強く頷いた。
「これからも、必ず続けます!」
その顔には、先ほどまでとは違う確かな自信が浮かんでいた。
一方、隣に立つ蕾は腰へ手を当て、呆れたように零を見つめている。
「もう……」
零が不思議そうに首を傾げた。
「なんだよ」
「教え方が派手すぎるよ」
そう言いながらも、蕾の口元には笑みが浮かんでいた。
「でも――」
桜色の瞳が、零へ向けられる。
「零がそんな真面目なこと言うなんて、ちょっと見直した」
零は照れた様子もなく、小さく口元を緩めた。
「それは光栄だな」
「でも、人に偉そうなことを言うには、まだまだかな」
蕾はいたずらっぽく人差し指を立てる。
桜色の瞳が、挑むように細められた。
「零、まだ私に一度も勝ってないでしょ?」
零は僅かに眉を寄せた。
痛いところを突かれたと言わんばかりに、視線を逸らす。
「……相変わらず厳しいな」
それでも、黄金色の瞳には隠しきれない闘志が宿っていた。
「いつか勝つ」
蕾は満足そうに頷く。
「うん!」
太陽のような笑顔を浮かべた。
「楽しみにしてる!」
二人のやり取りを見ていたアイリスは、堪えきれずに吹き出した。
「ふふっ」
零と蕾へ交互に視線を向け、微笑ましそうに尋ねる。
「お二人は、本当に仲が良いのですね」
蕾は少し照れくさそうに笑った。
「零が6歳の時から、ずっと一緒なんです」
隣に立つ零へ視線を向ける。
「だから、お互いに何を考えているか、大体分かっちゃうんですよ」
零も小さく笑った。
「分かってるなら、少しくらい手加減してくれてもいいんだけどな」
「それは駄目」
蕾は間髪を入れずに答えた。
「手加減したら、零が強くならないもん」
「はいはい」
零が仕方なさそうに笑うと、アイリスの顔にも自然な笑みが広がった。
三人の笑い声が、夕暮れの庭園へ穏やかに響き渡る。
少し離れた場所では、その様子を見守っていたレオンも静かに目を細めていた。
王女としてではなく、一人の少女として笑うアイリス。
これほど自然な笑顔を見るのは、本当に久しぶりだった。
その姿を見ているだけで、レオンの胸にも温かなものが広がっていく。
やがて笑い声が落ち着くと、アイリスは少しだけ真剣な表情になった。
「レオン」
呼び掛けを受け、レオンはすぐに三人のもとへ歩み寄る。
「はい」
アイリスは両手を胸の前で重ね、小さく息を吸った。
「一つ、お願いがあるのです」
レオンは穏やかな表情を崩さずに尋ねる。
「何でしょう」
アイリスは一度だけ、零と蕾へ視線を向けた。
この一週間、二人と過ごした時間。
それは王女としてではなく、一人の少女として笑うことのできた、大切な思い出になっていた。
だからこそ、最後にもう一つだけ願いがあった。
「護衛任務も、今日で終わりですよね」
「はい」
レオンが静かに頷く。
アイリスは少し照れくさそうに微笑んだ。
「魔法が成功した記念に……」
期待に満ちた琥珀色の瞳が、零と蕾へ向けられる。
「お二人と、少しだけロンドンの街を歩いてみたいのです」
庭園に、穏やかな風が戻ってきた。
レオンは夕暮れの空を見上げる。
日はすでに傾き始めており、残された時間は決して多くない。
それでも、その願いを断るには――アイリスの笑顔は、あまりにも嬉しそうだった。




