2話:初任務②
エレノアは机の上へ、一枚の資料を静かに置いた。
紙が滑る音に合わせるように、蕾と零の視線が自然と集まる。
そこに写っていたのは、一輪の白い花だった。
雪のように白い花弁。
その中心には淡い黄金色の輝きが宿り、まるで朝日を浴びているかのような神秘的な美しさを放っている。
「綺麗……」
蕾は思わず、小さく息を漏らした。
桜色の瞳は写真へ釘付けになり、その花から目を離せない。
「こんな花、初めて見た……」
隣から、零も資料を覗き込む。
写真を一瞥すると、興味を引かれたように僅かに眉を動かした。
「花か?」
短い問いに、エレノアは静かに頷く。
「今回の任務に関わるものとして、もう一つ知っておいていただきたいものです」
そう言って、資料を一枚めくる。
そこには研究施設や広大な栽培温室、幾重にも張り巡らされた警備網の写真が並んでいた。
「この花は古くから、魔力欠乏症の治療薬として使われてきました。魔力の回復を助ける作用があり、現在でも医療現場には欠かせない植物です」
説明を聞きながら、蕾は資料へ視線を落とす。
白衣姿の研究員。
温室いっぱいに咲く、同じ白い花。
その一輪一輪が、厳重な管理の下で大切に育てられていた。
「お薬にも使われているんですね」
蕾は感心したように頷く。
「人を助ける花なんだ」
「ええ」
エレノアも穏やかな表情で頷いた。
しかし、次の資料へ手を伸ばしたところで、その声が僅かに硬くなる。
「ですが、この花には以前から、魔力へ強く作用する性質があると考えられていました。そして、ごく最近になって新たな作用が確認されています」
その一言で、作戦室の空気が少しだけ変わった。
零は椅子の背にもたれたまま、資料へ視線を戻す。
「新しい作用?」
「一時的に、使用者の魔力を大幅に高める効果です」
静かな沈黙が落ちた。
蕾は驚いたように目を丸くする。
「そんなことが……」
人を救うための花。
先ほどまで抱いていた印象へ、危うさが混ざり始める。
エレノアが次に開いた資料には、いくつもの注意事項が赤字で記されていた。
「ただし、その代償は決して小さくありません」
蕾は自然と背筋を伸ばした。
エレノアは資料へ目を落とし、確認されている症状を一つずつ読み上げる。
「強い中毒性。魔力暴走。身体機能の低下。そして、継続して使用した場合には、命に関わる危険性もあります」
作戦室の空気が重く沈む。
つい先ほどまで美しいと感じていた白い花が、まるで別のものに見えてしまう。
蕾は資料を見つめたまま、小さく呟いた。
「そんな危険な力も持っているんですね……」
「はい」
エレノアは静かに答える。
「そのため現在は、医療目的以外での使用が厳しく制限されています。軍事利用についても、国際条約によって禁止されています」
一度言葉を区切り、二人の表情を窺う。
「ですが、魔力増強作用に関する研究は始まったばかりです。各国が安全な医療利用を目指す一方で、違法な精製や悪用の可能性についても調査を進めています」
零は資料に並ぶ文字を追いながら、小さく息を吐いた。
「つまり、まだ何が起こるか分からねぇってことか」
黄金色の瞳が、赤く記された危険性の文字へ向けられる。
「ええ。だからこそ、各国が厳重に管理しています」
窓の外では、今も隊員たちの訓練が続いていた。
遠くから響く掛け声が、静まり返った作戦室とは対照的だった。
エレノアは、研究施設の写真が載った資料を二人の前へ広げる。
「なかでもアルディア王国は、この花の研究において世界の最先端を走っています。現在も、安全な医療利用を目的とした研究が進められています」
蕾は写真をじっと見つめた。
広大な温室。
最新設備を備えた研究所。
そして、その周囲を固める厳重な警備。
これほど大切に守られている理由が、ようやく分かった気がした。
「アルディア王国にとって、とても大切なお花なんですね」
「ええ」
エレノアは穏やかに微笑む。
「本来であれば、人を救うための花です。だからこそ、その力を理解し、正しく扱わなければなりません」
蕾は神妙な表情で資料を見つめる。
やがて、その言葉の意味を噛み締めるように頷いた。
「同じ力でも、使い方次第なんですね」
「そのとおりです」
エレノアは満足そうに目を細めた。
隣では、零が椅子へ深くもたれ直している。
「便利な力ほど、扱いが難しいってことか」
どこか自分自身へ言い聞かせるような声音だった。
エレノアは一瞬だけ零へ目を向けたが、何も言わずに小さく頷く。
「願わくば、この花が人を傷付けるために使われないことを祈ります」
その言葉に、蕾は迷いなく笑った。
「きっと大丈夫ですよ!」
先ほどまでの重い空気を吹き飛ばすような、明るい声が響く。
「こんなに綺麗なお花ですもん。きっと、人を助けるために使われます!」
あまりにも真っ直ぐな笑顔だった。
零はそんな蕾を横目で見てから、もう一度資料へ視線を落とす。
「……どうだかな」
誰にも聞こえないほどの、小さな呟き。
その黄金色の瞳だけは、花の写真ではなく、資料に記された危険性の文字を見つめていた。
エレノアは最後の一枚を二人の前へ置く。
そこには、花の正式名称が大きく記されていた。
――天輝花。
蕾は、その名をゆっくりと読み上げる。
人を救う希望となる花。
あるいは、人を破滅へ導く花。
その名には、不思議と相反する二つの意味が込められているように思えた。
「それでは最後に、当日の行動予定を確認しましょう」
エレノアは天輝花の資料を閉じ、代わりにホテルの見取り図を広げた。
正面玄関。
宿泊階。
非常階段と避難経路。
二人は説明を聞きながら、それぞれの担当場所と緊急時の動きを確認していく。
一通りの確認を終えると、エレノアは資料を閉じた。
机の上で書類が整えられ、作戦室に再び静けさが戻る。
「以上が、今回の任務内容になります」
柔らかな声が室内へ響く。
「何か質問はありますか?」
蕾はもう一度、手元の資料へ目を落とした。
護衛日程。
担当配置。
そして、天輝花。
一つひとつ頭の中で確認してから、小さく息をついて顔を上げる。
「ありません!」
その返事に迷いはなかった。
初任務への緊張は残っている。
それでも今は、不安よりも期待の方が少しだけ勝っていた。
零も手元の資料を閉じる。
「俺も大丈夫」
いつもどおり、どこか気の抜けた返事だった。
しかし、資料の内容にはすべて目を通していることを、エレノアは分かっていた。
「そうですか」
安心したように微笑み、机の上の資料を整える。
「それでは、本日の説明は以上です。ホテルでは、第3執行部『守護』の方々が待機していますので、現地では先輩たちの指示に従ってください」
一度言葉を区切り、二人を真っ直ぐ見つめる。
「訓練生だからといって、必要以上に萎縮することはありません。ですが、自分たちだけで判断しないこと。困ったときは、必ず周囲を頼ってください」
蕾は背筋を伸ばし、大きく頷いた。
「はい!」
元気な返事に、エレノアの口元も自然と緩む。
隣では、零が軽く片手を上げた。
「了解」
短い返事だったが、肩肘を張らない零らしさが表れていた。
エレノアはゆっくりと席を立つ。
「それでは――初任務、頑張ってきてください」
その声には、命令ではなく、二人を送り出す者としての優しさが込められていた。
蕾と零も席を立ち、揃って一礼する。
「ありがとうございました!」
静かに扉が閉まる。
作戦室を出た途端、張り詰めていた空気がふっとほどけた。
蕾は胸の前で両腕を伸ばしながら、大きく息を吐く。
「ふぅ〜……」
僅かに肩を落とし、照れくさそうに笑った。
「思ってたより緊張しちゃった」
零は廊下を歩きながら、その様子を横目で見る。
「まだ説明を聞いただけだぞ」
いつもの気楽な足取りのまま、前へ向き直る。
「本番はこれからだ」
「分かってるよ〜」
蕾は少し頬を膨らませた。
けれど、すぐに笑顔へ戻ると、駆け足で零の隣へ並ぶ。
「でも、初任務なんだよ? しかも王女様の護衛!」
両手を軽く広げ、弾んだ声を上げる。
「まだ夢みたい」
廊下の大きな窓から、朝日が差し込んでいた。
磨かれた床へ二人の影が長く伸び、その向こうからは訓練場で魔法が炸裂する音が響いてくる。
零は窓の外をぼんやりと眺めた。
「会えば分かるだろ」
気楽な口調で答える。
「案外、普通の子かもしれねぇし」
蕾は思わず吹き出した。
「王女様だよ? そんなわけないじゃん」
零は僅かに口元を緩める。
「王女だって腹は減るし、眠くもなる。結局、人は人だ」
「……それは、そうかも」
蕾は納得したように笑った。
王女だからと意識し過ぎていたのかもしれない。
そう考えると、肩に入っていた力が少しだけ抜けた。
「よーし!」
蕾は前を向き、胸元で拳を握る。
「まずは、アイリス様に安心してもらえるように頑張ろう!」
零は両手をポケットへ入れたまま、変わらない足取りで歩いている。
「無理すんなよ」
その横顔は、どこまでも自然体だった。
「困ったら守護の人たちを頼ればいい。俺たちはまだ、訓練生なんだからな」
その気の抜けた言葉に、蕾は思わず笑ってしまう。
「もう。そういうところだよ、零は」
「褒めてる?」
零が不思議そうに首を傾げる。
蕾は楽しそうに笑いながら、勢いよく首を横へ振った。
「褒めてない!」
朝の廊下へ、二人の笑い声が響く。
やがて本部の自動扉がゆっくりと開き、ロンドンの澄んだ風が二人の頬を撫でた。
頭上には、青空がどこまでも広がっている。
訓練生として初めて任される任務。
そこで出会う、一人の王女。
笑って、走って、ときには失敗もして。
これから始まる一週間が、三人にとってかけがえのない思い出になることを――まだ、このときの二人は知らなかった。




