1話:神桜蕾③
「お疲れさま」
教官が、ゆっくりと二人へ歩み寄ってくる。
先ほどまで張り詰めていた訓練場には、模擬戦を見届けた安堵と興奮の余韻が残っていた。
「身体強化だけとは思えない、見事な模擬戦だった」
満足そうに頷き、零と蕾を順番に見渡す。
「二人とも、よくやった」
「ありがとうございます!」
蕾が元気よく頭を下げる。
零も隣で軽く会釈した。
「ありがとうございます」
そのときだった。
控えめな拍手が、訓練場へ響く。
「いい試合でした」
聞こえてきたのは、柔らかな女性の声だった。
二人が同時に振り返る。
観覧席から、一人の女性がゆっくりと階段を下りてきた。
春風が、肩まで伸びた銀色の髪を優しく揺らしている。
柔らかな笑顔に、穏やかな物腰。
その佇まいからは、世界最高峰の魔法組織『アストラル・オーダー』第1執行部『星刻』の執行官らしい厳しさなど、まるで感じられなかった。
(この人が、私たちの教育担当……)
蕾は思わず目を丸くする。
優しそうなお姉さん。
それが、エレノア・ヴァレンタインに抱いた最初の印象だった。
一方、零は黄金色の瞳を細め、近付いてくる女性を静かに観察していた。
(……本当に強いのか?)
感じられるのは、どこまでも柔らかな雰囲気だけ。
とても数々の実戦を潜り抜けてきた執行官には見えない。
だが――。
エレノアが二人の前で足を止めた瞬間、零の黄金色の瞳が僅かに揺れた。
威圧感はない。
魔力を放っているわけでもない。
それでも、本能だけは理解してしまった。
隙がない。
立ち姿も、重心も、こちらへ向けられた視線さえも自然でありながら、そこには一切の無駄が存在しない。
幾度となく実戦を乗り越えてきた経験が、その何気ない佇まいに表れていた。
(……強い)
思わず息を呑む。
それが、零の率直な感想だった。
隣に立つ蕾も、同じものを感じ取ったらしい。
桜色の瞳を僅かに細め、エレノアを見つめている。
優しい笑顔の奥に隠された、圧倒的な実力。
自分たちとは、まだ大きな差がある。
二人は、ほぼ同時にそれを悟っていた。
そんな二人の視線を受けながら、エレノアは変わらず穏やかに微笑む。
「改めまして」
二人の前へ立ち、丁寧に一礼した。
「今日から半年間、お二人の教育を担当します」
穏やかな声が、訓練場へ心地よく響く。
「エレノア・ヴァレンタインです。よろしくお願いします」
蕾はぱっと表情を明るくすると、一歩前へ出て元気よく頭を下げた。
「神桜蕾です!」
弾んだ声とともに、長い黒髪がさらりと肩から流れる。
「よろしくお願いします!」
その真っ直ぐな挨拶に、エレノアは嬉しそうに目を細めた。
「ええ。よろしくお願いします、蕾さん」
続いて、零へ視線を向ける。
「黒神零です」
零は短く名乗り、軽く頭を下げた。
「よろしくお願いします」
「こちらこそ。よろしくお願いします、零さん」
二人の挨拶が終わると、教官が一歩前へ出た。
先ほどまでの和やかな空気が、僅かに引き締まる。
「では、本日付をもって――」
その一言で、周囲にいた隊員たちも自然と姿勢を正した。
「黒神零。神桜蕾」
教官は二人を真っ直ぐに見据える。
「両名を、第1執行部『星刻』へ配属する」
一瞬の静寂。
その言葉の重みを噛み締めるように、零と蕾は息を止めた。
次の瞬間――。
訓練場は、大きな拍手に包まれた。
「おめでとう!」
「期待してるぞ!」
祝福の声が、あちこちから飛んでくる。
蕾は驚いたように目を丸くしたあと、太陽のような笑顔を浮かべた。
「ありがとうございます!」
何度も頭を下げる蕾へ、周囲の隊員たちから温かな笑みが向けられる。
零も少し照れくさそうに視線を逸らしながら、先輩たちへ頭を下げた。
「ありがとうございます」
短い言葉だったが、その声には確かな喜びが滲んでいた。
拍手が落ち着くのを待ち、教官が再び口を開く。
「ただし、本日より半年間は訓練生として扱う」
言葉を区切り、隣に立つエレノアへ視線を向けた。
「教育担当は、エレノア・ヴァレンタイン執行官。半年後の最終評価をもって、正式な執行官へ任命する」
「はい!」
蕾は胸を張り、力強く返事をする。
隣では、零も真剣な表情で頷いた。
「はい」
二人の返事を聞き、教官は満足そうに目を細めた。
「以上だ」
そのままエレノアへ向き直る。
「あとは頼んだぞ、ヴァレンタイン」
「承知しました」
エレノアが静かに一礼する。
教官はもう一度だけ二人へ頷くと、その場を後にした。
入れ替わるように、エレノアが一歩前へ出る。
「それでは、お二人にこちらをお渡しします」
手にしていたのは、二冊の黒い革張りの手帳だった。
エレノアは一冊ずつ、零と蕾へ差し出す。
「お二人の訓練生手帳です」
「ありがとうございます!」
蕾は両手で大切そうに受け取った。
零も礼を述べ、差し出された手帳へ手を伸ばす。
表紙には、銀色に輝くアストラル・オーダーの紋章。
その下には、小さく『訓練生』の文字が刻まれていた。
零は、手の中に収まった手帳を静かに見つめる。
革越しに伝わる重みは、ただの手帳とは思えなかった。
一方の蕾は、宝物を受け取った子どものように表情を輝かせている。
「これが……」
そっと胸元へ抱き寄せた。
「私たちの手帳……」
零も表紙を開く。
最初のページには、自分の名前と所属が記されていた。
黒神 零
所属 第1執行部『星刻』
階級 訓練生
隣では、蕾も嬉しそうにページをめくっていた。
桜色の瞳が、そこに記された文字を何度も追いかける。
神桜 蕾
所属 第1執行部『星刻』
階級 訓練生
まだ、正式な執行官ではない。
それでも、この一冊は二人がアストラル・オーダーの一員になった証だった。
長く目指してきた場所。
その始まりに、今ようやく立ったのだ。
エレノアは、手帳を見つめる二人を優しく見守っていた。
「正式な執行官手帳をお渡しするのは、半年後です」
その言葉に、二人が顔を上げる。
エレノアは穏やかな笑みを浮かべたまま、静かに続けた。
「それまで、この手帳と一緒にたくさんのことを学び、たくさんの経験を積んでください」
蕾は迷うことなく頷く。
期待に満ちた笑顔が弾けた。
「はい!」
零も手帳を静かに閉じる。
黄金色の瞳には、先ほどまでとは違う、小さな決意の光が宿っていた。
「……頑張ります」
二人の返事を聞き、エレノアは満足そうに頷く。
「早速ですが――」
僅かに言葉を区切った。
「明日から、お二人には最初の任務へ参加していただきます」
その一言に、蕾の肩がぴくりと跳ねる。
「初任務ですか!」
身を乗り出すように一歩前へ出た蕾とは対照的に、零は驚きながらも僅かに口元を緩めた。
「いきなりか」
言葉とは裏腹に、その黄金色の瞳には期待の色が浮かんでいる。
エレノアは二人の反応を見て、小さく笑った。
「詳しい内容は、明日の朝に説明します」
春風が三人の間を吹き抜ける。
銀色の髪と二人の黒髪が、同じ風に揺れた。
「今日はゆっくり身体を休めてください」
エレノアは、先ほどまで模擬戦を繰り広げていた二人を順番に見つめる。
「万全の状態で、初任務を迎えましょう」
零と蕾は、自然と顔を見合わせた。
初めてアストラル・オーダーの一員として臨む任務。
その内容は、まだ何も分からない。
それでも二人の胸には、不安よりも大きな期待が膨らんでいた。
蕾が先に笑う。
その笑顔につられるように、零も僅かに口元を緩めた。
そして二人は、声を揃える。
「はい!」




