1話:神桜蕾②
先に仕掛けたのは零だった。
低く腰を落としたまま石畳を蹴り、一直線に蕾の懐へ飛び込む。
迷いなく突き出された左拳が、蕾の顔へ迫った。
だが、蕾は半歩だけ身体を開く。
拳は頬を掠めるように空を切り、その風圧に黒髪がふわりと揺れた。
「おっ」
思わず蕾の口から声が漏れる。
予想していたよりも鋭い一撃だったのだろう。
桜色の瞳が、わずかに見開かれた。
零はその反応を見逃さない。
今の一撃は、確かに届きかけていた。
黄金色の瞳を細め、口元へわずかな笑みを浮かべる。
「これならどうだ?」
拳を引くと同時に腰を捻る。
その勢いを乗せた裏拳が、間髪入れず蕾へ襲い掛かった。
蕾は上体を反らし、紙一重でかわす。
鼻先を鋭い風が通り過ぎ、長い黒髪がさらりと宙へ流れた。
「残念!」
楽しそうに笑いながら、人差し指を一本立てる。
その桜色の瞳には、悪戯っぽい光が宿っていた。
「まだまだ!」
挑発するような笑顔につられ、零の口元にも自然と笑みが浮かぶ。
勝負の最中だというのに、このやり取りだけは昔と何も変わらない。
「言うじゃん」
互いに一歩だけ距離を取る。
春風が二人の間を吹き抜け、揺れた黒髪が一瞬だけ互いの視界を遮った。
呼吸を整える時間は、ほんのわずか。
次の瞬間、二人は再び石畳を蹴っていた。
今度は蕾が先に出る。
小柄な身体が地面を滑るように駆け、零の右側へ回り込んだ。
放たれたのは、鋭い掌底。
零は咄嗟に腕を差し入れ、その軌道を外側へ逸らす。
同時に身体を沈め、蕾の軸足を狙って低い足払いを放った。
「――っ!」
体勢を崩された蕾の身体が、わずかに浮く。
「もらった!」
零はすぐさま踏み込み、右拳を突き出した。
黄金色の瞳が、体勢を崩した蕾を真っ直ぐに捉えている。
今度こそ届く。
そう確信した一撃だった。
しかし――。
蕾は倒れ込む勢いに逆らわず、その場で身体をくるりと回転させた。
零の拳が、あと数センチのところで空を切る。
蕾は片手を石畳へつき、しなやかに身体を翻すと、軽やかに着地した。
「惜しい!」
振り返った蕾が、楽しそうに笑う。
「あとちょっとだったね!」
零は悔しそうに舌を鳴らした。
今の読みは悪くなかった。
狙いどおりに体勢を崩し、確実に追撃へ繋げたはずだった。
だからこそ、あと一歩届かなかったことが悔しい。
「今のは入ったと思ったんだけどな」
「甘い甘い!」
蕾は人差し指を左右へ振り、悪戯っぽく目を細める。
余裕のある振る舞い。
だが、決して油断しているわけではない。
桜色の瞳は、零の僅かな動きさえ見逃すまいと真っ直ぐに向けられていた。
「もっと考えて!」
その言葉に、周囲で見守っていた新人たちから笑い声が上がる。
「息ぴったりだな」
「本当に新人か?」
感心したような声が、観覧席のあちこちから聞こえてきた。
目の前で繰り広げられているのは、とても新人同士とは思えない攻防だった。
零と蕾は、日本にいた頃から何度も模擬戦を繰り返してきた。
季節が巡り、場所が変わっても、それだけは変わらなかった。
勝敗は、いつも蕾の勝ち。
零は、まだ一度も勝てていない。
それでも諦めることなく挑み続ける零と、その成長を誰より近くで見守ってきた蕾。
長い年月を共に過ごしてきたからこそ、二人は互いの癖も、呼吸も、視線の動きさえ知り尽くしていた。
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観覧席では、エレノアが二人の足運びを静かに目で追っていた。
「本当に、息がぴったりですね」
感心したように呟く。
隣に立つ玄一は腕を組み、どこか誇らしげに笑った。
「あいつらは、昔からああなんだ」
その視線の先では、零が次の機会を窺いながら、じりじりと間合いを詰めている。
「競い合って、笑って、また競い合う」
玄一は懐かしそうに目を細めた。
「そうやって強くなってきた」
エレノアは小さく頷く。
資料を読んだだけでは分からなかった、二人を繋ぐ信頼。
それが、交わされる拳の一つひとつから伝わってきた。
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訓練場では、再び激しい攻防が始まっていた。
零が一気に間合いを詰める。
拳から肘へ。
さらに身体を捻り、蹴りへ繋ぐ。
一切の間を与えない、流れるような連撃。
踏み込むたびに乾いた音が石畳へ響き、次々と攻撃が繰り出される。
蕾も一歩も引かない。
受け流し、かわし、ときには真正面から拳を打ち合わせる。
互いの攻撃が交差するたびに風が巻き起こり、黒髪と訓練着の裾を激しく揺らした。
乾いた衝撃音が連続して響く。
周囲で見守る隊員たちは息を呑み、誰一人として二人から目を離そうとしなかった。
そして――。
零が右拳を振り抜いた、その瞬間。
蕾は身体を僅かに沈め、零の右腕を外側へ払った。
勢いを逸らされ、零の体勢が前へ流れる。
生まれたのは、ほんの一瞬の隙。
蕾の桜色の瞳が鋭く細められた。
迷いなく零の懐へ潜り込み、その腕を取る。
「――っ!」
次の瞬間、零の身体がふわりと宙へ浮いた。
一瞬だけ重力が消えたような感覚。
視界が大きく反転する。
一本背負い。
「しまっ――!」
零は咄嗟に顎を引き、身体を丸めた。
肩から石畳へ落ちながら受け身を取り、その勢いを利用して横へ転がる。
訓練着に砂埃が付くことも気にせず、すぐさま石畳を蹴った。
大きく後方へ跳び、蕾との間に距離を作る。
「あっぶねぇ……」
胸元へ手を当て、苦笑を浮かべた。
反応があと少し遅れていたら、そのまま一本を取られていただろう。
それでも、黄金色の瞳から闘志は消えていない。
「危うく終わるところだった」
負けかけたというのに、その口元には楽しそうな笑みさえ浮かんでいた。
「でも――まだだ」
零が体勢を整え、再び踏み込もうとした、そのときだった。
「遅いよ」
柔らかな声が、すぐ近くから届く。
零の瞳が大きく揺れた。
目の前には、すでに蕾がいる。
受け身を取ったあと、零が後ろへ跳ぶことまで読んでいたかのように、迷いなく間合いを詰めていた。
零が拳を握るよりも早く――。
蕾の右拳が、胸元でぴたりと止まる。
触れる寸前。
だが、この距離から放たれていれば、避けることはできなかった。
訓練場に静寂が訪れる。
先ほどまで響いていた拳の音が嘘のように消え、春風だけが二人の間を通り抜けた。
教官は二人の位置を確認すると、静かに頷く。
そして、右手を高く掲げた。
「――そこまで!」
張り詰めていた空気が、一気にほどける。
見守っていた隊員たちから、感嘆の声とともに拍手が湧き起こった。
蕾は胸元で止めていた拳を下ろすと、満面の笑みを浮かべる。
「私の勝ち!」
その笑顔を前に、零も自然と肩の力を抜いた。
自分の胸元へ視線を落とし、小さく息を吐く。
今日も、届かなかった。
あと一歩。
確実に近付いているはずなのに、その一歩がまだ遠い。
それでも、黄金色の瞳に宿る光は少しも曇っていなかった。
悔しさの奥では、次こそ勝つという意志が強く燃えている。
やがて零は苦笑を浮かべ、降参を示すように両手を上げた。
「参った」
照れ隠しのように頭を掻く。
「今日も勝てなかったな」
蕾は嬉しそうに零のもとへ駆け寄ると、右手を差し出した。
その弾むような足取りからは、勝った喜び以上に、零と本気で戦えたことへの嬉しさが伝わってくる。
「でも、今日はすっごく危なかったよ!」
その声に、お世辞は一切なかった。
本気でそう感じたからこそ、蕾の笑顔にも嘘はない。
零は差し出された手を見つめる。
一瞬だけ照れくさそうに笑うと、その手をしっかりと握り返した。
蕾がぐっと腕を引き、零を立ち上がらせる。
「慰めになってねぇ」
零が苦笑交じりに返すと、蕾はぶんぶんと首を横に振った。
黒髪が、その動きに合わせて左右へ揺れる。
「慰めじゃないもん」
蕾は零の手を離すと、改めて正面から向き合った。
桜色の瞳には、一片の曇りもない。
そこに宿っているのは、幼い頃から少しも変わらない信頼だった。
「零、また強くなったね!」
零は気恥ずかしそうに視線を逸らす。
褒められることには、昔から慣れていない。
「……勝てなきゃ意味ないだろ」
「そんなことないよ」
蕾はすぐに否定すると、一歩だけ零へ近付いた。
桜色の瞳を柔らかく細め、真っ直ぐにその顔を見上げる。
「いつか、きっと勝てるから」
短く言い切った声には、不思議なほど迷いがなかった。
その言葉を聞いた零は、僅かに目を丸くする。
やがて呆れたように笑った。
けれど、その表情には少しだけ嬉しさも滲んでいる。
「……そのときは、ちゃんと勝たせてもらう」
「うん!」
蕾は太陽のような笑顔で、大きく頷いた。
春風が二人の間を吹き抜ける。
どこからか運ばれてきた桜の花びらが、寄り添うように二人の足元へ舞い落ちた。




