1話:神桜蕾①
ロンドン郊外。
世界最高峰の魔法組織――『アストラル・オーダー』本部。
広大な敷地の一角に設けられた屋外訓練場には、朝の澄んだ空気が流れていた。
整備された芝生の向こうでは、すでに多くの隊員たちが訓練を始めている。
金属同士がぶつかる乾いた音。
新人たちの威勢のいい掛け声。
そして、ときおり響き渡る魔法の炸裂音。
それらが春風に乗り、朝の静けさを心地よく破っていた。
その訓練場を見下ろす観覧スペース。
手すりのそばで、一人の女性が手元の資料へ目を通していた。
朝日を受け、銀色の髪が柔らかく輝いている。
エレノア・ヴァレンタイン。
アストラル・オーダー第1執行部『星刻(Stellar)』に所属する執行官であり、今日から二人の新人教育を任されることになった人物である。
アストラル・オーダーでは、新人が配属後すぐに正式な執行官として認められるわけではない。
最初の半年間は訓練生として教育担当の指導を受け、実地訓練や任務への同行を重ねていく。
そして、最終評価に合格した者だけが、正式な執行官として認められるのだ。
今日から始まる半年間。
それが二人にとって、執行官になるための本当の第一歩だった。
エレノアが真剣な眼差しで資料を読み進めていると、背後から聞き慣れた声が届いた。
「もう来てたのか」
資料から顔を上げ、振り返る。
軽く片手を挙げながら、こちらへ歩いてくる男の姿があった。
第2執行部『蒼穹(Azure)』所属――黒神玄一。
「おはようございます、玄一さん」
エレノアが微笑んで会釈すると、玄一も短く応じ、そのまま隣へ並んだ。
二人の視線が、自然と訓練場の中央へ向かう。
そこでは、一組の少年少女が向かい合いながら準備運動をしていた。
黒髪に、黄金色の瞳を持つ少年。
そして、同じく黒髪に、桜色の瞳を持つ少女。
エレノアは手元の資料と二人の姿を見比べる。
「黒神零さんと、神桜蕾さん……」
今日から自分が受け持つ、二人の訓練生。
資料には、それぞれの簡単な経歴と魔法について記されていた。
黒神 零―― 12歳。
適性属性:なし。
使用魔法:銀河魔法。
神桜 蕾――12歳。
適性属性:火・水・風・土。
使用魔法:召喚魔法。
銀河魔法。
エレノアにとって、名前を目にすることさえ初めての魔法だった。
一方の召喚魔法も極めて希少ではあるが、その存在自体は知られている。
エレノアは紙面に並ぶ二つの名前へ、改めて目を向けた。
黒神――隣に立つ玄一と同じ姓。
そして、もう一つは神桜。
どちらも魔法に携わる者であれば、無視できない名前だった。
「興味深いですね」
二人の使用魔法を指先でなぞりながら、エレノアは目を細める。
「銀河魔法も召喚魔法も、実際に見るのは初めてです」
「そうだろうな」
玄一は小さく笑い、訓練場へ視線を向けた。
向かい合う二人を見つめる横顔は、どこか懐かしそうにも見える。
エレノアは資料を閉じると、ふと思い出したように玄一を見上げた。
「そういえば……」
その口元へ、わずかに悪戯っぽい笑みが浮かぶ。
「お二人とも、玄一さんとは縁の深い子たちなんですよね?」
「耳が早いな」
玄一は困ったように笑う。
「しかも、その二人が揃って私の班ですか」
エレノアは閉じた資料を胸元へ抱えた。
「昔から、人事に口を出すのは得意でしたものね」
「相変わらず手厳しいな」
玄一の口から苦笑が漏れる。
長い付き合いだからこそ交わせる、遠慮のないやり取りだった。
エレノアは小さく笑ったあと、探るように首を傾げる。
「それで、実際のところは?」
「何がだ?」
「少しくらい、裏で手を回したのではありませんか?」
玄一はすぐには答えなかった。
一瞬だけエレノアから目を逸らし、訓練場へ視線を逃がす。
「……まあ、多少はな」
「やっぱり」
予想どおりの答えに、エレノアは堪えきれず笑みをこぼした。
玄一も観念したように頭を掻く。
必要だと思えば、多少の無茶は平然とやってのける。
昔から変わらない人だった。
ただし、私情だけで組織を動かすような人物ではないことも、エレノアはよく知っている。
向かい合っていた零と蕾が、準備運動を終える。
まだ模擬戦は始まっていない。
それでも、互いを見据える二人の眼差しには、一切の油断がなかった。
「もちろん、実力があるからお前に預けた」
玄一の声から、先ほどまでの軽さが消える。
「あいつらには、それだけの力がある」
「随分と高く評価しているんですね」
「ああ」
迷いのない返事だった。
玄一は二人を見守ったまま、穏やかに目を細める。
「それに、お前なら半年で立派な執行官に育ててくれる」
その言葉に、エレノアは少しだけ目を丸くした。
冗談めかした持ち上げ方ではない。
玄一は本気でそう信じ、自分へ二人を託したのだ。
エレノアは改めて訓練場へ目を向ける。
資料に記された経歴や数値だけでは分からないものがある。
二人の纏う空気。
互いの実力を知っているからこそ生まれる、心地よい緊張感。
長いあいだ競い合い、互いを高めてきたことが、その立ち姿だけでも伝わってくる。
春風が吹き抜け、エレノアの銀髪を優しく揺らした。
期待と責任。
その両方を胸に抱きながら、彼女は小さく息をつく。
「……責任重大ですね」
「だから、お前に頼んだ」
玄一は満足そうに頷いた。
もう一度、零と蕾へ目を向ける。
その眼差しには、組織の人間としての冷静さではなく、二人の成長を見守る家族としての優しさが宿っていた。
「どっちも、俺にとって特別な子だからな」
「親バカですね」
エレノアが思わず笑う。
玄一は否定することなく、わずかに肩を揺らした。
「親ってのは、そんなもんだ」
その表情からは、息子である零だけでなく、蕾のことも同じように大切に思っていることが伝わってくる。
やがて玄一は、少しだけ真剣な顔でエレノアを見た。
「二人を頼む」
短い言葉だった。
だが、そこに込められた信頼の重さは十分に伝わった。
エレノアはその視線を正面から受け止める。
そして、安心させるように柔らかく微笑んだ。
「ええ。任せてください」
訓練場では、模擬戦開始の合図を待つ二人の間に、少しずつ張り詰めた空気が広がっていた。
エレノアは二人から目を離すことなく、静かに言葉を続ける。
「半年後が楽しみですね」
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訓練場の中央。
教官の右手が高く掲げられる。
その動きに合わせるように、周囲で訓練していた隊員たちも次々と手を止めた。
先ほどまで響いていた掛け声が、いつの間にか消えている。
誰もが、二人の新人による模擬戦へ注目していた。
春風が、向かい合う零と蕾の間を静かに吹き抜ける。
二人の黒髪が揺れ、訓練着の裾が小さくはためいた。
それでも、互いを捉えた視線だけは一瞬たりとも逸れない。
相手がどう動くのか。
どちらが先に仕掛けるのか。
言葉を交わさなくとも、二人の間ではすでに静かな駆け引きが始まっていた。
観覧スペースに立つエレノアも、無意識に胸元の資料を抱え直す。
隣の玄一は腕を組み、落ち着いた表情で二人を見つめていた。
「使用を許可するのは、身体強化魔法のみ」
静まり返った訓練場へ、教官の声が響き渡る。
「それ以外の魔法の使用は禁止とする」
零がゆっくりと腰を落とす。
気怠げだった表情から余計な力が消え、黄金色の瞳が鋭く研ぎ澄まされた。
向かいに立つ蕾も片足を引き、すぐに踏み込める体勢を取る。
その桜色の瞳には緊張よりも、これから始まる勝負を楽しむような輝きが宿っていた。
「勝敗は一本」
教官は二人の準備が整ったことを確認する。
一拍の静寂。
高く掲げられていた右手が、力強く振り下ろされた。
「――始め!」
その瞬間。
零と蕾は、ほぼ同時に石畳を蹴った。
乾いた踏み込み音が重なり、二人の距離が一気に縮まる。
誰も声を上げない。
静まり返った訓練場へ響くのは、石畳を駆ける二人の足音だけだった。
大変お待たせしました。
本日から1日1エピソードを目標に1.5章を投稿していきます。
予定では7月までは1.5章の投稿になります。
2章は8月から投稿予定です。




