第1章エピローグ③:白の約束―託されたもの―
時は少し遡り――。
漆黒の流星事件が解決した日の夕暮れ。
屋上をあとにした零と鈴華は、夕焼けに染まる街を並んで歩いていた。
春風が優しく吹き抜け、長く伸びた二人の影が歩道に並ぶ。
事件を終えたばかりだというのに、不思議と気まずさはなかった。
言葉を交わさなくても、同じ景色を眺めながら歩く時間が、今はどこか心地よい。
やがて交差点へ差しかかったところで、零が足を止めた。
「じゃあな」
鈴華も立ち止まり、小さく頷く。
「はい」
ここから先は、別々の道だった。
零は自宅へ。
鈴華は風紀部員として、現場検証と事情聴取のために、もう一度廃工場へ戻らなければならない。
ほんの少しだけ、この穏やかな時間が続けばいいのに――。
そんな思いが胸をよぎる。
けれど、それを口にすることはできない。
鈴華が零へ背を向けようとした、その時だった。
「そうだ」
不意に呼び止められ、鈴華が振り返る。
「どうしました?」
零の視線は、鈴華の肩に掛けられた黒いコートへ向けられていた。
そのまま、今度はコートの隙間から覗く制服を指差す。
「その格好」
鈴華もつられるように、自分の制服へ視線を落とした。
廃工場での戦いによって、袖や裾には煤や焦げ跡が残っている。
「あ……」
今さら気付いたように、小さな声を漏らした。
零は呆れたように目を細める。
「そのまま戻るわけにもいかないだろ」
「そうですね……」
鈴華は困ったように苦笑した。
この姿で戻れば、何があったのかと余計な心配を掛けてしまう。事情を説明するにしても、まずは制服の損傷を隠した方がいいだろう。
零は僅かに視線を逸らし、何でもないことのように告げる。
「だから、そのコートはお前にやる」
鈴華が驚いて顔を上げた。
「え?」
予想もしなかった言葉だった。
零は片手をポケットへ入れたまま、気怠げに続ける。
「替えならあるし、返さなくていい」
夕暮れの風が二人の間を通り抜け、黒いコートの裾を揺らした。
鈴華は胸元へ視線を落とす。
まだ僅かに残っている温もり。
廃工場で、零が自分を守るようにこのコートを掛けてくれた瞬間が、鮮明に蘇った。
胸の鼓動が、僅かに速くなる。
「でも……」
鈴華は戸惑いながら、零を見つめた。
「大切な物なんじゃないですか?」
零は一度だけ、黒いコートへ目を向ける。
「特別製だからな」
アストラル・オーダーの執行官へ支給される、防御術式の施されたコート。
多少の攻撃なら、身に着けた者を守ってくれる。
だからこそ、簡単に人へ譲っていい物ではない。
それが分かっているから、鈴華も素直に受け取れずにいた。
「だったら、なおさら――」
「いいんだよ」
零の短い言葉が、鈴華の遠慮を遮った。
ぶっきらぼうな口調とは裏腹に、その黄金色の瞳はどこか穏やかだった。
零は僅かに頭を掻き、照れくさそうに視線を逸らす。
「……お前が持っててくれた方が、俺も気が楽だ」
その言葉に、鈴華は息を呑んだ。
何気なく口にしたような一言。
けれど、鈴華には十分だった。
零はただ制服の汚れを隠すためだけに、コートを渡そうとしているのではない。
自分を信じ、大切な物を託してくれようとしている。
その事実が、胸の奥へ温かな光を灯していく。
何と返せばいいのか分からない。
鈴華は黒いコートの胸元をそっと握ると、零を見つめて小さく頷いた。
「……ありがとうございます」
その表情を見て、零も僅かに口元を緩めた。
「ああ。気にすんな」
気怠げに片手を上げ、そのまま踵を返す。
「じゃあな」
「はい。また学校で」
零は振り返らず、軽く手を振った。
鈴華は、その背中が夕暮れの人混みへ溶けて見えなくなるまで、静かに見送った。
やがて、自分の肩を包む黒いコートをそっと抱き寄せる。
そこに残る温もり。
そして、零から託されたもの。
それは一着のコートだけではない。
自分へ向けられた、小さな信頼だった。
夕暮れの街を春風が優しく吹き抜ける。
鈴華はその温もりを胸に抱いたまま、零とは反対の道へ、ゆっくりと歩き出した。




