プロローグ〜最後の任務②
数時間後――
イギリス・ロンドン郊外。
夜の街並みを見下ろす高台に、ガラスと鋼鉄で造られた巨大施設が佇んでいた。
無機質でありながら、洗練された近未来的な外観。壁面に刻まれた星の紋章が、青白い照明を受けて静かに輝いている。
魔法が人々の暮らしに根づいた現代。
それに伴って魔法犯罪も複雑化し、もはや一つの国だけでは対処できない事件も増え続けていた。
国境を越えて活動する犯罪組織。
違法に取引される魔法技術。
強大な力を持つ魔法犯罪者。
そうした世界規模の脅威に対抗するため、各国の魔法機関と連携しながら、魔法事件を監視する組織が存在する。
世界各国で発生する魔法犯罪を監視し、必要とあれば執行官を現地へ派遣する国際魔法機関『アストラル・オーダー』
表向きは国際魔法研究機関。
しかし、その実態は国家の枠を越えて魔法事件へ介入する、世界最高峰の国際執行機関である。
その最上階――作戦室。
壁一面を覆う大型モニターには、世界各地から送られてきた魔法事件の情報が映し出されていた。
各国の被害状況、逃走中の魔法犯罪者、現地へ派遣された執行官の現在地。膨大な情報が絶えず更新される中、スタッフたちは慌てることなく端末を操作している。
響くのは、指先がキーを叩く音と電子音だけ。
誰もが自らの役割を理解し、必要な情報を正確に処理していた。
その静けさの中、自動ドアが開く。
「よ」
気怠げな声とともに、黒神零が作戦室へ入ってきた。
黒いロングコートの裾には、先ほどの戦闘で付着した白い埃が残っている。
だが、それを気にする様子もなく、片手をポケットへ入れたまま室内を進んでいく。
数人のスタッフが零へ視線を向けた。
コートの状態から、今回も何かあったことは察したらしい。
だが、誰も声には出さず、すぐに自分の端末へ視線を戻した。
零はそのまま一番奥のデスクまで歩き、一冊の報告書を机の上へ置く。
「依頼完了」
デスクに向かっていた女性が、ゆっくりと顔を上げた。
銀色の髪が肩口で揺れる。
整った顔立ちに、知性を感じさせる蒼い瞳。
黒を基調とした制服の胸元には、アストラル・オーダー長官の徽章が輝いている。
エレノア・ヴァレンタイン。
20代後半という若さで、世界最高峰の組織を束ねる女性だった。
零の姿を認めた瞬間、その蒼い瞳から張り詰めていたものが消える。
「おかえりなさい、零」
長官としてではない。
彼の帰還を待っていた、親しい者としての声だった。
エレノアは零の顔から足元まで確かめる。
コートは汚れているものの、目立った負傷は見当たらない。
それを確認し、安堵したように表情を緩めた。
「今回も無事で何よりよ」
零は近くの椅子を引き、気怠そうに腰を下ろす。
「この程度で怪我してたら、エレ姉に何を言われるか分からねぇからな」
「それなら、少しくらい心配させない帰り方を覚えてほしいわね」
零は不思議そうに眉を上げる。
「ちゃんと玄関から入ってきただろ」
「そういう意味ではありません」
即座に返され、零は小さく肩をすくめた。
エレノアは苦笑しながら報告書を手に取る。
これまで何百冊と目を通してきた任務報告書。
しかし、零のものを開くときだけは、わずかに覚悟が必要だった。
1枚目を確認し、2枚目へ進む。
やがて、ある記述を見つけたところで指が止まった。
「……零」
低くなった声に、零は嫌そうに眉を寄せる。
「なんだよ」
「また建物を半壊させたの?」
エレノアが報告書を持ち上げる。
零は視線を逸らすことなく、当然のように答えた。
「古かったからな」
「古ければ壊していいわけではないのよ」
「放っておいても、そのうち崩れてた」
「あなたが、その時期を早めたのでしょう?」
問い詰めるような視線を向けられ、零は頬を指先で掻いた。
「まあ、いつものことだろ。もう慣れたんじゃねぇの?」
「慣れたくありません」
エレノアはきっぱりと否定し、報告書を机へ置く。
「あなたが壊すたびに、各部署への説明と現地への補償手続きが必要になるのよ」
「そりゃ悪かった」
零は少しだけ申し訳なさそうに目を細める。
その反応を見て、エレノアが疑うように眉を上げた。
「本当に反省している?」
「一応」
「一応、なのね」
呆れたような息が漏れる。
零は悪びれることなく口元を緩めた。
エレノアも厳しい表情を保とうとしたが、やがて堪えきれずに小さく笑う。
こんなやり取りを、もう何年続けてきただろう。
執行官と長官。
上司と部下。
それだけでは言い表せない信頼が、2人の間にはあった。
笑みが収まると、エレノアは机の上に置かれていた別の書類へ手を伸ばした。
その表紙へ視線を落とし、静かに息を整える。
「黒神零」
先ほどまでの柔らかさが消えた。
アストラル・オーダー長官としての公的な声音に、零もわずかに姿勢を正す。
「日本への帰国と、特別休暇を求める申請について確認します」
作戦室の空気が変わった。
周囲のスタッフたちは変わらず作業を続けている。
それでも、二人の間にだけ、ほかから切り離されたような静けさが生まれていた。
「決心は変わらないのね?」
零は椅子の背もたれから身体を起こす。
その視線が、窓の向こうへ向けられた。
ガラス越しに広がるロンドンの夜景。長い時間を過ごしてきた街の灯りが、静かに瞬いている。
「ああ」
答えは短かった。
だが、その声に迷いはない。
エレノアは零の横顔を見つめる。
「蕾との約束を果たすため?」
その名前が告げられた瞬間、零の黄金色の瞳がわずかに揺れた。
けれど、目を伏せることも、苦しそうに顔を歪めることもなかった。
ただ遠い何かを思い出すように、窓の向こうへ広がる夜景を見つめている。
「あいつ、言ってたんだ」
零の声が、先ほどよりもわずかに柔らかくなる。
「学校に行ってみたいって」
在りし日の蕾の笑顔が、記憶の中に浮かぶ。
太陽のように明るく笑いながら、いつか学校へ通ってみたいと話していた。
零は懐かしそうに目を細める。
「俺たち、小学の時にこっちへ来たからな」
「ちゃんとした学生生活なんて、ほとんど送れてなかったし」
任務と訓練に明け暮れる毎日。
同年代の子供なら当たり前に過ごしているはずの時間を、自分たちはほとんど知らなかった。
エレノアは零の横顔を見つめ、静かに尋ねる。
「それで、日本の学校へ?」
「ああ」
零は短く頷いた。
「あいつと約束したからな」
多くは語らない。
けれど、その一言が零にとってどれほど重いものなのか、エレノアは誰よりも知っていた。
蕾を失ったあと、零がどれほど自分を見失っていたのか。
その彼がようやく、自分の意志で前へ進もうとしている。
エレノアは寂しさを隠すように、わずかに口元を緩めた。
「本当に不器用ね」
「褒め言葉として受け取っとく」
「褒めてないわ」
「知ってる」
零が小さく笑う。
エレノアも、つられるように微笑んだ。
短い笑いが消えると、彼女は書類を胸の前で持ち直す。
「黒神零」
長官として、改めて零の名を呼ぶ。
零は椅子から立ち上がり、真っ直ぐにエレノアと向き合った。
「本日をもって、第1執行部『星刻』特別執行官としての任務を一時停止します」
「あなたの特別休暇を許可します。期間は最長三年間です」
エレノアは承認印の押された書類を差し出した。
零はそれを受け取り、内容へ軽く目を通す。
しばらく書面を見つめたあと、小さく息を吐いた。
「……助かる」
普段の零からすれば、それだけで十分すぎるほどの感謝だった。
エレノアも、それ以上の言葉を求めることはない。
「その間は、一人の高校生として好きなように過ごしなさい」
優しく微笑んだあと、エレノアは人差し指を立てる。
「ただし」
声と表情に、わずかな厳しさが戻った。
「日本で問題を起こした場合は、休暇を取り消して直ちに呼び戻します」
零は書類を閉じ、無造作にコートの内ポケットへ入れた。
「善処する」
「保証はしてくれないの?」
「無理な約束はしない主義なんだ」
予想どおりの返事に、エレノアは力が抜けたように肩を落とす。
「そこは少しくらい安心させてほしかったわ」
「俺が普通に学校へ通うだけだぞ。何も起きねぇって」
零は気楽に言い切った。
エレノアは数秒間、その顔を見つめる。
「……あなたが言うと、余計に不安になるわね」
近くで聞いていたスタッフの一人が、堪えきれずに小さく吹き出す。
零がそちらへ視線を向けると、スタッフは慌てて端末へ顔を戻した。
「信用ねぇな」
「これまでの行動を振り返りなさい」
エレノアに即答され、零は諦めたように片手を上げる。
「へいへい」
そのまま踵を返し、作戦室の出口へ向かって歩き出した。
自動ドアの前まで来たところで、足を止める。
「エレ姉」
呼ばれたエレノアが、零の背中を見つめた。
零は振り返らない。
「ありがとな」
普段と変わらない、気怠げな声。
それでも、その言葉が照れ隠しだとエレノアには分かっていた。
彼女は込み上げた感情を胸の奥へ収め、いつもの穏やかな笑みを浮かべる。
「どういたしまして」
零は片手を軽く上げた。
「何かあったら連絡する」
「ええ。いつでも連絡してきなさい」
一度だけ頷き、零が自動ドアの向こうへ足を踏み出す。
「行ってらっしゃい、零」
その声を背中で受けながら、零は作戦室をあとにした。
自動ドアが静かに閉まる。
廊下を進んでいく足音も、やがて聞こえなくなった。
作戦室には再び、端末を操作する音と電子音だけが残される。
エレノアは閉ざされた扉を、しばらく見つめていた。
大切な部下を送り出す寂しさはある。
それでも、もう一度前へ進もうとする零を引き止めたいとは思わなかった。
「……楽しんできなさい」
誰にも聞こえないほど小さな声で呟く。
その言葉には、世界最高峰の組織を束ねる長官としてではなく――
零の帰る場所であり続けた、一人の姉としての優しさが込められていた。




