プロローグ〜最後の任務①
欧州某国。
深い霧に包まれた英国様式の廃マナーハウスが、夜の闇の中に静かに佇んでいた。
朽ちた鉄門は錆びつき、割れた窓からは冷たい風が時折吹き込み、崩れ落ちた噴水は苔に覆われて形を失っていた。
かつて栄華を誇ったその屋敷は、今では犯罪組織のアジトと化していた。
静まり返った夜を破るように、突然の爆音が響き渡る。
石壁が砕け散り、窓ガラスが宙を舞った。
「いたぞ!」
「囲め!」
「逃がすな!」
怒号と共に武装した男たちが次々と姿を現す。
炎が右手へ集まり、雷が腕を走り、風が渦を巻く。
空気が震えるほどの魔力が屋敷中を満たしていく。
普通の魔法使いなら、その圧力だけで足を止めてもおかしくない。
だが、その中心に立つ少年だけは違った。
まるで散歩の途中で呼び止められたような、気怠い姿勢。
黒いロングコートを羽織り、夜風に黒髪を揺らしながら、黄金色の瞳だけが静かに敵を映している。
黒神零は小さくため息をついた。
「ったく……面倒くせぇな」
まるで敵意すら感じていない。
彼にとって、この程度の包囲は日常の延長に過ぎなかった。
炎の魔法使いが右手を振り上げる。
魔法を放とうとした、その瞬間。
零が静かに口を開いた。
「銀河星――バージョン隕石」
右手を軽く掲げる。
その動作は、あまりにも自然だった。
次の瞬間、彼の背後に無数の黒い星々が静かに姿を現した。
1つ1つは拳ほどの大きさ。
漆黒でありながら禍々しさはなく、紫銀色の粒子を纏いながら、夜空の星々のように静かに浮かんでいる。
何十。何百。それ以上。
夜空そのものが、零の背後へ降り立ったかのようだった。
「……何だ、あれ」
敵の1人が思わず息を呑む。
未知の魔法。
見たこともない魔力。
本能が危険を告げていた。
零は興味なさそうに右手を軽く振る。
「連射」
黒い星々が一斉に降り注ぐ。
まるで夜空から流星群が降り注ぐように。
1発1発が意思を持つように軌道を描き、標的だけを正確に撃ち抜いていく。
炎を放つより遥かに速く、無数の流星が男の肩、腕、足元を正確に撃ち抜いた。
残るは1人。
リーダー格の男だけだった。
仲間は瞬く間に倒れた。
それでも男は逃げない。
いや、逃げられなかった。
目の前の少年から一瞬でも目を逸らせば、その瞬間に終わる。
本能がそう告げていた。
額から汗を流しながら、それでも男は魔力を練り上げ続ける。
「舐めるなァァァ!!」
眩い光が一点へ集束していく。
屋敷全体を照らす巨大な光槍。
圧縮された魔力が空気を震わせ、床石に細かな亀裂が走る。
零はようやく視線を向けた。
「……少しはやるか」
そう呟きながら、コートの肩についた埃を軽く払う。
慌てる様子はない。
まるで、これから戦う相手ではなく、ただ身だしなみを整えているだけのようだった。
内ポケットから一冊の黒い手帳を取り出す。
表紙には、一つの紋章。
世界最高峰魔法組織――アストラル・オーダー。
静かに手帳を開く。
低く響く声が、静まり返った屋敷へ広がる。
「The Astral Order」
「第1執行部『星刻(Stellar)』所属。」
男の表情が凍り付く。
「ま、まさか……!」
黄金色の瞳が男を真っ直ぐ射抜く。
「特別執行官――黒神零。」
一歩だけ前へ出る。
「これより星刻の名の下に、強制執行を開始する。」
零は静かに手帳を閉じ、そのまま内ポケットへ戻した。
男は震えながら後ずさる。
「その黒い魔法にアストラル……まさか!?」
喉が鳴る。
零は何も答えない。
ただ、口元に小さく笑みを浮かべるだけだった。
「終わりだ。」
紫銀色の粒子が一点へ集束する。
「銀河星――バージョン彗星」
今までとは違う。
無数ではない。
静かに現れたのは、1つの巨大な黒い星。
尾を引きながらゆっくりと姿を変え、漆黒の彗星が夜空へ浮かび上がる。
男は咆哮した。
「喰らえぇぇぇ!!」
巨大な光槍が放たれる。
空気を裂き、一直線に零へ迫る。
零は静かに息を吐いた。
「発射」
轟ッ――!!
黒い彗星が一直線に飛び出す。
光槍と真正面から激突。
夜空を震わせる轟音。
一瞬だけ拮抗する2つの魔法。
しかし、その均衡は長くは続かなかった。
漆黒の彗星は光槍を押し返し、そのまま粉砕する。
砕け散った光が夜空へ舞う。
「なっ……!」
彗星は男へ直撃し、その勢いのまま背後の外壁を貫いた。
轟音とともに屋敷全体が大きく揺れ、崩れた瓦礫が雨のように降り注ぐ。
男は庭園へ叩き付けられ、そのまま意識を失った。
静寂が戻る。
先ほどまで響いていた怒号は消え、聞こえるのは霧を渡る風の音だけだった。
零は倒れた男たちを見ることもなく、小さく肩をすくめる。
「……終わったか。」
短く呟くと、コートの襟を立て直す。
夜風が黒いコートを揺らした。
零は一度だけ満月を見上げる。
黄金色の瞳が静かに細められる。
そして何も言わず、深い霧の中へ歩き出した。
少年の姿は、やがて霧の向こうへ静かに消えていった。




