9話:仕組まれた罠①
昼過ぎ――。
風紀部星峰支部。
窓から差し込む午後の陽射しが支部室を静かに照らしている。
昼前まで慌ただしく動いていた部屋も、今は驚くほど静かだった。
支部長が警察との追加会議から戻ってきたのは、鈴華たちが支部を出発してから約3時間後だった。
警察本部との情報共有は予定より長引き、気が付けば昼も過ぎていた。
少し疲れた表情のまま、支部長は支部室の扉を開く。
「ただいま――」
そこまで言いかけて、言葉が止まった。
室内を見回した瞬間、その表情が険しく変わる。
「……なんだ?」
支部室には、ほとんど人影がない。
机だけが静かに並び、いつもなら聞こえる部員たちの声も見当たらない。
静かな室内には、パソコンのキーボードを叩く音だけが規則正しく響いていた。
その静けさが、かえって異様だった。
支部長の胸に嫌な予感が走る。
「まさか……。」
周囲をもう一度見渡す。
「全員出払っているのか?」
情報整理のため支部へ残っていた星野美羽が、慌てて椅子から立ち上がった。
「支部長!」
眼鏡を押し上げながら駆け寄る。
「副支部長の指示で、先輩たちは調査へ向かいました!」
支部長の眉が寄る。
「調査?」
美羽は壁へ貼られた星峰市の地図を指差した。
地図にはいくつもの印が付けられ、それぞれ担当者の名前が書き込まれている。
「警察が掴んだ情報とは別に、風紀部で独自に洗い出した候補地があったので……。」
「人手不足だったこともあって、一人ずつ担当を分けて向かっています!」
その瞬間だった。
支部長の顔色が変わる。
まるで何かを悟ったように、目が大きく見開かれた。
「まずい……!」
美羽は目を丸くする。
「支部長……?」
支部長はすぐに携帯電話を取り出した。
指先には明らかな焦りが滲んでいる。
険しい表情のまま、美羽を見る。
「追加会議で新しい情報が入った。」
一呼吸置き、低い声で続ける。
「犯人の狙いは、一般市民だけじゃない。」
その言葉に、美羽の表情が強張る。
「警察と風紀部を誘い出して襲撃する可能性が高いことが分かった。」
「えっ……。」
美羽の顔から血の気が引いていく。
頭の中で、先ほど見た地図がよみがえった。
部員たちは全員、1人ずつ別々の場所へ向かっている。
誰かが助けに入ることもできない。
「そんな……。」
小さく漏れた声には、動揺が隠せなかった。
支部長は鋭い声で指示を飛ばす。
「すぐ全員へ連絡しろ!」
「危険だ! 直ちに撤退させるんだ!」
「は、はい!」
美羽は震える手で携帯電話を取り出す。
慌てるあまり、画面を操作する指先が思うように動かない。
深呼吸を一つして気持ちを落ち着かせると、部員たちの連絡先を開き、一人ずつ電話を掛け始めた。
支部長も別の番号へ発信する。
耳へ当てた携帯電話からは、無機質な呼び出し音だけが響いていた。
一秒が、ひどく長く感じる。
どうか、まだ間に合ってくれ。
その願いだけが、支部室にいる二人の胸を強く締め付けていた。
支部室を包む空気は、先ほどまでの静けさとはまったく違うものへ変わっていた。
そこにあったのは――。
刻一刻と迫る最悪の事態への焦りだけだった。
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同じ頃――。
星峰市郊外。
街外れの工場地帯。
かつて稼働していた工場群は、今では人の姿もなく、時間だけが止まったような静けさに包まれていた。
錆び付いた鉄骨。
割れた窓ガラス。
風が吹くたび、どこかで金属が軋む音だけが響く。
その一角で、鈴華は錆びついた鉄門へ静かに手を掛けた。
ゆっくりと押し開く。
ギィ……。
耳障りな音が、静まり返った工場へ不気味に響き渡る。
鈴華は小さく息を整え、一歩だけ中へ足を踏み入れた。
薄暗い建物。
積もった埃。
使われなくなって久しい錆びた機械。
窓から差し込む僅かな光だけが、静かに床を照らしている。
湿った空気が肌へまとわり付き、どこか重苦しい空気が工場全体を包んでいた。
鈴華は慎重に周囲へ視線を巡らせる。
風紀部として培ってきた癖だった。
物陰。
2階の通路。
機械の隙間。
逃げ道になりそうな場所まで、一つひとつ確認していく。
「……静かすぎる。」
思わず小さく呟いた。
その声だけが広い工場へ吸い込まれるように消えていく。
胸騒ぎが消えない。
風紀部として活動してきた経験が、本能的に危険を告げていた。
「本当にここなのかな……。」
手元の資料のデータに目を落とす。
美羽がまとめてくれた情報に間違いはないはずだった。
それでも、人の気配がまったくない。
物音一つ聞こえない。
ここまで静かだと、逆に不自然だった。
(……ハズレだったのかな。)
胸を撫で下ろす。
事件が起きていないことへの安心。
その一方で、何も見つからなかったことへの拍子抜けした気持ちもあった。
「……戻ろう。」
小さく呟き、踵を返そうとした――その時だった。
ブルルッ。
静寂を破るように携帯電話が震える。
鈴華はすぐに取り出す。
画面には『美羽』の文字が表示されていた。
「美羽ちゃん?」
通話ボタンを押す。
受話器の向こうから、切羽詰まった声が飛び込んできた。
『白河先輩!』
息を切らした声だった。
普段の落ち着いた美羽とはまるで違う。
『すぐにそこを離れてください!』
鈴華の表情が変わる。
「どうしたの?」
美羽は震える声で叫んだ。
『追加会議で新しい情報が入りました!』
『犯人の目的は――』
一瞬、息を呑む音が聞こえる。
そして次の瞬間。
『私たち風紀部です!』
その言葉が終わるより早かった。
「へへへ……。」
背後から、粘つくような笑い声が静かな工場へ響く。
鈴華の背筋に悪寒が走る。
全身の毛が逆立つような感覚だった。
肩が小さく震える。
携帯電話を握る手へ自然と力が入る。
ゆっくりと振り返る。
そこには、強面の男が立っていた。
その顔には、獲物を見つけた肉食獣のような笑みが浮かんでいる。
さらに、その後ろから次々と男たちが姿を現す。
物陰から。機械の陰から。2階の通路から。
まるで最初からそこに潜んでいたかのように。
1人。2人。3人――。
次々と姿を現し、気付けば20人以上。
逃げ道を塞ぐように、鈴華を取り囲んでいた。
全員が下卑た笑みを浮かべている。
男は鈴華を品定めするように眺める。
そして、その視線が左腕で止まった。
風紀部の腕章。
男の口元がゆっくりと吊り上がる。
「へへ……。」
一歩前へ出る。
「その腕章……。」
「待ってたぜ。」
短く笑う。
鈴華の瞳が見開かれた。
「……っ!」
男は楽しそうに肩を揺らす。
「わざわざこんな場所まで来てくれるなんてな。」
後ろの男たちも一斉に笑い始める。
「ボス、大当たりじゃねぇか!」
「本当に来やがった!」
鈴華は無意識に一歩後ずさった。
胸の奥で警鐘が激しく鳴り響く。
もう疑う余地はない。
偶然ではない。
この男たちは、最初からここで待っていた。
自分たち風紀部が、この場所へ来ることを知った上で。
鈴華は息を整え、男を真っ直ぐ見据える。
「一つ、聞かせてください。」
「あなたが、漆黒の流星ですか?」
男は不敵に笑った。
一瞬だけ、その場が静まり返る。
男はきょとんとした表情を浮かべ――。
次の瞬間、大きく吹き出した。
「はっ!」
「そんなもん知らねぇよ。」
一歩、さらに距離を詰める。
「使える名前だから借りてるだけだ。」
後ろの男たちが声を上げて笑う。
男はゆっくりと鈴華を見据えた。
「派手に暴れてりゃ、金も人も集まる。」
「名前が売れりゃ、それだけで価値がある。」
笑みが、すっと消えた。
冷たい視線が鈴華を射抜く。
「だが――。」
「邪魔者は消えてもらう。」
工場内の空気が一気に張り詰める。
鈴華は拳を握り締めた。
(これは……。)
息を静かに整える。
碧色の瞳が男たちを真っ直ぐ見据えた。
そして、その事実を受け入れるように、小さく息を吐く。
(最初から仕組まれた罠だったんだ……。)
鈴華は即座に魔力を練り上げた。
体内を巡る魔力が、一気に両手へ集まっていく。
指先から淡い光の粒子が溢れ出した。
「幻影展開――!」
澄んだ声と同時に、光が鈴華の身体を包み込む。
柔らかな輝きが広がり、その姿がゆらりと揺れた。
次の瞬間。
1人。2人。3人。
工場内に複数の鈴華が現れる。
どの姿も本物と見分けが付かない。
光の屈折を利用した幻影魔法。
視覚だけではない。
魔力の気配までも欺く、鈴華が最も得意とする魔法だった。
男たちが一斉に周囲を見回す。
「どれが本物だ!?」
「見失ったぞ!」
「くそっ!」
工場内に動揺が広がる。
鈴華はその一瞬の隙を逃さなかった。
音を立てないよう床を蹴る。
幻影とは逆方向へ身体を滑らせるように走り出した。
狙うのは、ただ一つ。
出口。
(今なら……!)
あと数メートル。
鉄門まで辿り着けば、一度距離を取れる。
応援を呼ぶ時間も稼げる。
そう思った、その時だった。
「なるほどな。」
低い声が工場内へ静かに響く。
鈴華は思わず足を止めた。
その声には焦りがない。
追い詰められた者の声ではなく、余裕そのものだった。
男は腕を組み、ゆっくりと幻影を見回している。
1人。
また1人。
まるで品定めでもするかのように眺めながら、小さく頷いた。
「幻影魔法か。」
感心したように口笛を吹く。
「面倒なもん使いやがる。」
だが、その表情に焦りは微塵もない。
むしろ――楽しんでいるようだった。
鈴華の胸に嫌な予感が走る。
(……違う。)
(この人、全然慌ててない。)
男はゆっくりと右手を持ち上げる。
「だが――。」
その足元から、黒い霧が静かに溢れ始めた。
煙のようでありながら、どこか生き物のようにも見える禍々しい闇。
「甘い。」
男が小さく呟く。
黒い霧は床を這うように広がっていく。
音もなく。
ゆっくりと。
それでいて確実に工場全体を飲み込んでいった。
鈴華は思わず息を呑む。
(この魔力……!)
肌が粟立つ。
冷たいものが背中を這い上がるような感覚だった。
次の瞬間。
黒い霧が一体の幻影へ触れる。
パリン。
ガラスが砕けるような音と共に、その幻影が光の粒子となって消え去った。
「えっ……!」
鈴華の表情が強張る。
2人目。
3人目。
霧は迷うことなく幻影だけを捉え、次々と打ち砕いていく。
「そんな……!」
得意魔法だった。
風紀部でも何度も実戦で通用してきた。
それなのに。
まるで最初から見抜かれていたかのように、幻影が消されていく。
男は肩を揺らし、愉快そうに笑った。
「見えなくても関係ねぇ。」
その一言と同時に、黒い霧が一斉に鈴華へ襲い掛かる。
腕。足。腰。
全身へ蛇のように絡み付き、一瞬で自由を奪った。
「きゃっ!」
身体がふわりと宙へ持ち上がる。
足が床から離れ、身体が宙へ吊り上げられる。
同時に、最後まで残っていた幻影も砕け散った。
工場の中央に残されたのは、本物の鈴華ただ1人。
男はその姿を見上げ、ゆっくりと笑みを深める。
「捕まえた。」




