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漆黒の流星《ブラックスター》  作者: ショウ
第2.5章:赤点殲滅作戦

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4話:それは数学です①〜鏡野の参加〜

土曜の朝の駅前は、平日とは違う顔をしていた。


改札を抜けてくる人の流れがゆるやかで、制服の姿はほとんどない。

ロータリーの向こうでは、パン屋の店先に焼きたての札が掛けられている。

まだ九時前だというのに、日差しはもう肌を刺すような強さだった。


鈴華は改札前の柱の陰に立ち、何度目か分からない確認をした。


鞄の中には、数学と英語の教科書。

昨夜遅くまでかかって作った、分数と方程式の練習問題。国語の漢字プリント。

忘れ物はない。

忘れ物はない。問題は、そこではなかった。


(……本当に、何も言わなくてよかったのでしょうか)


水曜も、木曜も、金曜も、放課後の図書室で黒神くんと顔を合わせた。

そのたびに、言おうとした。そのたびに、澪の「伝えなくていい」が頭の中で響いて、言葉が喉の奥へ引っ込んだ。

結局、何も言えないまま土曜日が来てしまった。


「おはよう、白河」


声をかけられて顔を上げると、天野が改札から出てくるところだった。

薄手のシャツに、教科書の詰まった肩掛け鞄。

私服でも、どこか几帳面な印象が変わらない。


「おはようございます、天野くん」


「黒神は?」


「まだです。九時に、ここで待ち合わせのはずなんですけど」


零の家まで、零が案内する。

そういう約束だった。

天野が腕時計に目を落とした、そのときだった。


「諸君、待たせたな!」


ロータリーの向こうから、よく通る声が響いた。

振り向くまでもなかった。

七三分けの眼鏡が、大きな紙袋を両手に提げて歩いてくる。

紙袋の中から、何やら色とりどりの包装が覗いていた。


「影山、その荷物なんだよ」


天野の問いに、影山は紙袋を掲げて胸を張った。


「兵站だ。長期戦に備えた物資である」


「お菓子だろ、それ」


「兵站だ」


言い張る影山から、天野は目を逸らした。

これ以上は付き合わない、という意思表示だった。

そこへ、もう一つの足音が近づいてきた。

改札の方から、青みのあるグレーの長い髪が揺れながらやってくる。

白いブラウスに、紺のスカート。

手には、教科書の入った手提げが一つ。

鈴華の肩に、力が入った。

天野と影山が、同時にその姿を見て、同時に固まった。


「……鏡野?」


天野の声が、半音上ずっていた。

鏡野は三人の前で足を止め、軽く会釈した。


「おはよう」


それだけ言って、鈴華の隣に並ぶ。

当然のように、最初からそこにいるはずだったような顔で。

天野の目が、鏡野と鈴華の間を往復した。


「えっと……鏡野も、来るのか?」


「監視役として」


「監視?」


天野が聞き返すと、鏡野は表情を変えずに頷いた。


「一人暮らしの男子の家に、男女が集まる勉強会。風紀部として、見過ごすわけにはいかない」


鏡野はそこで、天野と影山を順に見た。


「それに、あなたたち問題児のところに白河が行くのなら、なおさら」


天野が瞬きをした。


「……俺も、入ってるのか?」


「入学早々から、黒神零とつるんでいる」


「それだけで?」


鏡野は答えなかった。答える必要もない、という顔だった。

天野は黙り込んだ。

入学以来、授業を真面目に受け、課題を期限内に出し、影山の暴走を止め続けてきた男の心外そうな顔だった。

影山だけが、なぜか誇らしげに眼鏡を押し上げた。


「ほほー。学年首席殿に問題児と認定されるとは、実に光栄だ」


「喜ぶなよ」


天野の力ない呟きは、朝のロータリーの喧騒に紛れて消えた。

鈴華は曖昧に微笑んで、視線を逸らした。


時計の針が、九時を回った。

五分が過ぎた。

十分が過ぎた。

零は来なかった。

鈴華は端末を取り出し、通話ボタンを押した。

呼び出し音が、耳元で繰り返される。

五回、十回ーーー

応答はない。


「……出ません」


「寝てるな、あれは」


天野が確信を込めて言った。

影山が紙袋を片手に持ち替え、鞄から例の分厚い計画書を取り出した。

どうやら、本人の手元にも一冊あるらしい。


「計画書、第一章によれば、同志黒神の休日の推定起床時刻は十時半。まだ一時間以上ある」


「そんなとこまで調べてたのかよ」


「情報屋だからな」


鏡野が腕時計を見て、それから三人を見回した。


「待っていても仕方がない。家まで行った方が早い」


「でも、場所が」


天野が言いかけた、そのときだった。


「行きましょう。こっちです」


鈴華は鞄を持ち直し、迷いなく歩き出していた。

ロータリーを抜け、商店街の方ではなく、住宅街へ続く坂道の方へ。

信号の手前で一度だけ立ち止まり、左右を確認してから渡る。

足取りに、一切の迷いがない。

三人は、少し遅れてそのあとに続いた。

最初の角を曲がり、二つ目の角を右へ。

公園の脇を抜けて、細い路地へ入る。


「ほほー」


背後から、影山の声が聞こえた。


「白河嬢。実に的確な道案内だ」


鈴華の足が、ぴたりと止まった。

背中に、三人分の視線が突き刺さる。

振り返らなくても分かった。

影山の眼鏡が光り、天野が首を傾げ、澪が無言でこちらを見ている。


「……ち、地図アプリで、調べておきましたので」


鈴華は前を向いたまま答えた。


「ほう。しかし白河嬢、駅を出てから一度も端末を見ていないようだが」


鈴華の顔が、耳まで熱くなった。

天野が、静かに呟く。


「……やっぱり、行ったことあるんだな」


鈴華は何も言えなかった。

言えば言うほど、墓穴が深くなる。

それだけは、この数日で嫌というほど学んでいた。

鏡野だけが、何も言わなかった。

ただ、鈴華の背中を見つめる視線の重さだけが、ずっと変わらずにそこにあった。

鈴華は唇を結び、黙って歩き出した。

路地を抜けた先に、その家はあった。

住宅街の一角に建つ、二階建ての一軒家。

一人で住むには、確かに広すぎる大きさだった。

鈴華はインターホンの前に立ち、ボタンを押した。



---



音が鳴っていた。

どこか遠くで、何度も、執拗に。

零は枕に顔を埋めたまま、その音を無視しようとした。

夢の中の音かもしれない。

そうであってほしい。


音が止まった。

安堵して、もう一度眠りに落ちかけたところで、また鳴り始めた。

今度は、さっきよりも間隔が短い。

零は薄く目を開けた。

カーテンの隙間から、容赦のない日差しが差し込んでいる。

枕元の時計を見る。

九時二十分。

九時、駅前、待ち合わせ。

頭の中で、単語が一つずつ繋がっていく。


「……あ」


零は布団を跳ね除けた。

寝間着代わりのTシャツのまま、階段を駆け下りる。

跳ねた髪を手櫛で押さえつけようとして、無駄だと悟ってやめた。

インターホンのモニターを確認する余裕もなく、玄関の鍵を開ける。

扉を押し開けると、夏の日差しが一気に流れ込んできた。


眩しさに目を細める。

玄関の前に、鈴華が立っていた。

申し訳なさそうな、それでいて何かを諦めたような、複雑な顔をしている。

その後ろに、紙袋を提げた影山。

何かをこらえるように口元を引き結んでいる。

その隣に、天野。

零の寝癖を見て、軽く片手を挙げた。

そして、そのさらに後ろ。

青みのあるグレーの長い髪が、朝の風に揺れていた。

零は扉のノブを握ったまま、固まった。

四月の模擬戦で向かい合った顔が、表情一つ変えずにこちらを見ている。


「……なんでいるの?」


寝起きの掠れた声が、住宅街の朝に間抜けに響いた。

鏡野は一歩前に出た。

紫の瞳が、零の寝癖から、よれたTシャツまでを淡々と眺めていく。


「風紀部として、監視に来た」


「監視」


「一人暮らしの男子の家。何か問題が起きないとも限らない」


零は鏡野から視線を外し、鈴華を見た。

鈴華は、零と目が合った瞬間に顔を逸らした。

頬が赤い。

零はそれで、大体の事情を察した。


「……白河」


「……ごめんなさい」


蚊の鳴くような声だった。

影山が、ついに耐えきれなくなったように肩を震わせ始めた。

紙袋の中身が、がさがさと音を立てる。

天野が肘で小突いても、止まる気配はない。


零は首の後ろを掻いた。

寝起きの頭では、何をどう言えばいいのか分からない。

追い返す理由を探そうとして、面倒になってやめた。


「……まあ、いいや。上がれよ」


零は扉を大きく開け、玄関の奥へ顎をしゃくった。


「散らかってっけど、勝手にやってくれ。俺は顔洗ってくる」


「お邪魔します」


鈴華が小さく頭を下げ、靴を脱いだ。

天野と影山がそれに続く。

最後に、鏡野が玄関に足を踏み入れた。


零とすれ違う瞬間、鏡野の視線がほんの一瞬だけ、零の顔の上で止まった。

何かを確かめるような、測るような目だった。

零は気づかないふりをして、洗面所へ向かった。



---



リビングに通された四人は、それぞれに部屋の中を見回した。


広い部屋だった。

大きな窓から朝の光が差し込み、フローリングの床を白く照らしている。

中央には、五人で囲んでも余るくらいのローテーブル。

壁際には、大きめのソファとテレビが置かれていた。


散らかっている、と零は言っていたが、部屋は十分に片付いていた。

テレビ台の下にはゲーム機がきちんと収まり、キッチンのカウンターには、菓子の箱や袋が几帳面に並べられている。

クッキー、チョコレート、マシュマロ。

そこだけは、一人暮らしの男子高校生の家とは思えない品揃えだった。


「……広いな」


天野が、感心したように呟いた。

その視線が、カウンターの菓子の列で止まる。


「あと、甘いものの量がすごいな」


影山が紙袋をローテーブルに置き、眼鏡の奥で目を輝かせた。


「計画書の生態調査が、見事に裏付けられた。これは貴重な一次資料だ」


鈴華はカウンターの菓子を眺めて、口元を緩めた。

五月に来たときも、キッチンには甘いものがたくさん置かれていた。

変わっていないことに、少しだけほっとする。


鏡野は窓際に立ち、部屋の中を静かに見渡していた。

監視役を名乗ったとおり、家具の配置から窓の位置まで、確かめるように目を配っている。

鈴華はその横顔を見て、昇降口での言葉を思い出した。


『それに――少し、気になることもあるから』


澪が何を気にしているのか、鈴華にはまだ分からなかった。

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