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漆黒の流星《ブラックスター》  作者: ショウ
第2.5章:赤点殲滅作戦

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3.5話(幕間):昇降口にて

階段を下りきったところで、鈴華はようやく足を止めた。


一階の昇降口には、もう人の姿がまばらだった。

ガラス戸の向こうで、夕陽が校庭を橙色に染めている。

下校のピークはとうに過ぎて、遠くの運動部の掛け声だけが、かすかに届いていた。

鈴華は下駄箱の列に背中を預け、鞄を胸に抱えたまま目を閉じた。

頬が熱い。

図書室からここまで、ほとんど走るような速さで来てしまった。

風紀部員が廊下を走るなんて、と頭の片隅で思う。

思ったところで、もう遅い。


(……どうして、あんなことを)


計画表を書き写すのに夢中で、何も考えずに頷いてしまった。

黒神くんの家のリビングは広い、なんて。

そんなことを知っている理由を、自分から白状したようなものだ。


影山くんの眼鏡が光った瞬間を思い出す。

天野くんの、責めるでもない不思議そうな声を思い出す。


それから、黒神くんの顔。

何がまずいのか、まるで分かっていない顔だった。

椅子にもたれて、首を傾げて。

あの人にとっては、本当に何でもないことなのだ。

鈴華は鞄に顔を埋めた。


(何でもないことでは、ないんですけど……)


五月のあの夜ーー

アイリス様と三人で夜通し過ごして、公園からの帰り道で、いつの間にか眠ってしまった。


目を覚ましたときには、黒神くんの部屋にいた。

どうやってそこまで来たのか、鈴華は覚えていない。覚えていないのに、知ってしまった。

眠った自分を背負って、家まで運んだのだと。

黒神くん本人が天気の話でもするような調子で教えてくれた。


思い出しかけるたびに、顔が熱くなる。

鈴華は頭を振って、その記憶を追い払った。

それよりも、もっと大きな問題がある。

風紀部の集まりがある、と言ってしまった。

風紀部の名前を使って、嘘をついた。

腕章を巻いて街に立つ者が、自分の都合で組織の名前を持ち出した。

それも、あんなに分かりやすい嘘を。


きっと黒神くんは気づいている。

気づいたうえで、何も言わずに見送ったのだろう。

そう思うと、余計に恥ずかしかった。


「白河?」


背後から、声がした。

鈴華の肩が跳ねる。

振り返ると、下駄箱の列の向こう側に、見慣れた姿が立っていた。

青みのあるグレーの長い髪が、夕陽を受けて淡く光っている。青みがかった紫の瞳が、不思議そうに鈴華を見ていた。

鏡野だった。


「み、澪……」


「こんな時間まで残っていたの?」


鏡野は鞄を肩にかけ直しながら、下駄箱の扉を開けた。


「私は教室で勉強していた。図書室は、試験前は人が多いから」


鈴華の心臓が、一つ大きく跳ねた。

図書室。

今まさに、そこから逃げてきたところだった。


「白河は?」


鏡野が外履きを取り出しながら、何気なく問いかける。

鈴華は口を開いた。

何か言わなければ、と思った瞬間に、さっきと同じ言葉が転がり出ていた。


「わ、私は、これから風紀部の集まりに……」


鏡野の手が、下駄箱の扉にかかったまま止まる。


「今日は、集まりはないはずだけど」


鈴華は凍りついた。

同じ支部にいる相手に支部の予定で嘘をついて、通るはずがなかった。


「……ごめんなさい。集まりは、ありません」


「そう」


鏡野はそれだけ言って、外履きを床に置いた。

責める言葉は、何も続かなかった。

その沈黙に押されるように、鈴華は口を開いた。


「実は、勉強会をしていて。図書室で」


「勉強会?」


「黒神くんが、このままだと赤点で、夏休みが補習で埋まってしまうんです。それで、私と、影山くんと、天野くんで教えることになって」


鏡野の眉が、ほんの少しだけ動いた。


「黒神零の」


「はい」


「……それで、どうして逃げてきたの」


鈴華は言葉に詰まった。

どこから説明すればいいのか分からない。

分からないまま、口が勝手に動いた。


「平日の放課後だけでは足りないから、土日もやることになって。でも土日は図書室が閉まっているので、場所がなくて。そうしたら、黒神くんが自分の家でやるかって言ってくれて」


「黒神零の、家で」


「はい。黒神くん、一人暮らしなので、誰にも迷惑がかからないからって……」


そこまで言って、鈴華は自分の口を押さえた。

遅かった。

鏡野の動きが、完全に止まっていた。

外履きに片足を入れかけた姿勢のまま、紫の瞳だけが、ゆっくりと鈴華の方へ向く。


「一人暮らし」


その一言を、鏡野は確かめるように繰り返した。


「一人暮らしの男子の家に、土日、集まって勉強する」


「あ、あの、影山くんも天野くんもいますから。二人きりというわけでは」


「それは分かっている」


鏡野は外履きに足を入れ、つま先を床で軽く叩いた。

それから、鈴華の方へ向き直る。

その視線が、まだ赤みの引かない鈴華の頬に留まった。


「白河は、黒神零の家に行ったことがあるの?」


鈴華の喉が、ひくりと鳴った。

答えられなかった。

行ったことがある、と言えば、理由を話さなければならない。

五月の事件のこと。

アイリス様のこと。

話していいことと、話してはいけないことの境目が、今の鈴華にははっきり見えなかった。

鈴華は唇を結んで、視線を落とした。

鏡野はしばらく、その横顔を見つめていた。

やがて、ふっと目を伏せる。


「……言いたくないなら、いい」


それ以上、鏡野は何も聞かなかった。

中学の頃から、ずっとそうだった。

鈴華が話さないと決めたことを、澪は無理に聞き出そうとしない。

その代わり、話さない理由があることだけは、正確に受け止めてくれる。


その優しさが、今は少しだけ苦しかった。

鏡野は踵を返し、ガラス戸の方へ一歩踏み出した。

そこで足を止め、振り返らないまま口を開く。


「その勉強会、私も行く」


「……え?」


鈴華は顔を上げた。

鏡野はガラス戸の前で振り返った。

夕陽の中で、その表情はいつもと変わらない。

落ち着いていて、感情の色がほとんど見えない。


「風紀部として。一人暮らしの男子の家に、男女が集まるなら、監視役がいた方がいい」


鏡野はそこで一度言葉を切り、ガラス戸の向こうへ視線を移した。


「それに――少し、気になることもあるから」


「気になること?」


鈴華の問いに、鏡野は答えなかった。

紫の瞳は、夕焼けの空の方を向いたままだった。


「何か問題がある?」


問い返されて、鈴華は言葉を探した。

問題は、いくらでもある気がした。

けれど、それを一つずつ口にすれば、また余計なことを言ってしまいそうだった。

それに、澪の言っていることは、正論だった。


「……ありません」


「そう」


鏡野は頷き、ガラス戸に手をかけた。


「土曜の時間と場所、あとで連絡して」


「あ、はい。黒神くんにも、澪が来ることを伝えて――」


「伝えなくていい」


鏡野の声が、鈴華の言葉を遮った。


「監視は、抜き打ちでなければ意味がない」


鈴華は口を開けたまま、固まった。

鏡野はそれ以上何も言わず、ガラス戸を押し開けた。夕方の風が、昇降口の中へ流れ込んでくる。

青みのあるグレーの髪がその風になびき、やがて校門の方へ遠ざかっていった。


鈴華は一人、下駄箱の前に取り残された。

西日が、床の上に長い影を落としている。

昨日、この場所で、鈴華は黒神くんを捕まえた。

逃げ道を一つずつ塞いで、最後には有無を言わせずに頷かせた。

今日は、自分が同じ場所で捕まった。

鈴華は下駄箱に額を押し当てた。

ひんやりとした金属が、火照った頬に心地いい。


(黒神くんに、なんて説明すれば……)


説明するな、と言われたばかりだった。

土曜の朝、黒神くんの家の玄関に、澪が立っている。その光景を想像して、鈴華はもう一度、深く頭を抱えた。



挿絵(By みてみん)


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