3話:弱点の分析② 〜自爆〜
天野の手帳の上で、ペンが迷いなく動いていく。
教科名が縦に並び、その横に日付と時間が書き込まれる。
国語は鈴華、数学も鈴華、英語は鈴華と天野の二人。理科は天野。
日本史は影山。
担当の欄が埋まるたびに、零の逃げ道が一本ずつ消えていった。
「黒神は、まず数学の分数からだな」
天野がペン先で手帳を叩いた。
「そこが分からないと、方程式も関数も全部止まる。白河、頼めるか?」
「はい。任せてください」
鈴華は頷き、数学の教科書を開いた。
ページをめくる手つきに迷いがない。
どこから教えるか、すでに頭の中で順番ができあがっているらしかった。
零の前に、白紙のノートが差し出される。
「では黒神くん。二分の一と、三分の一を足すと?」
「……六分の五」
鈴華の目が丸くなった。
「合ってます。どうして分かったんですか?」
「ケーキの半分と、三等分した一切れだろ。両方食ったら、ホール一個にちょっと足りない。そのくらいだ」
鈴華はしばらく零の顔を見つめてから、口元に手を当てて考え込んだ。
「……では、なぜ分母を六にするのかは、説明できますか?」
「説明?」
零はノートの白いページを眺めた。
答えは分かる。
けれど、そこに至る道筋を言葉にしようとすると、途端に霧がかかる。
「……分からねえ」
「そうだと思いました」
鈴華はノートに円を二つ描き、片方を二つに、もう片方を三つに区切った。
それから、両方の円をさらに細かく、六つずつに分け直していく。
「こうして、切り方を揃えるんです。同じ大きさに切り直さないと、足せませんから」
零は円を眺めた。
六つに区切られた円の、三つ分と二つ分。
数えれば五つ分になる。
「……なるほどな」
「これが通分です」
鈴華の声が、ほんの少しだけ弾んでいた。
五十分が過ぎると、影山が手を挙げた。
「計画書に従い、十分間の休憩とする」
図書室を出て、廊下の突き当たりにある自販機の前へ移動する。
窓の外では、運動部の掛け声が夕方の空に響いていた。
零は迷わずボタンを押した。
取り出し口に落ちてきたのは、いちごミルクの紙パックだった。
「……やっぱり、それですか」
鈴華が呆れたように零の手元を見る。
「計画書によれば、糖分補給は一日二回までだぞ、同志黒神」
「今日はまだ一回目だろ」
零はストローを刺し、一口吸った。
甘ったるい味が、分数で疲れた頭に染みていく。
天野は自販機で麦茶を買い、壁にもたれて手帳を開いていた。
休憩中も計画を練り直しているらしい。
ペンの先が、何度も同じ行を行き来している。
「どうした、天野」
零の問いかけに、天野は手帳から顔を上げずに答えた。
「……ちょっと、時間が足りないかもしれない」
休憩を終えて図書室へ戻ると、天野は机の上に手帳を広げ直した。
「黒神の基礎の抜け方を考えると、放課後だけじゃ全然足りない」
天野のペン先が、日付の欄をなぞっていく。
「今日が火曜で、試験は来週の月曜から。平日の放課後は、残り三日。閉館まで二時間ずつとして、六時間。そこに五教科分の基礎と、過去問を詰め込むのは無理だ」
影山が眼鏡の奥で目を細め、手帳を覗き込んだ。
「となると、残る戦場は」
「土日だな」
天野はペンを置き、腕を組んだ。
「これは、土日もやらないとダメだ」
鈴華が教科書から顔を上げる。
「でも、土日は図書室が閉まっていますよね」
「そうなんだよな。駅前の図書館は試験前で混むし、ファミレスで四人分の教科書を広げるのも無理がある」
天野は眉を寄せたまま、手帳の余白に場所の候補を書き出していく。
どれも、書いた端から横線で消されていった。
零は椅子の背にもたれ、ぼんやりと天井を眺めていた。
土日まで勉強。
考えただけで気が滅入る。
けれど、補習で夏休みを丸ごと失うよりはましだった。
場所がない、というのが問題なら、話は早い。
零は頭を掻きながら、面倒くさそうに口を開いた。
「だったら、俺の家でするか?」
三人の視線が、零に集まった。
「一人暮らしだからな。うるさく言う奴もいねえし」
天野が意外そうに瞬きをする。
影山は、なぜか黙って零を見ていた。
鈴華は手帳に目を落としたまま、ペンを走らせていた。
天野の計画表を自分の手帳へ書き写している最中で、意識の半分以上がそちらに向いている。
だから、何も考えずに頷いた。
「いいですね。黒神くんの家のリビングは広いですし、みんなで勉強できそうです」
ペンの音が、そこで途切れた。
一拍の沈黙が、机の上に落ちる。
遠くの席で、誰かがページをめくる音がした。
冷房の送風口が、低く唸っている。
影山の目が、獲物を見つけたように細くなった。
「ほほー」
ゆっくりと、眼鏡の縁に指がかかる。
「白河嬢は、同志黒神の家を知っているのか?」
鈴華の手から、ペンが転がり落ちた。
机の上を転がったペンが、天野の手帳にぶつかって止まる。
天野はそれを拾いもせず、ただ静かに鈴華を見ていた。
「俺たちも、まだ行ったことないのに……」
責める響きはなかった。
純粋に、不思議そうな声だった。
それが、かえって鈴華を追い詰めた。
鈴華の顔が、見る間に赤く染まっていく。
碧色の瞳が、机の上をさまよった。
手帳、ペン、天野の顔、影山の眼鏡。
どこにも逃げ場がない。
最後に、零の方を見た。
零は椅子の背にもたれたまま、首を傾げていた。
何がまずいのか、まるで分かっていない顔だった。
実際、零には隠す理由がなかった。
五月の一件のとき、夜通し街を回ったあとで、アイリスと一緒に家で休ませた。
それだけの話だ。
「白河嬢?」
影山の声が、やけに楽しげに弾んでいる。
この男は事情を知っているはずだった。
知っていて、わざと大げさに食いついている。
鈴華は膝の上で手を握りしめた。
何かを言おうとして、言葉にならずに口を閉じる。
それから、勢いよく立ち上がった。
「えっと……そういえば、これから風紀部の集まりがあるんでした」
「今から?」
天野の問いに、鈴華は鞄を胸に抱え込んだ。
「はい。そうなんです。急ぎの。とても急ぎの集まりが」
「急ぎって」
「ですので、今日はこれで失礼します!」
鈴華は深々と頭を下げると、振り返りもせずに歩き出した。
図書室の床を、早足の靴音が遠ざかっていく。
扉が開き、閉まる。
長い黒髪が扉の向こうへ消えるまで、三人は黙ってそれを見送った。
冷房の音だけが、机の上に残った。
零は閉じた扉を眺めながら、ぽつりと呟いた。
「……今日、風紀部の活動なかったよな?」
悪気のない一言だった。
天野は黙って目を閉じた。
影山は、机に突っ伏して肩を震わせている。
「同志黒神……! 貴殿は、実に……!」
「なんだよ」
「実に罪深い男だ!」
影山の声が、図書室の静けさを突き破った。
近くの席の生徒たちが、一斉に顔を上げる。
カウンターの向こうで、図書委員の女子生徒が立ち上がった。
眼鏡の奥から、冷たい視線が一直線にこちらへ飛んでくる。
「そこ、静かにしてください」
影山がぴたりと動きを止めた。
「……失礼した」
本日二度目の謝罪だった。
影山は再び膝の上で両手を揃え、叱られた生徒の姿勢に戻る。
天野が手帳を閉じ、深々と椅子にもたれた。
「……で、黒神。白河、いつお前の家に行ったんだ」
「五月に、ちょっとな」
零はあっさりと答えた。
「ちょっと、って」
「色々あったんだよ。色々」
零は答えになっていない答えを返し、いちごミルクの空パックを指先で回した。
天野は零の顔を見て、それから扉の方を見て、最後に影山を見た。
影山は顔を伏せたまま、まだ肩を震わせている。
「……影山。お前、何か知ってるだろ」
「情報屋だからな」
くぐもった声が返ってきた。
天野は諦めたように天井を仰いだ。
零は閉じた扉を、もう一度だけ眺めた。
鈴華が何をそんなに慌てていたのか、結局最後まで分からなかった。




