3話:弱点の分析① 〜弱点の繰り返し〜
翌日の放課後、図書室の窓際の机には、四人分の鞄と、一人分の答案用紙が並んでいた。
冷房の風が、紙の端をかすかに揺らしている。
昨日よりも自習席の埋まり方が早い。
試験まで一週間を切ると、図書室の空気はそれだけで重くなるらしかった。
零の前に置かれた問題用紙は、五枚あった。
国語、数学、英語が鈴華。
理科が天野。
日本史が影山。
一晩で作ったとは思えない量だった。
「制限時間は五十分です」
鈴華が腕時計に目を落とす。
「各教科十分ずつが目安ですけど、分かるところから解いてもらって構いません」
零は一番上の用紙をつまみ上げ、裏返し、また表に戻した。
「……これ、本気で昨日の夜に作ったのか」
「はい。範囲表を見ながら、基本的な問題だけを選びました」
鈴華は当然のことのように答えた。
その目の下に、ほんのりと影が差している。
天野が自分の分の用紙を指で叩いた。
「俺のは中学の内容も混ぜてある。どこまで遡ればいいか分からないと、教えようがないからな」
「俺の日本史は、厳選に厳選を重ねた珠玉の二十問だ」
影山が胸を張る。
天野は横目でそれを見て、何も言わなかった。
「では、始めてください」
鈴華の合図で、零はシャープペンシルを手に取った。
一枚目は国語だった。
漢字の読み書きが十問。
それから、短い評論文を読んで答える設問がいくつか。
零は最初の漢字を眺めた。
読める。
書けと言われると、偏が思い出せない。
二問目も同じだった。
三問目は、読みすら怪しい。
評論文に移る。
文章自体は理解できた。
筆者が何を言いたいのかも分かる。
ただ、「傍線部の理由として最も適切なものを選べ」と言われると、四つの選択肢がどれも正しく見えてくる。
零は適当に丸をつけて、次の用紙へ進んだ。
数学。
問題用紙の上に、記号と数字が並んでいる。
昨日の授業で見た古代文字の、親戚のような連中だった。
一問目、分数の計算。
二問目、一次方程式。
三問目、連立方程式。
零は一問目の分数を睨みつけた。
通分、という単語が頭の隅に浮かぶ。
浮かんだだけで、手順までは降りてこない。
シャープペンシルの先が、紙の上で止まった。
向かいの席で、天野が教科書を読むふりをしながら、ちらりとこちらを窺っている。
零はそれに気づかないふりをして、次の問題へ視線を移した。
英語。
長文が一つと、文法問題、それに和訳問題が三つ。
長文は読めた。
一度目を通しただけで、内容はすべて頭に入る。
設問に答えるのも難しくない。
問題は、その後だった。
『次の英文の下線部の文型を答えなさい』
零は下線部を眺めた。
何の変哲もない一文だ。
意味は分かる。
ロンドンの駅前で、似たような言い回しを何度も聞いた。
それが、第何文型なのか。
知るか、と思った。
和訳問題に移る。
英文を読み、
意味は取れる。
日本語に直そうとして、言葉を探す。
探しているうちに、頭の中が英語のまま回り始めた。
零は和訳欄に、英文の意味を英語で書き込んだ。
そちらの方が、よほど正確に書ける。
理科の用紙には、天野らしい几帳面な字が並んでいた。
化学式は、ほぼ全滅だった。
元素記号は見覚えがあるのに、組み合わせ方が分からない。
ただ、最後の方にあった力学の問題だけは、なぜか手が止まらなかった。
斜めに投げた物体がどこに落ちるか。ボールを放ったときの速さと高さ。
零は途中の式を書かずに、答えの数字だけを書き込んだ。
どうしてその数字になるのかと聞かれても、説明はできない。
ただ、そうなると分かる。
最後の一枚は、日本史だった。
『鎌倉幕府を開いたのは誰か』
零は問題文を三回読んだ。
人名が、喉のあたりまで出かかって、そのまま引っ込んでいく。
二問目は年号だった。
三問目も年号だった。
四問目で、零は考えることをやめた。
「そこまでです」
鈴華の声で、零は顔を上げた。
窓の外の日差しが、いつの間にか角度を変えている。五十分は、思っていたよりもずっと長かった。
鈴華が答案を回収し、教科ごとに三人で分ける。
国語、数学、英語は鈴華。
理科は天野。
日本史は影山。
赤ペンの走る音が、机の上で重なった。
零は椅子の背にもたれ、天井の照明を数えることにした。
数えている間に、音が一つずつ止まっていく。
最初に顔を上げたのは、影山だった。
「……ほほー」
その一言に、いつもの面白がる響きがなかった。
影山は答案を持ち上げ、何度か角度を変えて眺めた。
見間違いではないかと、確かめるような仕草だった。
「同志黒神。鎌倉幕府を開いたのは」
「知らねえ」
「……そうか」
影山は答案を机に置いた。
茶化す言葉が、どこからも出てこないらしかった。
天野が理科の答案を差し出す。
点数の横に、赤ペンで疑問符が書かれていた。
「化学はほぼ全滅だな。でも、この力学の問題。途中式がないのに、答えだけ全部合ってる」
「勘だ」
「勘で、この数字は出ないだろ」
天野が不思議そうに首を傾げる。
「出ちまったもんは仕方ねえだろ」
零は欠伸まじりに返した。
天野はまだ答案を眺めていたが、それ以上は追及しなかった。
鈴華は、三教科分の答案を前に並べたまま、しばらく黙っていた。
赤ペンを置き、答案を一枚ずつ見比べる。
国語、数学、英語。
英語の答案を手に取ったところで、その手が止まった。
「……黒神くん」
「なんだよ」
鈴華は答案を零の方へ向け、和訳欄を指で示した。
「和訳の欄に、英語で答えが書いてあるんですけど」
「その方が正確だろ」
零の返事に、鈴華はゆっくりと瞬きをした。
「和訳問題です」
その声には、呆れよりも困惑の色の方が濃かった。
影山と天野が同時に英語の答案を覗き込み、二人揃って黙り込む。
鈴華は答案を机に戻した。
それから、背筋を伸ばして零の方へ向き直る。
碧色の瞳が、答案の上から零の顔へと移った。
「黒神くん」
その声の調子に、零は覚えがあった。
五月、鈴華に魔法を教えてほしいと頼まれた日。
彼女の戦い方を見たあとで、自分も同じような調子で切り出した。
「黒神くんの弱点は、二つあります」
零は口を開きかけて、そのまま閉じた。
鈴華は答案に指を置き、一つ目を示す。
「一つ目。中学で習う基礎が、ほとんど抜けています」
数学の答案の、分数の問題。
一次方程式。
国語の漢字。
どれも白紙か、途中で止まっていた。
「高校の範囲が分からないのは、その前の段階でつまずいているからです。積み上げるための土台が、ないんです」
天野が腕を組み、深く頷いた。
「中学、どうしてたんだ?」
零は窓の外を眺めたまま、何でもないように答えた。
「向こうじゃ、まあ、色々あってな。学校にはあんまり行ってねえ」
「イギリスの学校って、そういうものなのか?」
「さあな。俺がそうだっただけだ」
天野はそれ以上聞かなかった。
鈴華だけが、一瞬だけ目を伏せた。
アストラル・オーダーの特別執行官。
その肩書きが、零の過ごしてきた年月を物語っている。
机の下で、その指先が答案の端を握った。
けれど鈴華は、すぐに顔を上げた。
同情するためにここにいるのではない、と言わんばかりに。
「二つ目」
鈴華の指が、答案の上を移動する。
「黒神くんは、使い道の分からない知識を、覚えようとしていません」
「覚えられねえんだよ」
「いいえ。覚えようとしていないだけです」
鈴華は言い切った。
「魔法学は、中間で100点でした。理科の力学も、答えだけは全部合っています。黒神くんは、必要だと思ったことはすぐに覚えられるんです」
鈴華は指を折って数え始めた。
「駅前のケーキ屋さんの限定メニューも、購買のカツサンドが一番おいしい曜日も、覚えていますよね?」
「……それは、必要な知識だろ」
零の抗議を、鈴華は微笑みで受け流した。
「鎌倉幕府を開いた人は?」
「必要じゃねえ」
鈴華は答案の日本史の欄を、指先でとんと叩いた。
「試験には、必要です」
零は反論の言葉を探した。
どこにもなかった。
五月の自分が、鈴華に向かって何を言ったのかを思い出す。
弱点を二つ並べて、今の魔法を使いこなせていないと突きつけた。
あのとき鈴華がどんな顔で聞いていたかも、覚えている。
同じことを、今は自分がされている。
「……参ったな」
零は天井を仰いだ。
「そっくりそのまま返されるとは思わなかったぜ」
「黒神くんのやり方を、真似させてもらいました」
鈴華はふっと表情を緩めた。
得意げというよりは、ほっとしたような笑みだった。
「黒神くんは、私に答えを教えませんでしたよね。自分で考えさせてくれました。だから私も、黒神くんには自分で分かってほしかったんです」
零は天井から視線を下ろした。
真剣な顔で答案を並べる鈴華を見て、それ以上何かを言う気にはなれなかった。
「ほほー」
影山の声が、横から割り込んできた。
今度は、いつもの面白がる響きが戻っている。
「白河嬢と同志黒神の間には、師弟の絆があるわけか。教え、教えられ、立場を入れ替えて――実に美しい」
鈴華の手が、答案の上で止まった。
一拍置いて、ゆっくりと影山の方へ顔を向ける。
頬は赤くなっていなかった。
代わりに、碧色の瞳から笑みの色が消えている。
「影山くん」
「む」
「今、真剣なお話をしているんです。茶化さないでください」
穏やかな声だった。
声量も、図書室にふさわしい大きさに抑えられている。
それなのに、机の周りの空気がすっと冷えた。
影山の背筋が、見る間に伸びていく。
「……失礼した」
眼鏡の奥の目が泳ぎ、影山は膝の上で両手を揃えた。
叱られた生徒そのものの姿勢だった。
天野は顔を背け、口元を手で隠していた。
零も、こらえきれなかった。
喉の奥から、くつくつと笑いが漏れる。
昇降口で自分が味わったものを、今度は影山が食らっている。
その光景が、妙に可笑しかった。
「黒神くん!」
鈴華の顔が、くるりと零の方へ向き直った。
「聞いていますか? 今は、黒神くんのお話をしているんですよ?」
「……聞いてる聞いてる」
零は笑いを飲み込み、椅子の上で姿勢を正した。
鈴華はしばらく疑わしそうに零を見つめていたが、やがて小さく息をついて、答案の方へ視線を戻した。
「まったく……二人とも、試験まで一週間もないんですからね」
その横で、影山がそっと手を挙げた。
「白河嬢。発言の許可をいただきたい」
「……どうぞ」
「真剣な話に、役立つものを持ってきた」
影山はそろそろと鞄の中へ手を入れた。
さっきまでの芝居がかった勢いは、すっかり鳴りを潜めている。
「敵の全容が見えたところで、しかるべき時が来たようだ」
取り出されたのは、クリアファイルの束だった。
教科ごとに色分けされ、それぞれに付箋が貼られている。昨日の計画書とは、明らかに作りが違った。
影山はそれを机の上に扇状に広げた。
「過去三年分の、期末試験の問題。それから、教師ごとの出題傾向の分析だ」
天野が一冊を手に取り、ぱらぱらとめくった。
その手が、途中で止まる。
「……これ、どうやって集めたんだ」
「先輩方から、正規に譲り受けたものだ。いかがわしい手段は使っていない」
天野は疑わしそうに、影山の顔とファイルを見比べた。
「本当か?」
「情報屋だからな」
答えになっていない答えに、天野は口の端を下げた。
それでも、ファイルの中身から目を離そうとはしなかった。
零も一冊を引き寄せた。数学のファイルだった。
過去問の余白に、影山の字でびっしりと書き込みがある。
『この教師は証明問題を必ず一問出す』
『計算問題の配点が高い』
『教科書の例題から数値だけ変えて出題する傾向あり』
計画書のふざけた調子は、どこにもなかった。
「……お前、昨日のあれは何だったんだよ」
「あれは士気を高めるためのものだ。これは勝つためのものだ」
影山はにやりと笑い、眼鏡の縁を指で押し上げた。
鈴華がファイルの一冊を手に取り、真剣な顔でページをめくる。
しばらく読み込んでから、顔を上げた。
「影山くん、ありがとうございます。すごく助かります」
鈴華はそこでファイルを閉じ、零の方を見た。
「ただ、黒神くん。過去問は、基礎が分かってから使いましょう。答えだけ覚えても、数字が変わったら解けなくなりますから」
「……先回りすんなよ」
「覚えるだけで済ませようとする顔をしていましたので」
零は口を閉じた。
今日だけで、何度目か分からない。
天野が過去問のファイルを机に置き、鞄から手帳を取り出した。
「じゃあ、計画を立てよう。基礎の抜けてるところから順番に埋めて、過去問は後半に回す。教科ごとの担当も決めとくか」
天野の手帳が開かれ、ペンが走り始める。
窓の外では、西日が校庭の端を橙色に染め始めていた。




