2話:勉強会!結成②〜赤点撲滅作戦〜
図書室の中は、廊下とは別の世界のように涼しかった。
試験前の放課後だけあって、自習席はほとんど埋まっている。
ページをめくる音と、シャープペンシルが紙を走る音。誰かが咳払いをすると、それだけで周囲の何人かが顔を上げる。
そういう種類の静けさが、部屋全体に張り詰めていた。
その中で、窓際の六人掛けの机だけが、明らかに浮いていた。
影山は眼鏡を光らせたまま、手招きをしている。
隣の天野は教科書から顔を上げ、片手を挙げてみせた。
鈴華が零の方を振り返る。
何か言いたげな目だった。
零は答えずに、首の後ろを掻いた。
二人は並んで、窓際の机へ向かった。
「……なんで、お前らがいるんだよ」
零は影山の向かいの椅子を引きながら、声を落とした。
「情報屋だからな」
影山は声量を落とす気配もなく、胸を張る。
近くの席の女子生徒が、ちらりとこちらを見た。
天野が横から影山の袖を引く。
「声、でかいって」
「む」
影山は咳払いを一つして、芝居がかった囁き声に切り替えた。
囁いているはずなのに、なぜかよく通る。
「今朝の白河嬢の顔を見れば、誰でも分かる。あれは何かを決めた者の顔だった」
鈴華の肩が、ぴくりと動いた。
「……そんなに、顔に出ていましたか?」
「出ていたとも。同志黒神が補習の日程に打ちのめされていたとき、白河嬢の横顔には、決意の二文字が刻まれていた」
「刻まれてはいないと思いますけど……」
鈴華は頬に手を当てた。
その指先の下で、肌がうっすらと色づいている。
零は椅子に腰を下ろし、天野の方へ目を向けた。
「で、天野は?」
「影山に引っ張られてきた」
天野は教科書を閉じ、苦笑いを浮かべる。
「まあ、どうせこうなるだろうとは思ってたけど」
昼休みの屋上で、影山が言いかけてやめたのはこれだったのだ。
零は向かいの七三分けを眺めた。
情報屋を名乗るだけのことはある。
「さて、諸君」
影山が、机の上の紙の束に両手を置いた。
近くで見ると、それはただの紙の束ではなかった。
穴あけパンチで綴じられた、一冊の冊子だ。
厚さは、国語の教科書を三冊重ねたくらいある。
表紙には、手書きの文字が躍っていた。
『赤点殲滅作戦 極秘計画書』
零は表紙を指でつついた。
「……なんだ、これ」
影山は待っていたとばかりに、眼鏡を押し上げる。
「本作戦の全容を記した、計画書だ。同志黒神の夏を守るための、大いなる戦い。これは個人の勉強ではない。作戦だ。ゆえに、作戦名が要る」
影山は冊子を持ち上げ、表紙を皆に見えるように掲げた。
「名付けて、赤点殲滅作戦」
一拍の沈黙が落ちた。
遠くの席で、誰かが本を閉じる音がする。
「……ダサい」
天野が、机に目を落としたまま呟いた。
「ダサくない」
影山の囁き声が、わずかに上ずる。
「赤点という名の境界線を打ち破る、という意味だ。極めて合理的な命名だろう」
天野がゆっくりと顔を上げた。
「打ち破ったら駄目なんじゃないのか、それ」
影山の動きが止まった。
眼鏡の奥で、何かを高速で計算している気配がする。
「……境界線の、向こう側へ行く、という意味だ」
「今考えただろ」
「断じて違う」
鈴華は口元を手で隠していた。
肩が細かく震えている。
笑いをこらえているのだと、隣にいる零には分かった。
零は冊子を手元へ引き寄せ、適当なページを開いた。
『第一章 敵を知る――同志黒神の生態について』
「……俺が敵なのか」
「敵は赤点だ。同志黒神は、守るべき拠点だとも」
影山の答えを聞き流して、零は次のページをめくった。
推定起床時刻。
集中力の持続時間、推定十五分。
好物の一覧。
好物の欄には、ケーキ、タルト、シュークリーム、プリンと、零の記憶にある購買と駅前の甘味がほぼ網羅されていた。
零は好物の欄を指で叩いた。
「なんで俺の好物まで載ってんだよ」
「糖分は士気に直結する。兵站の基本だ」
天野が冊子の後ろの方から、ぱらぱらとページをめくる。ある一枚で手を止め、眉を寄せた。
「第四章、逃亡阻止計画。……これ、もう勉強の話じゃないよな」
「同志黒神は隙あらば逃げる。対策は必須だ」
零は反論しかけて、やめた。今まさに、昇降口で捕まってきたばかりだった。
鈴華は冊子の真ん中あたりを覗き込んでいた。
何かを見つけたように、碧色の瞳が止まる。
「あ……でも、この休憩の取り方は、良いと思います」
鈴華の指が示した先には、『五十分ごとに十分休憩。糖分補給は一日二回まで』と書かれていた。
影山が得意げに頷く。
「さすが白河嬢、お目が高い」
零はその行を眺めて、眉をひそめた。
「糖分二回までって、誰が決めたんだよ」
「俺だ」
影山は悪びれもせず、胸を張った。
「却下」
「却下は却下する」
天野が冊子を閉じた。
分厚い表紙が、机の上で鈍い音を立てる。
「で、肝心の中身は? どの教科をどうやるとか、そういうのは」
「それは、しかるべき時に開示する」
天野の目が、冊子と影山の顔を往復した。
「じゃあ、この計画書の意味は何なんだよ」
「作戦の士気を高める」
天野は何か言いかけて、諦めたように首を振った。
零は椅子の背にもたれ、三人を順番に眺めた。
作戦名をつけて一人で盛り上がる影山。
それに付き合って呆れている天野。
隣で笑いをこらえている鈴華。
「……お前らまで、付き合う必要はねえだろ」
零の言葉に、天野は少し考えるように窓の外へ目をやった。
夕方の光が、中性的な横顔を薄く縁取っている。
「まあ、黒神の夏がなくなるのは、俺も困るし」
零は瞬きをした。
天野は特に何でもないという顔で、閉じた教科書の表紙を指でなぞっている。
本当に、何でもないことのように言ったのだと分かった。
四月からずっと、この男はこうだった。
屋上に誘ってくれたときも、プールを吹き飛ばしたときも、特別なことを言うでもなく、ただ隣にいた。
零は言葉に詰まり、視線を冊子の表紙へ落とした。
「……物好きだな」
「お互い様だろ」
天野は短く返して、また教科書を開いた。
影山がすかさず口を挟む。
「ちなみに俺は、面白いからだ」
「知ってる」
零と天野の声が重なった。
影山は満足そうに頷き、それから何かを思い出したように、鈴華の方へ顔を向けた。
「それにしても、白河嬢」
「はい?」
「なぜ白河嬢が、そこまで同志黒神に尽くすのだ?」
鈴華の手が、机の上で止まった。
「つ、尽くしてはいません」
「昇降口で待ち伏せまでしておいて?」
「待ち伏せでは……」
鈴華の声が尻すぼみになる。
碧色の瞳が、机の木目の上をさまよった。
「クラスメイトが困っていたら、手を貸すのは当然じゃないですか」
「ほほー」
影山の眼鏡が、獲物を見つけたように光る。
鈴華がちらりと零を見た。
助けを求めるような目だった。
零は椅子の背にもたれたまま、何でもないように口を開いた。
「俺が頼み込んだんだよ」
三人の視線が、一斉に零へ向いた。
「夏がかかってんだ。プライドなんざ安いもんだろ」
零の声は軽かった。嘘をついている素振りなど、どこにもない。
天野が疑わしそうに目を細めた。
「黒神が? 頼み込んだ?」
「ああ。拝み倒した」
天野は零の顔をしばらく眺め、それから首を傾げた。
「……想像できないな」
「想像しなくていい」
影山は腕を組み、しばらく零と鈴華を見比べていた。やがて、何かを飲み込むように頷く。
「なるほど。そういうことにしておこう」
その言い方が、そういうことではないと分かっている者のそれだった。
それでも影山は、それ以上踏み込まなかった。
鈴華が隣で、零の横顔を見上げていた。零は視線を返さなかった。
約束は、二人の間にあればいい。
わざわざ誰かに話すものでもない。
鈴華は膝の上で手を重ね、それから静かに微笑んだ。
「では」
鈴華は鞄から手帳を取り出し、机の上に開いた。
「今日は、試験範囲の確認から始めましょう。どこから手をつけるか決めないと、時間がもったいないですから」
天野が各教科の試験範囲表を配り、鈴華がそれを手帳に書き写していく。
影山は計画書の余白に、何やら怪しげな図を書き込み始めた。
零は配られた範囲表に目を落とした。
国語、数学、英語、日本史、理科、魔法学。
魔法学の欄だけは、見なくても分かる。
問題はそれ以外だ。
ページ数が並んでいる。
数字を追っていくうちに、零の表情が固まっていった。
「……これ、全部か」
「全部です」
鈴華は顔も上げずに答えた。
「一週間で?」
「一週間で、です」
零は範囲表を裏返した。
裏には何も書かれていない。
それがかえって絶望的だった。
鈴華が手帳から顔を上げる。
「黒神くん。明日は、今どこまで分かっているのか、確認させてください」
「確認?」
「簡単な小テストを作ってきますね。弱いところが分かれば、どこから教えればいいかも見えてきますから」
零は範囲表を机に置いた。
「テストのためのテストかよ」
「はい」
鈴華は穏やかに微笑んだ。
否定する気は、一切ないらしい。
天野が教科書の上で顔を上げた。
「俺も手伝うよ。理科なら作れる」
「では、日本史は俺が担当しよう」
影山まで手を挙げる。
零は三人を見回した。
どこにも味方がいない。
窓の外で、西日が図書室の棚に長い影を落としていた。
閉館を告げるチャイムが鳴ったのは、それから一時間ほど後のことだった。
四人は荷物をまとめ、図書室を出た。
廊下の窓から差し込む夕陽が、床を橙色に染めている。
昇降口へ向かう階段を下りながら、影山はまだ作戦名の由来について熱弁を振るっていた。
天野がそれを適当にいなし、鈴華はそのやり取りに、ときおり笑いをこらえていた。
正門を出たところで、影山が零の前に立ちはだかった。
「同志黒神。これを」
差し出されたのは、あの分厚い計画書だった。
「持って帰って熟読するように」
「いらねえよ」
零が押し返すと、影山はそれ以上の力で押し戻してきた。
「作戦の要は、拠点自らが作戦を理解することにある」
「だから、いらねえって」
押し問答の末、計画書は零の鞄へ強引にねじ込まれた。
坂の途中で、影山と天野とは道が分かれた。
「では同志黒神、白河嬢。明日の戦場で会おう」
「図書室な」
天野の訂正を背中に受けながら、影山は大仰に手を振って去っていった。
零と鈴華は、並んで駅への坂を下りた。
夕暮れの風が、昼間の熱をいくらか冷ましている。
鈴華は手帳を胸に抱えたまま、ときどき何かを呟いていた。
小テストの問題を考えているらしい。
駅前の通りに出ると、ケーキ屋のショーケースが目に入った。
橙色の照明の下で、桃のタルトが艶やかに並んでいる。
丸ごと使われた桃の断面が、夕陽を受けて光っていた。
零の歩みが、自然と緩んだ。
一切れくらいなら。
今日の分の糖分としてーー
そして明日の小テストのための、前祝いとして。
足が、店の方へわずかに向きを変える。
「ダメですよ? 黒神くん」
隣から、穏やかな声がした。




