2話:勉強会!結成①〜待ち伏せ〜
昼休みの屋上には、夏の手前の風が吹いていた。
給水塔の影が、コンクリートの上に濃く落ちている。
日向へ出れば、もう肌がじりじりと焼ける季節だ。
三人は自然と影の中へ集まり、それぞれの昼食を広げた。
入学して間もない頃に天野に連れてこられて以来、ここはすっかり昼の定位置になっている。
天野は膝の上で弁当箱の蓋を開けた。
卵焼き、きんぴら、ほうれん草のおひたし、丁寧に詰められた白米。
相変わらず手作りらしい中身だった。
影山は購買の焼きそばパンを片手に、まだ丸めた順位表を小脇に抱えている。
零は購買の袋から、カツサンドと鮭のおにぎりを取り出した。
包装を剥がし、一口かじる。
ソースの染みたカツは、購買の中でも当たりの部類だった。
朝のホームルームのあと、四時間目までの記憶はほとんどない。
数学の教師が電子黒板に書いた数式は、古代文字のように見えた。
斜め後ろからの視線に促されて教科書だけは開いていたが、それが何の役に立ったのかは分からない。
零はカツサンドを咀嚼しながら、空を見上げた。
雲一つない青が、どこまでも広がっている。
この空の下で、夏休みの大半を教室に閉じ込められる自分の姿が浮かんだ。
「補習って、途中で抜けられねえのかな」
独り言のつもりだった。
「抜けたら、その分だけ日数が追加されるらしいぞ」
天野があっさりと答える。
「日程表の下に、ちっちゃく書いてあった」
「へえ」
零はそれだけ返して、おにぎりの包装を破った。
海苔の割れる乾いた音が、風に紛れて消える。
隣で焼きそばパンをかじっていた影山が、眼鏡の奥で目を細めた。
「して、同志黒神。朝の続きだが」
零は答えなかった。おにぎりをかじりながら、空の雲を目で追っている。
「守りたい夏の内容を、まだ聞いていない」
「言ったろ。知らなくていいことだって」
「言わぬなら、推理するまでだ」
影山は焼きそばパンを掲げ、芝居がかった仕草で天を指した。
「夏休みといえば、帰省の季節。同志黒神はイギリス帰りではあるが、国内にも縁者がいるのではないか。その縁者と、何らかの約束がある。違うか?」
零の咀嚼が、一瞬だけ止まった。
外れてはいない。
むしろ、かなり近い。
この男は本当に、ふざけているようで要点を外さない。
零は何事もなかったように、残りのおにぎりを口へ運んだ。
「さあな。好きに推理してろよ」
「ほほー。否定しないということは」
「影山」
天野が箸を止め、横目で影山を見た。
「そのへんにしとけ」
「詮索ではない。これは情報収集だ」
影山は悪びれもせず、眼鏡の位置を指先で直す。
「同じだろ」
「断じて違う」
影山と天野の応酬を、零は聞くともなしに聞いていた。
この二人のやり取りは、屋上を渡る風と同じくらい、もう耳に馴染んでいる。
天野が卵焼きを口へ運び、零の方へ視線を移した。
「で、黒神。実際どうすんだ。中間と同じだったら、夏休みほぼ全部だろ」
「なんとかなるだろ」
零の返事に、天野は箸を持ったまま眉を上げた。
「なってないから、あの紙なんだろ」
零は答えずに、給水塔の壁へ背中を預けて目を閉じた。
天野は肩を揺らして笑った。
からかっているのではなく、純粋に面白がっている顔だった。
影山がようやく焼きそばパンを飲み下し、眼鏡を押し上げる。
「同志天野の言うとおりだ。現状の同志黒神は、戦略なき兵士に等しい。情報なき戦は、敗北を約束されたも同然。そこでだーー」
影山は何か言いかけて、そこで口をつぐんだ。
眼鏡の奥で、何かを計算している気配がする。
「……いや。今はやめておこう」
零は片目だけ開けて、影山を見た。
「情報とは、しかるべき時に開示するものだ」
意味ありげな笑みを浮かべて、影山は空の袋を丸めた。
零はそれ以上何も聞かず、再び目を閉じた。
この男が何かを企んでいるのは、いつものことだ。
どうせ、そのうち勝手に始まる。
昼休みの終わりを告げる予鈴が、屋上まで届いた。
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帰りのホームルームが終わった瞬間、零は鞄を掴んで立ち上がった。
担任が教室を出るよりも早かった。
椅子を机の下へ押し込み、後ろの扉から廊下へ抜ける。背後で影山が何か言いかけた気配がしたが、振り返らなかった。
今日は、決めていることがある。
駅前のケーキ屋に、季節限定のタルトが出ている。
先週、店の前を通ったときに見かけた。
桃を丸ごと使ったやつだ。
補習の憂鬱は、糖分で流す。
それが零の結論だった。
廊下を早足で抜け、階段を二段飛ばしで下りる。
一階の昇降口には、まだほとんど生徒の姿がない。
西へ傾き始めた日差しが、ガラス戸越しに床を白く照らしていた。
自分の下駄箱の前で、零は上履きを脱いだ。
外履きを取り出し、片足を突っ込む。
「黒神くん」
その声に、零の動きが止まった。
顔を上げる。
下駄箱の列の端に、鈴華が立っていた。
鞄を両手で前に提げ、息一つ乱していない。
零はもう片方の靴を手に持ったまま、鈴華と背後の階段を見比べた。
「……お前、いつ下りてきた」
「前の扉から出ました。こちらの階段の方が、昇降口に近いんですよ」
鈴華は穏やかに微笑んだ。
最初から、零がここへ来ると読んでいたということだ。
零は靴を片手にぶら下げたまま、眉を寄せた。
風紀部の活動がない日の放課後、鈴華とはいつも訓練をしている。
学内の訓練所で、零の魔法を相手に幻影魔法を磨く。
五月から続いている習慣だった。
ただ、それも試験が終わるまでは休みにしようと、先週のうちに決めていたことだ。
「なんだ? 魔法の訓練か?」
零は靴を持った手を軽く振った。
「ダメだぞ。試験前なんだから、ちゃんと勉強しないと」
鈴華の動きが、ぴたりと止まった。
ガラス戸の向こうで、下校していく生徒たちの笑い声が聞こえる。
その明るさとは裏腹に、昇降口の空気が一段冷えた気がした。
「……それを」
鈴華がゆっくりと瞬きをする。
「それを、黒神くんが言うんですか?」
「言うさ。これでも一応、お前の先生だからな」
「国語24点、数学19点、日本史22点、理科26点の先生が、ですか?」
鈴華の声は穏やかなままだった。
点数を一つずつ正確に並べるあたりに、容赦のなさが滲んでいる。
「……よく覚えてんな、お前」
「朝、影山くんがあんなに大きな声で読み上げていたじゃないですか」
零は口を閉じた。反論の余地が、どこにも見当たらない。
鈴華は咳払いを一つして、表情を整えた。
それから一歩、零の方へ近づく。
「黒神くん。四月に私が言ったこと、覚えていますか?」
零は片足だけ靴を履いた中途半端な姿勢のまま、鈴華を見た。
四月、あの事件が終わったあとの、夕暮れ。
『黒神くんの普通の学校生活——私も協力します』
覚えていないはずがなかった。
「……ああ」
「私、黒神くんの学生生活に協力するって、約束しましたから」
ガラス戸越しの光が、鈴華の横顔を照らしている。
碧色の瞳が、逸らされることなく零を捉えていた。
「補習で夏休みがなくなってしまうなんて、学生生活としては困りますよね?」
「まあ、困るな」
「ですから――私が、勉強を教えます」
言い切った。
迷いのない声だった。
朝の休み時間、自分の席へ戻る途中で見せた横顔の意味を、零はようやく理解する。
あのときから、こいつはもう決めていたのだ。
「訓練では、いつも黒神くんに教わってばかりでしたから。今度は、私の番です」
零は手の中の靴を持ち直し、へらりと笑った。
「悪いな、白河。気持ちだけもらっとくわ。俺なんかに付き合ってたら、お前の点まで下がっちまう」
「自分の分は、ちゃんと計画を立ててありますから」
鈴華は間を置かずに答えた。用意していた返事なのだと、すぐに分かる。
「風紀部の活動もあんだろ」
「巡回の順番なら、調整できます」
零の眉が上がる。
どこを突いても、先に塞がれている。
「……用意周到なこって」
「ふふ。風紀部で、段取りを考えるのには慣れていますから」
鈴華は胸の前で鞄を持ち直した。
自慢しているのではなく、事実を順番に並べているだけの顔だった。
零は逃げ道を探した。
一人でやれる、と言いかけて、口を閉じる。
一人でやった結果が、影山の持ってきたあの二枚目の紙だった。
それでも、今日だけは譲れないものがある。
「分かった、分かったって。けど、始めんのは明日からってことで」
「今日から、です」
鈴華は微笑んだまま、首を横に振った。
「今日はちょいと先約があってな」
「……どなたと、ですか?」
鈴華の首が、かすかに傾く。零は視線を天井へ逃がした。
「……駅前のケーキ屋と」
言ってから、しまったと思った。
鈴華の表情が、一瞬だけ固まる。
それからゆっくりと、その口元に笑みが浮かんだ。
穏やかな、完璧な微笑みだった。
ただし、目が笑っていない。
零はこの顔に覚えがあった。
五月にも、一度だけ見ている。
そして、あのとき自分がどうなったかも覚えている。
「黒神くん?」
「……おう」
返事は、自分でも情けなくなるほど細かった。
「試験は、来週ですよ?」
「知ってる」
鈴華がもう一歩、距離を詰める。
「今日から、図書室で、勉強します」
零の手から、靴がするりと取り上げられた。
鈴華はそれを丁寧に下駄箱の中へ戻し、扉を閉める。
それから、改めて零を見上げた。
「い、い、で、す、よ、ね?」
一音ずつ、区切るように。
微笑みは崩れていない。
声も穏やかなままだ。
それなのに、逃げ道という逃げ道が、音もなく塞がれていく感覚があった。
任務で修羅場はいくつも越えてきた。
A級の犯罪者と正面からやり合ったこともある。
その経験のどれもが、今この瞬間には何の役にも立たない。
「……はい」
気づけば、そう答えていた。
鈴華の微笑みが、ふっと本物に変わる。
「はい。では、行きましょうか」
その声がどこか嬉しそうに聞こえたのは、たぶん気のせいではない。
零は片足だけ履いていた外履きを脱ぎ、上履きへ足を戻した。
靴下越しに、昇降口の床が冷たい。
鈴華が階段の方へ歩き出す。
零はその半歩後ろを、渋々ついていった。
前を行く鈴華の黒髪が、歩くたびに背中で揺れている。
零は頭の後ろで手を組み、天井を見上げた。
「……白河って、強情だよな」
ぼそりと、口の中だけで呟いたつもりだった。
鈴華の足が止まる。
くるりと振り返ったその顔には、さっきと同じ、完璧な微笑みが浮かんでいた。
「何か、言いましたか?」
「いえ、なんでもないです」
零は即座に答えた。
背筋まで伸びていた。
鈴華はしばらく零を見つめ、それから何事もなかったように前を向いて歩き出す。
零は組んでいた手を下ろし、黙ってそのあとに続いた。
二階の廊下を抜け、図書室のある別棟へ渡る。
放課後の校舎は、昼間よりも音が少ない。
吹奏楽部が音階をさらう音が、遠くから響いていた。
渡り廊下の窓から、坂の下の街並みが見える。
その先には駅前の通りがあって、あのケーキ屋のショーケースには、今も桃のタルトが並んでいるはずだった。
「……俺のタルト」
未練がましく呟いた声は、今度は隠す気もなかった。
前を歩く鈴華が、肩越しに振り返る。
呆れを隠しもしない顔で、深々とため息をついた。
「もう……タルトは、試験が終わってから食べればいいじゃないですか」
「売り切れたらどうすんだよ。季節限定だぞ」
鈴華は前へ向き直った。
その横顔が、ほんの少し笑っている。
「全部赤点を回避できたら、ご褒美に私がご馳走しますから」
零は思わず足を止めた。
「……マジで?」
「はい」
「タルト、ワンホールでもか」
鈴華が歩みを止めて振り返る。
心底呆れたような、それでいてどこか可笑しそうな顔だった。
「本当に、黒神くんって甘いものがお好きですよね」
「それがどうした」
最早、隠す気がないのか零は悪びれもせずに返した。
「どうもしません。ただ、私のお財布にも限りがあるんですから。二切れまでです」
「三切れ」
零が指を三本立てる。
鈴華の返事に迷いはなかった。
「二切れです」
「……二切れと、紅茶」
鈴華は少し考えるように視線を上げ、それから口元をほころばせた。
「ふふ。紅茶は、つけましょうか」
零は渡り廊下の窓から、もう一度だけ坂の下を見た。
ついさっきまで遠ざかっていた桃のタルトが、急に手の届く場所へ戻ってきた気がする。
我ながら単純だと思ったが、甘いものの力は侮れない。
「……約束だからな」
「はい。約束です」
図書室の扉の前で、鈴華が足を止めた。
「試験前なので、自習席は混んでいるかもしれませんね。空いているといいんですけど」
そう言いながら、扉を開ける。
冷房の効いた空気が、廊下へ流れ出してきた。
窓際の六人掛けの机。
その一番奥の席に、見慣れた七三分けの眼鏡が座っていた。
隣では、やや小柄な人影が教科書を広げている。
机の上には、なぜか分厚い紙の束が積まれていた。
影山が顔を上げ、眼鏡を光らせる。
「待ってたぞ、同志黒神」
零と鈴華は、扉の前で揃って立ち止まった。




