1話:赤点の宣告② 〜夏の終わり〜
駅から学校までの道は、朝のこの時間だけ同じ制服で埋まる。
半袖のシャツが列をなして坂を上っていく光景は、つい先週まで見なかったものだ。
衣替えを境に、通学路の色が一斉に変わった。
星峰魔法高等学校の校舎は、六月の終わりの日差しを受けて白く光っていた。
正門をくぐった先の中庭では、すでに数人の生徒が木陰に固まっている。
朝のうちから日差しを避ける季節になった、ということらしい。
零は欠伸を噛み殺しながら、昇降口で靴を履き替えた。
一年C組の教室には、朝のホームルーム前の緩んだ空気が残っている。
窓際の席で誰かが机に突っ伏し、廊下側では女子が数人、昨夜の番組の話で笑い合っていた。
開け放たれた窓から、生ぬるい風が入ってくる。
零は自分の席に着くなり、机へ顎を乗せた。
「おはようございます、黒神くん」
頭の上から、聞き慣れた声が降ってくる。
顔を上げると、鞄を抱えた鈴華が立っていた。
艶のある長い黒髪が、窓から差す光を受けて肩の上で揺れている。
夏服になっても、着こなしは相変わらずきちんとしていた。
「よう、白河」
「朝から、随分と眠そうですね」
「電話で叩き起こされてな。七時だぞ、七時」
鈴華が首を傾げる。
「……七時なら、普通に起きる時間だと思いますけど」
実際には、電話が鳴る前から起きていた。
零は答えずに、もう一度机へ顎を戻す。
鈴華はそれ以上追及せず、代わりに、机の上に何も出ていないことへ視線を落とした。
「教科書は?」
「鞄の中だ」
「出しておかないと、また一時間目に慌てますよ?」
零は顎を机に乗せたまま、目だけで鈴華を見上げた。
「慌てねえよ。借りりゃいい」
「誰から借りるつもりですか?」
「そこにいる、親切な誰かから」
鈴華が黙った。彼女の席は、零の斜め後ろにある。
「……私は、貸しませんからね」
「つれねえな」
そこへ、教室の後方から大きな声が飛んできた。
「発見したぞ、同志黒神!」
振り向くまでもなかった。
黒髪を七三に分けた眼鏡の男が、両手に紙の束を掲げて歩いてくる。
その後ろから、やや小柄な人影が呆れ顔でついてきていた。
「朝から声がでかいんだよ、影山」
「聞け。これは学年全体の趨勢を左右する、極めて重大な資料である」
影山は芝居がかった手つきで、机の上へ紙を広げた。
中間試験の学年順位表だった。
天野が横から覗き込み、げんなりした顔をする。
「またそれ持ってきたのか」
「何度見てもいいものだろう。俺の名が、栄えある五位に刻まれているのだからな」
天野の目が据わった。
「その上に四人いるけどな。それに、もう三回は見せられた」
「四回目にして、新たな発見があるかもしれん」
零は順位表へ目を落とした。
一番上に書かれた名前で、視線が止まる。
一年A組、鏡野澪。
「……こいつ、中間も一位か」
「入学時の首席にして、中間も学年一位だ」
影山が眼鏡を押し上げる。
「風紀部のエースを務めながら、この成績。率直に言って、化け物だな」
「褒めてんのか、それ」
「最大級の賛辞だとも」
天野は順位表の一番上に目を留めたまま、感心したように呟いた。
「風紀部の仕事もあるのに、いつ勉強してるんだろうな」
「そこだ、同志天野。そこに深遠なる謎がある」
零は何も言わずに、その名前を眺めていた。
四月の模擬戦で向かい合った、青みがかった紫の瞳を思い出す。
あのときも、隙のない奴だと思った。
視線を下へ滑らせていくと、見慣れた名前が二つ続けて目に入った。
一年C組、白河鈴華。
その少し下に、一年C組、天野悠。
「お前ら、揃って載ってんのな」
「まあ、それなりにな」
天野は淡々と答え、影山の方へ顎をしゃくった。
「こいつほどじゃないけど」
零が顔を上げると、鈴華は照れたように視線を逸らした。
「……特別なことはしていませんよ。授業を聞いて、復習をしているだけです」
「それができりゃ苦労しねえんだよ」
鈴華は困ったように眉を下げ、それでも引かずに言葉を継いだ。
「毎日十分でも構わないんですよ?」
「その十分が一番きついんだって」
鈴華が小さく息をつく。
呆れているようでいて、その表情は少しだけ柔らかかった。
「ところで同志黒神」
影山の指が、紙をめくる。
「こちらにも、実に興味深い名前があるのだが」
二枚目が机の上に広げられた。
零は何気なくそれを覗き込み、そして固まった。
自分の名前が、しっかりと載っている。
各教科の点数まで、一つ残らず。
「おい」
「なんだ」
「掲示されてんのは、50位までだろ」
廊下の掲示板に貼り出されるのは上位50位までで、それ以下の名前が公表されることはない。
まして個人の点数など、どこにも出ていないはずだった。
零は二枚目を指で叩いた。
「なんで俺の点が載ってんだよ」
影山は眼鏡を押し上げ、にやりと笑った。
「情報屋だからな」
「答えになってねえ」
「答えているとも。俺が情報屋であるという、最も重要な情報をな」
天野が二枚目に目をやり、声を落とした。
「……お前、それどこで手に入れたんだ」
「言えるわけがなかろう」
天野は紙から顔を上げ、平坦な声で告げた。
「いつか捕まるぞ、お前」
「捕まるときは、同志たちも道連れだ」
「巻き込むなよ」
零はこめかみを押さえた。
味方なら頼もしいが、敵には回したくない。
四月に抱いたその感想を、また更新することになる。
「で、だ」
影山の指が、二枚目の上を滑っていく。
「魔法学、100点。学年一位。素晴らしい」
「……見るなよ」
影山の眼鏡が、今度は別の意味で光った。
獲物を見つけたときの顔だ。
「そして、それ以外」
「おい」
「国語、24点。数学、19点。日本史、22点。理科、26点」
読み上げられるたびに、零は机へ沈んでいく。
天野が気の毒そうな顔をした。
「よく入学できたな、お前」
「入学試験には実技があるんだよ」
天野は一瞬考え込み、それから納得したように頷いた。
「ああ、なるほど。そこで稼いだのか」
「そういうこった」
鈴華は二枚目を覗き込んだまま、何とも言えない表情をしていた。
呆れと、心配と、それから同情が混ざっている。
その視線が、ある一点で止まる。
「……黒神くん」
「なんだよ」
「英語、31点とありますけど」
零の肩が跳ねた。
「あー」
「黒神くんは、イギリスにいたんですよね?」
三人の視線が集まる。
影山が身を乗り出した。
「そうだ、俺もそれが気になっていた。同志黒神は帰国子女のはずだろう。なぜ英語が31点なのだ」
「話せるのと、点が取れるのは別だ」
影山の眼鏡の奥で、目が瞬く。
「別なのか」
「別だ」
零は椅子の背もたれへ体重を預け、天井を仰いだ。
「そもそもな、あれは英語じゃねえ」
「え?」
鈴華が瞬きをする。
「別の教科だ。名前が同じなだけで、中身はまるで別もんだ」
「いや、英語だろ」
天野が即座に言った。
零はそれを聞き流し、人差し指を立てる。
「考えてもみろよ。ロンドンで道を聞くときに、第三文型がどうとか言う奴がいるか?」
「……言いませんけど」
「だろ?」
鈴華は困ったように笑い、それでも首を横に振った。
「ですが、試験には出ますよね?」
「だからおかしいって言ってんだよ」
零は身を起こし、机の上の紙を指で弾いた。
「問四。次の英文を日本語に訳しなさい。おかしいだろ。英語の試験なのに、日本語を書かせるんだぞ」
「そういう問題ですから」
「訳す必要がどこにある。読めば分かるんだから、それでいいだろ」
鈴華はにこりと微笑んだ。
「読めているかどうか、先生には分からないじゃないですか」
事実だけを置いていく口調が、今朝の妹とよく似ている。
零は反論を探して、見つからずに黙った。
影山が感心したように頷く。
「なるほど。つまり同志黒神は、英語ができるがゆえに英語ができないわけだ」
「分かってんじゃねえか」
「違うと思う」
天野が短く否定した。
そのとき、教室の引き戸が開いた。
担任が入ってくると、散らばっていた生徒たちが席へ戻っていく。
影山は二枚の紙を素早く丸めて小脇に抱え、天野とともに自分の席へ向かった。
鈴華も、去り際に一度だけ振り返る。
「一時間目、数学ですよ。教科書」
「へいへい」
零は渋々と鞄へ手を突っ込んだ。
朝のホームルームが始まる。
連絡事項をいくつか読み上げたあと、担任はプリントの束を持ち上げた。
「さて、期末試験は来週からだ。今日はその前に、一つ大事な話をしておく」
前の席から順に、プリントが回されてくる。
「期末で赤点を取った者は、夏休みに補習を受けてもらう」
教室に、低いどよめきが広がった。
「赤点は30点未満。これは学年共通だ。補習は一教科につき五日間。複数あれば、その分だけ日数が加算される」
零はプリントを受け取り、片手でひらひらと揺らした。
隣の席の生徒が、絶望的な顔で天井を見上げている。前の方では、誰かが悲鳴を上げていた。
零だけが、どうということもない顔をしていた。
「補習くらい、出りゃいいだろ」
呟きが聞こえたのか、前の席の生徒が振り返って、何か言いたげな顔をする。
零は口の端を上げて見せた。
数日、学校に来る。
それだけの話だ。
任務で三日三晩寝ずに動いたこともある。
教室に座っているだけの時間が、それより辛いはずがない。
担任が最後の連絡を終え、教室を出ていく。
一時間目までの短い休み時間。
教室のあちこちで、悲鳴と嘆きと、他人の不幸を笑う声が入り混じった。
その中で、零はプリントを机の隅へ押しやり、欠伸をした。
「黒神くん」
いつの間にか、鈴華が机の横に立っていた。
手には自分のプリントを持っている。
「その日程表、ちゃんと見ましたか?」
「日程?」
「裏面です」
言われて、零はプリントを裏返した。
夏休みのカレンダーが印刷されている。
補習の実施日が、日付ごとに細かく区切られていた。
一教科につき五日。
二教科なら十日。
三教科なら十五日。
零の目が、その数字を追っていく。
中間試験で、赤点だった教科の数を思い出す。
国語、数学、日本史、それから、理科。
指を折るまでもなかった。
「……おい」
「はい」
零はプリントから目を離さないまま、ゆっくりと口を開いた。
「これ、夏休みのほとんどが埋まるんじゃねえか?」
「中間と同じ四教科なら、二十日です」
鈴華はそこで一度言葉を切り、付け加えた。
「英語も一点差でしたから、もし落とせば二十五日ですね」
淡々とした口調だった。
事実を読み上げているだけの声。
それが余計に効いた。
零の脳裏に、今朝の電話が蘇る。
『例の件、大丈夫だから夏休み空けておくって』
婆ちゃんが、わざわざ予定を空けてくれた。
叔父さんも叔母さんも、そのつもりで動いているはずだ。
あの家の人たちが何かを調整するということが、どれだけ簡単ではないかを、零は知っている。
それだけじゃない。
『私も、夏休みはそっちに行くから』
霞が来る。
あの妹が、自分から行きたいと言った。
その全部を、自分の赤点で潰す。
零は椅子の上で完全に固まった。
「同志黒神?」
影山が顔を覗き込んでくる。
天野も、何事かと近づいてきた。
「おい、黒神。顔色が」
零はゆっくりとプリントを机へ置き、両手で顔を覆った。
「……終わった」
「え?」
鈴華が目を瞬かせる。
「俺の夏が終わった……」
天野が呆れたように眉を寄せる。
「まだ試験も始まってないだろ」
その至極まともな指摘は、届かなかった。
影山が愉快そうに眼鏡を押し上げる。
「ほほー。同志黒神にも、守りたいものがあったか」
「……まあな」
零は顔を覆ったまま、それだけ答えた。
「して、その内容は?」
「知らなくていいことだ」
指の隙間から漏れた声に、影山はそれ以上踏み込まなかった。
鈴華は何も言わず、ただ零を見下ろしていた。
その碧色の瞳には、呆れとは別の色が浮かんでいる。この人が本気で困っている顔を見るのは、あまりないことだった。
一時間目の予鈴が鳴る。
生徒たちが慌ただしく席へ戻る中で、鈴華だけが一拍遅れて動いた。
自分の席へ向かうその横顔に、何かを決めたような表情が浮かぶ。
零は気づかなかった。
窓の外では、六月の終わりの空が、どこまでも青く晴れ渡っている。
その下で、もうすぐ来る夏の気配だけが、静かに膨らんでいた。




