↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
漆黒の流星《ブラックスター》  作者: ショウ
第2.5章:赤点殲滅作戦

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
135/169

1話:赤点の宣告① 〜妹からの電話〜

六月の終わりの朝は、もう夏の匂いがした。


カーテンの隙間から差し込む光が、フローリングの上に細い線を引いている。

窓を開け放てば、涼しさより先に、日差しの熱を含んだ空気が流れ込んでくる。

そういう季節になっていた。


東京の住宅街の一角。

ひとりで暮らすには広すぎる家に、生活の音はほとんどない。


リビングのテーブルには、昨夜放り出したままの鞄と、飲みかけのカップ。

ソファの背には、制服のシャツが掛けっぱなしになっている。

この家で暮らし始めて、三か月が経とうとしていた。一人の暮らしにも、この広さにも、ようやく慣れてきたところだ。


零は洗面所から戻り、濡れた髪をタオルで乱暴に拭いた。

鏡を見る習慣はあまりない。

跳ねた毛先は、放っておけばそのうち落ち着く。

冷蔵庫を開け、牛乳のパックを取り出す。

残りが少ないのを確かめてから、直接口をつけて飲んだ。

音の少ない部屋に、冷蔵庫の低い唸りだけが響いている。


ソファのシャツを取り、腕を通す。

半袖だ。

衣替えを済ませたのは先週のことで、上着を羽織る手間が一つ減ったことだけが、零にとって六月の数少ない利点だった。


袖口から出た腕に、朝の空気がじかに触れる。夏が近い。

ボタンを留めようとしたところで、ソファの上の端末が震え始めた。

零は牛乳のパックをテーブルへ置き、画面を覗き込む。

表示された名前に、口の端が上がった。


「よう、霞」


『おはよう、兄さん』


落ち着いた声が返ってくる。

黒神霞。

京都で暮らす、中学二年の妹だ。

向こうの朝も、こちらと同じように晴れているのだろうか。

零は端末を肩と耳の間に挟み、シャツのボタンを下から留めていく。


『そっちは、もう起きてたんだ』


「まあな。これでも学校には行ってるんだぜ、俺は」


一拍、間が空いた。


『……行くのは当たり前だと思うけど』


淡々と返された。

妹は昔からこういう言い方をする。

声を荒らげもせず、飾りもせず、核心だけをぽんと置いていく。

言われた方は反論の隙もなく、黙るしかない。

零は笑って、次のボタンへ指を移した。


「で、朝っぱらからどうした。まさか兄の声が聞きたくなったわけじゃねえよな」


『違う』


「即答かよ」


苦笑する零に構わず、霞は平坦な声のまま続けた。


『伝言があるだけ』


端末の向こうで、椅子を引くような音がした。


『お婆ちゃんから。例の件、大丈夫だから夏休み空けておくって』


零の手が、止まった。

窓の外を、遠くの電車の音が横切っていく。

カーテン越しの光が、床の上でゆっくりと形を変えていた。

婆ちゃんに頼みごとをしたのは、零の方だった。

返事は、もう少し先になると思っていた。

零は目を伏せて、口元を緩める。


「そうか。助かる」


『それだけ?』


「何がだよ」


霞の声に、探るような色が混じる。


『ずいぶん静かな反応だと思って』


零はそれに気づかないふりをして、最後のボタンを留めた。


「サンキュー。婆ちゃんに礼を言っといてくれ。叔父さんと叔母さん、あと雪姉にもよろしくな」


『……分かった。伝えておく』


霞の声が、ほんの少し柔らかくなった気がした。

京都の家で、あの人たちに囲まれて過ごす妹の姿は、たやすく思い浮かぶ。

朝は誰より早く起きて、婆ちゃんの手伝いをしているのだろう。

頼まれてもいないのに、当たり前のような顔をして。

零はネクタイを手に取り、壁際の姿見の前へ移った。


『そういえば京都、来てたんだってね』


結び目を作りかけた指が止まる。


「まあな。寄っただけだ」


『顔くらい見せてくれてもよかったのに』


拗ねを含んだ声だった。

普段は感情を表に出さない妹にしては、珍しい言い方だ。


「悪いな。予定が詰まっててよ。それに、お前は学校だろ?」


『愛しい妹の成長、見たくないの?』


零は姿見の中の自分へ、わざとらしく肩を落としてみせた。


「見たくて見たくてたまんねえよ。夜も眠れねえくらいにな」


『……棒読み』


間髪を入れない指摘だった。


「おいおい、心を込めたつもりだぜ?」


端末の向こうで、呆れたような間が落ちる。


『棒読みに心は込められないと思う』


小さく息を吐く気配がした。

呆れてはいても、本気で怒っているわけではない。

そういう呼吸を、零はもう長いこと知っている。

零はネクタイを結び直しながら、姿見に映る自分から目を外した。


五月のあの日、京都には半日もいなかった。

客人を二人連れて、やるべきことを済ませて、すぐに発った。

妹の学校が終わるのを待つ時間は、どこにもなかった。

それでも、寄ろうと思えば寄れたはずだ。


「……次は、ちゃんと顔出すよ」


『本当に?』


「嘘つく理由がねえだろ」


霞の返事は、すぐには来なかった。


『理由がなくても、兄さんは嘘をつく』


「ひでえ言われようだな」


零は喉の奥で笑った。窓の外で、鳥が短く鳴いて飛び去っていく。


『私も、夏休みはそっちに行くから』


「おう、来いよ。歓迎してやる」


あまりにあっさりした返事に、霞は不満げな間を置いた。


『……ずいぶん軽いね』


零はネクタイの結び目を整え、角度を確かめる。


「そう言うなって。どうせ婆ちゃんに言われて来るんだろ」


『別に。私が行きたいだけ』


霞はそこで一度言葉を切った。

何かを考えるような間が落ちる。


『それに、会いたい人もいるし』


零は襟を整える手を止めた。


「会いたい人? 俺のことか」


『兄さんは入ってない』


一刀両断だった。


「……さっき、愛しい妹がどうとか言ってなかったか」


『それとこれとは別』


姿見の中の自分が、なんとも言えない顔をしている。

零は結び目を指で押し上げ、話を戻した。


「で、誰だよ。東京に知り合いなんていたか?」


『内緒』


それきり、霞は何も付け足さなかった。

零は首をひねった。

京都で暮らす妹に、東京の知り合いがいるという話は聞いたことがない。

考えても心当たりは浮かばず、すぐに諦める。

振り返って、リビングを見回した。

妹が来るなら、掃除くらいはしておくか――と、頭の隅で考える。


それから、しばらく他愛のない話が続いた。

庭に居着いた猫の話。

近所の店が改装した話。

京都の家の話。

どれも取るに足らない話だった。

零の返事も、そうか、へえ、それで、と相槌ばかりだ。

それでも霞は、話をやめない。

淡々とした声で、途切れさせずに続ける。

次の話題を探すような間が一度だけあって、それからまた別の話が始まる。

兄と妹が離れて暮らすということが、どういうことなのか。

その間の取り方だけで、零にはいつも分かってしまう。

電話の向こうで、紙をめくるような音がした。


『そういえば兄さん、もうすぐ期末試験だよね? 勉強の方は』


零の指が、ネクタイから離れた。

姿見の中の自分が、露骨に目を逸らしている。


「……おっと! 霞、すまない。そろそろ学校行かないと遅刻するから、また今度な」


『え、ちょっと兄さ』


返事を待たずに通話を切った。

静寂が戻る。

零は端末をポケットへ滑り込ませ、テーブルの牛乳パックを冷蔵庫へ戻した。

鞄を掴む。


リビングの時計は、七時を少し回ったところを指していた。


家を出る時間までは、まだ三十分以上ある。

零は玄関で靴を履きながら、どうにも落ち着かない気分で頭を掻いた。

ポケットの端末が、短く震える。

霞からのメッセージが、一通だけ届いていた。


『逃げたね』


零は画面を伏せ、玄関の天井を仰いだ。


「……なんで分かるんだよ」


誰も答えない家に、その呟きだけが残った。


お待たせしました。

本日から2.5章の投稿を再開します。


ブックマークや★評価をして頂けたら励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。