1話:赤点の宣告① 〜妹からの電話〜
六月の終わりの朝は、もう夏の匂いがした。
カーテンの隙間から差し込む光が、フローリングの上に細い線を引いている。
窓を開け放てば、涼しさより先に、日差しの熱を含んだ空気が流れ込んでくる。
そういう季節になっていた。
東京の住宅街の一角。
ひとりで暮らすには広すぎる家に、生活の音はほとんどない。
リビングのテーブルには、昨夜放り出したままの鞄と、飲みかけのカップ。
ソファの背には、制服のシャツが掛けっぱなしになっている。
この家で暮らし始めて、三か月が経とうとしていた。一人の暮らしにも、この広さにも、ようやく慣れてきたところだ。
零は洗面所から戻り、濡れた髪をタオルで乱暴に拭いた。
鏡を見る習慣はあまりない。
跳ねた毛先は、放っておけばそのうち落ち着く。
冷蔵庫を開け、牛乳のパックを取り出す。
残りが少ないのを確かめてから、直接口をつけて飲んだ。
音の少ない部屋に、冷蔵庫の低い唸りだけが響いている。
ソファのシャツを取り、腕を通す。
半袖だ。
衣替えを済ませたのは先週のことで、上着を羽織る手間が一つ減ったことだけが、零にとって六月の数少ない利点だった。
袖口から出た腕に、朝の空気がじかに触れる。夏が近い。
ボタンを留めようとしたところで、ソファの上の端末が震え始めた。
零は牛乳のパックをテーブルへ置き、画面を覗き込む。
表示された名前に、口の端が上がった。
「よう、霞」
『おはよう、兄さん』
落ち着いた声が返ってくる。
黒神霞。
京都で暮らす、中学二年の妹だ。
向こうの朝も、こちらと同じように晴れているのだろうか。
零は端末を肩と耳の間に挟み、シャツのボタンを下から留めていく。
『そっちは、もう起きてたんだ』
「まあな。これでも学校には行ってるんだぜ、俺は」
一拍、間が空いた。
『……行くのは当たり前だと思うけど』
淡々と返された。
妹は昔からこういう言い方をする。
声を荒らげもせず、飾りもせず、核心だけをぽんと置いていく。
言われた方は反論の隙もなく、黙るしかない。
零は笑って、次のボタンへ指を移した。
「で、朝っぱらからどうした。まさか兄の声が聞きたくなったわけじゃねえよな」
『違う』
「即答かよ」
苦笑する零に構わず、霞は平坦な声のまま続けた。
『伝言があるだけ』
端末の向こうで、椅子を引くような音がした。
『お婆ちゃんから。例の件、大丈夫だから夏休み空けておくって』
零の手が、止まった。
窓の外を、遠くの電車の音が横切っていく。
カーテン越しの光が、床の上でゆっくりと形を変えていた。
婆ちゃんに頼みごとをしたのは、零の方だった。
返事は、もう少し先になると思っていた。
零は目を伏せて、口元を緩める。
「そうか。助かる」
『それだけ?』
「何がだよ」
霞の声に、探るような色が混じる。
『ずいぶん静かな反応だと思って』
零はそれに気づかないふりをして、最後のボタンを留めた。
「サンキュー。婆ちゃんに礼を言っといてくれ。叔父さんと叔母さん、あと雪姉にもよろしくな」
『……分かった。伝えておく』
霞の声が、ほんの少し柔らかくなった気がした。
京都の家で、あの人たちに囲まれて過ごす妹の姿は、たやすく思い浮かぶ。
朝は誰より早く起きて、婆ちゃんの手伝いをしているのだろう。
頼まれてもいないのに、当たり前のような顔をして。
零はネクタイを手に取り、壁際の姿見の前へ移った。
『そういえば京都、来てたんだってね』
結び目を作りかけた指が止まる。
「まあな。寄っただけだ」
『顔くらい見せてくれてもよかったのに』
拗ねを含んだ声だった。
普段は感情を表に出さない妹にしては、珍しい言い方だ。
「悪いな。予定が詰まっててよ。それに、お前は学校だろ?」
『愛しい妹の成長、見たくないの?』
零は姿見の中の自分へ、わざとらしく肩を落としてみせた。
「見たくて見たくてたまんねえよ。夜も眠れねえくらいにな」
『……棒読み』
間髪を入れない指摘だった。
「おいおい、心を込めたつもりだぜ?」
端末の向こうで、呆れたような間が落ちる。
『棒読みに心は込められないと思う』
小さく息を吐く気配がした。
呆れてはいても、本気で怒っているわけではない。
そういう呼吸を、零はもう長いこと知っている。
零はネクタイを結び直しながら、姿見に映る自分から目を外した。
五月のあの日、京都には半日もいなかった。
客人を二人連れて、やるべきことを済ませて、すぐに発った。
妹の学校が終わるのを待つ時間は、どこにもなかった。
それでも、寄ろうと思えば寄れたはずだ。
「……次は、ちゃんと顔出すよ」
『本当に?』
「嘘つく理由がねえだろ」
霞の返事は、すぐには来なかった。
『理由がなくても、兄さんは嘘をつく』
「ひでえ言われようだな」
零は喉の奥で笑った。窓の外で、鳥が短く鳴いて飛び去っていく。
『私も、夏休みはそっちに行くから』
「おう、来いよ。歓迎してやる」
あまりにあっさりした返事に、霞は不満げな間を置いた。
『……ずいぶん軽いね』
零はネクタイの結び目を整え、角度を確かめる。
「そう言うなって。どうせ婆ちゃんに言われて来るんだろ」
『別に。私が行きたいだけ』
霞はそこで一度言葉を切った。
何かを考えるような間が落ちる。
『それに、会いたい人もいるし』
零は襟を整える手を止めた。
「会いたい人? 俺のことか」
『兄さんは入ってない』
一刀両断だった。
「……さっき、愛しい妹がどうとか言ってなかったか」
『それとこれとは別』
姿見の中の自分が、なんとも言えない顔をしている。
零は結び目を指で押し上げ、話を戻した。
「で、誰だよ。東京に知り合いなんていたか?」
『内緒』
それきり、霞は何も付け足さなかった。
零は首をひねった。
京都で暮らす妹に、東京の知り合いがいるという話は聞いたことがない。
考えても心当たりは浮かばず、すぐに諦める。
振り返って、リビングを見回した。
妹が来るなら、掃除くらいはしておくか――と、頭の隅で考える。
それから、しばらく他愛のない話が続いた。
庭に居着いた猫の話。
近所の店が改装した話。
京都の家の話。
どれも取るに足らない話だった。
零の返事も、そうか、へえ、それで、と相槌ばかりだ。
それでも霞は、話をやめない。
淡々とした声で、途切れさせずに続ける。
次の話題を探すような間が一度だけあって、それからまた別の話が始まる。
兄と妹が離れて暮らすということが、どういうことなのか。
その間の取り方だけで、零にはいつも分かってしまう。
電話の向こうで、紙をめくるような音がした。
『そういえば兄さん、もうすぐ期末試験だよね? 勉強の方は』
零の指が、ネクタイから離れた。
姿見の中の自分が、露骨に目を逸らしている。
「……おっと! 霞、すまない。そろそろ学校行かないと遅刻するから、また今度な」
『え、ちょっと兄さ』
返事を待たずに通話を切った。
静寂が戻る。
零は端末をポケットへ滑り込ませ、テーブルの牛乳パックを冷蔵庫へ戻した。
鞄を掴む。
リビングの時計は、七時を少し回ったところを指していた。
家を出る時間までは、まだ三十分以上ある。
零は玄関で靴を履きながら、どうにも落ち着かない気分で頭を掻いた。
ポケットの端末が、短く震える。
霞からのメッセージが、一通だけ届いていた。
『逃げたね』
零は画面を伏せ、玄関の天井を仰いだ。
「……なんで分かるんだよ」
誰も答えない家に、その呟きだけが残った。
お待たせしました。
本日から2.5章の投稿を再開します。
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