5話:黒の魔法使い③
しばらくの間、教室には箒が床を擦る音だけが響いていた。
鈴華は掃除を進めながら、何度か零の横顔を窺う。
風紀部で読んだ報告書が、どうしても頭から離れなかった。
迷った末に、鈴華は意を決して口を開く。
「黒神くん」
「ん?」
零が机を動かす手を止めた。
「黒い魔法使いの事件について、ご存じですか?」
「ああ。今日、影山から聞いた」
零は机の脚を床の印へ合わせると、再び箒を手に取る。
「風紀部でも追ってるのか?」
「はい。ここ数日、黒い炎を使った事件が続いているんです」
鈴華は声を落とし、手元へ視線を向けた。
「犯人は現場で、自分のことを『漆黒の流星』と名乗っているそうです」
零の箒が、ほんの一瞬だけ止まる。
だが、鈴華がその変化に気づくよりも早く、何事もなかったように動き始めた。
「へぇ。そりゃまた、大層な名前を名乗ったもんだな」
声音は、いつもと変わらない。
興味があるのかないのか分からない、飄々とした口調だった。
「支部でも調べているんですが、まだ相手の正体までは分かっていません」
鈴華は箒を胸元へ引き寄せ、零を見つめる。
「黒神くんは、今回の犯人が本物だと思いますか?」
零は答えず、窓の外へ目を向けた。
傾いた陽が、黄金色の瞳を淡く照らしている。
「さあな」
やがて鈴華へ振り返ると、口元を悪戯っぽくつり上げた。
「案外、俺が本物だったりして」
「え……?」
あまりにも自然に言われたため、鈴華は一瞬、言葉を失った。
入学式の日、路地裏へ降り注いだ黒い星。
実技試験で見せた、圧倒的な威力。
イギリスから帰国したという経歴。
そして、目の前にいる黒神零。
ばらばらだったものが、一瞬だけつながりかける。
しかし――。
目の前にいるのは、授業中になるとほとんど眠っている高校一年生だ。
世界最高峰の国際魔法機関に所属し、世界中の事件を解決してきた特別執行官とは、どうしても結びつかなかった。
鈴華の口元から、自然と笑みがこぼれる。
「ふふっ。黒神くん、冗談がお上手なんですね」
「あれ、信じねぇの?」
「確かに、とても強いとは思います」
鈴華は零の顔を真っ直ぐ見つめたあと、困ったように眉尻を下げた。
「ですが、現役の高校生が、世界中で事件を解決してきた特別執行官だなんて、普通は考えません」
「そういうもんか?」
「それに……」
鈴華は少しだけ視線を逸らす。
「黒神くん、授業中はほとんど寝ていますし」
零が眉を上げた。
「そこかよ」
呆れたような反応にも、鈴華は悪びれることなく首を傾げる。
「だって、本当のことでしょう?」
「人を勤務態度だけで判断するのはどうかと思うぞ」
鈴華は一拍置き、静かに訂正した。
「授業は勤務ではありませんよ」
即座に返され、零は一瞬だけ黙り込む。
「……言ったな、このやろー」
わざとらしく不満そうな顔をする零を見て、鈴華は楽しそうに笑った。
先ほどまで胸に残っていた緊張が、少しだけ和らいでいく。
それでも、事件について聞きたかったことがなくなったわけではない。
鈴華は笑みを収めると、再び口を開いた。
「ちなみに私は、今回の犯人は偽物だと思っています」
「なんで?」
「風紀部の資料で、本物の『漆黒の流星』についても調べたんです」
そこで言葉を止め、少し気まずそうに零の様子を窺う。
「アストラル・オーダーでは……かなりの問題児だったみたいですけど」
零は思わず苦笑した。
「今日はよく問題児って言葉を聞く日だな」
「今日?」
「昼に影山からも似たような話を聞いた」
零は頭を掻き、誰に聞かせるでもなく呟く。
「そこまで問題を起こしてたかねぇ……」
「まるで本人みたいな言い方ですね」
鈴華に指摘され、零の指が止まった。
「……影山から聞いた話だよ」
一拍遅れた返答に、鈴華は不思議そうに首を傾げる。
それでも追及はせず、報告書に記されていた内容を思い返した。
「確かに、問題行動は多かったそうです」
鈴華は箒の柄へ重ねていた手に、力を込める。
「でも、その一方で、困っている人を助けたり、多くの事件を解決したり……そういう公開記録も、たくさん残っていました」
その声から、迷いが消えた。
「だから、自分の異名を見せびらかすために事件を起こしたり、理由もなく人を傷つけたりする人には思えないんです」
零の動きが止まる。
ほんの一瞬だけ、黄金色の瞳が揺れた。
「……そうか」
返ってきたのは、それだけだった。
その横顔からは、先ほどまでの軽い調子が消えている。
どこか驚いたような、それでいて少し嬉しそうな――鈴華にはうまく言葉にできない表情だった。
やがて零は、何事もなかったように歩き出す。
鈴華の横を通り過ぎようとした、そのときだった。
大きな右手が、鈴華の頭へ伸びる。
「……え?」
零の手が、艶やかな黒髪の上へ触れた。
ポン、ポン――と。
労うように、優しく二度だけ頭を撫でる。
あまりにも自然な仕草に、鈴華は動くこともできなかった。
やがて零の手が離れる。
その直後、黄金色の瞳が泳いだ。
「……埃」
「え?」
「髪に埃がついてた。掃除してるときに考え込むからだ」
零は自分の指先へ視線を落としながら、何でもないことのように答えた。
けれど、髪についた埃を取るだけなら、二度も優しく頭へ触れる必要はなかったはずだ。
鈴華はそのことに気づきながらも、何も指摘しなかった。
零は逃げるように背を向け、再び箒を動かし始める。
そのまま、聞き取れるかどうかというほどの声で呟いた。
「……サンキュー」
「え?」
鈴華が聞き返したときには、零はすでに何事もなかったように掃除を続けている。
「何でもねぇよ」
鈴華は、触れられた場所へそっと手を添えた。
胸の奥が、じんわりと温かい。
自分の言葉を喜んでくれたのだろうか。
そう思うと、頬へ集まる熱はなかなか引いてくれなかった。
それを誤魔化すように、箒を握り直す。
そのとき、報告書に記されていたもう一つの内容を思い出した。
「そういえば、本物の『漆黒の流星』は、半年前から消息が分からないそうです」
零が背を向けたまま答える。
「そうなのか?」
「はい。極秘任務に就いているとか、任務中に亡くなったとか……いろいろな噂があるみたいで」
鈴華は思い出しながら、困ったような笑みを浮かべた。
「中には、恋人と駆け落ちしたんじゃないか、なんて話まで――」
「それはない!」
自分でも驚くほど、強い否定が零の口から飛び出した。
教室へ、箒の音すら消えた静寂が落ちる。
鈴華は目を瞬かせ、零の背中を見つめた。
「……どうして、そこだけ言い切れるんですか?」
「いや、それは……」
零は自分の口から出た言葉に、今さら気づいたらしい。
気まずそうに視線を逸らし、咳払いをした。
「あー……普通に考えて、だ。世界中で名前を知られてる魔法使いが、そんな理由で急に消えるとは思えねぇだろ」
頭を掻きながら告げる零へ、鈴華はひとまず頷く。
「……確かに、それはそうですね」
理屈としては分からなくもない。
だが、極秘任務や死亡という噂には反応しなかったのに、駆け落ちだけは即座に否定した。
(今の反応……)
鈴華は箒を動かしながら、そっと零の横顔を窺う。
零は何もなかったかのように掃除を続けていた。
いつもどおり、掴みどころのない横顔。
それでも胸の中には、消えなかった違和感がもう一つ積み重なっている。
(やっぱり、何か知っているのでしょうか……)
気にはなる。
だが、無理に聞いても、零はきっと答えてくれない。
鈴華は問いかけたい気持ちを胸へしまい、残っていた埃を一か所へ集めた。
やがて零が、最後の埃をちり取りへ入れる。
「……終わったな」
二人で教室を見回した。
乱れていた机と椅子は綺麗に並び、床にも目立った埃は残っていない。
一週間続いた罰掃除も、これで終わりだった。
零は箒を教室の隅へ戻すと、鞄を手に取る。
「白河。このあと、暇か?」
突然尋ねられ、鈴華は目を瞬かせた。
「特に予定はありませんけど……」
「じゃあ、甘いもんでも食いに行こうぜ」
あまりにも気軽な誘いだった。
意味を理解するまでに少し時間がかかり、鈴華は驚いたように自分を指差す。
「私も、ですか?」
零はきょとんとした顔をした。
「ほかに誰がいるんだよ」
その返しがあまりにも自然で、鈴華の胸が弾んだ。
零は教室の扉へ向かいながら、肩越しに振り返る。
「一週間も付き合ってもらったんだ。最後くらい、お疲れ様会をさせろ」
気負いも、照れもない。
ただ当然のように、自分も一緒に行くものとして声を掛けてくれた。
それが鈴華には、何よりも嬉しかった。
「はい」
頬へ浮かぶ笑みを隠さず、零のあとを追う。
「喜んで」
二人が教室を出ると、茜色の光が廊下へ長い影を伸ばした。




