第2章エピローグ③:それぞれの明日へ
「……本当に、行かせて大丈夫なんですか?」
ようやく口を開いた声には、まだ不安が残っている。
「相手はA級国際指名手配犯ですよ。それに、次はもっと強くなって戻ってくるって……」
「なんだ」
零はそんな鈴華の横顔を見ると、先ほどまでの緊張感が嘘のように口元を緩めた。
「白河、俺のこと心配してんの?」
「……当たり前じゃないですか」
間を置かずに返ってきた答えに、零が軽く目を瞠る。
「へえ」
「なんですか、その反応は」
鈴華がじろりと睨む。
零は面白そうにその顔を眺めながら、さらにからかうように続けた。
「いや。白河も随分俺に優しくなったなと思って」
「もう……」
鈴華の眉が少し寄る。
「真面目に心配しているんですけど」
「わりー、わりー」
口では謝りながらも、その声音に反省の色はほとんどない。
鈴華は呆れたような顔をしたものの、それ以上は言わなかった。
そんな彼女を横目に、零は再びフェンスの向こうへ視線を向ける。
先ほどまで浮かんでいた笑みが、ゆっくりと消えた。
「……白河」
「はい?」
声の調子が変わったことに気づき、鈴華も表情を改める。
零はすぐには彼女を見なかった。
滑走路の向こうへ目を向けたまま、少しだけ間を置く。
「今なら、まだ間に合うぞ?」
「……何がですか?」
鈴華が不思議そうに首を傾げる。
そこでようやく、零は彼女へ顔を向けた。
「俺から離れるの」
「…………」
鈴華がわずかに目を見開く。
冗談を言っているようには見えなかった。
「四月にあった漆黒の流星事件。あれだって、直接俺が何かしたわけじゃねぇけど……俺の名前を勝手に使った奴らのせいで、お前は危ない目に遭った」
零の脳裏に、あの事件の光景が蘇る。
自分とは何の関係もない人間たちが『漆黒の流星』を名乗り、その名前を利用した。
零自身が引き起こした事件ではない。
それでも、自分の過去や名前が原因の一つとなって、鈴華を危険に晒したことに変わりはなかった。
「それで今回は、俺がパーティーに誘った」
零は静かに続ける。
「その結果、王位争いだの暗殺だのって話にお前まで巻き込んじまった。侯爵とも戦わせたし、一歩間違ってたら死んでた」
「黒神くん……」
「俺はアストラル・オーダーの魔法使いだ」
黄金色の瞳が、正面から鈴華を見る。
「今は休暇中でも、それがなくなるわけじゃねぇ。今回みたいに、俺が何もしなくても向こうから厄介事が来ることだってある」
普通の高校生活を送りたい。
そのために日本へ帰ってきた。
けれど、アストラル・オーダーの特別執行官として過ごしてきた時間まで消えるわけではない。
「たぶん、これからも同じことがある」
零の声は低かった。
「だから、今ならまだ間に合うぞ」
鈴華はしばらく何も言わなかった。
零が何を言いたいのかは分かる。
自分を遠ざけたいわけではない。
これ以上、危険に巻き込みたくないだけだ。
だからこそ、鈴華も曖昧には答えなかった。
「それは違います」
「ん?」
振り返った零へ、鈴華は真っ直ぐ向き直る。
「四月の事件も、今回の事件も、黒神くんが私を巻き込んだわけではありません」
一度だけ息を吸い、言葉を継いだ。
「今回だって、途中で離れることはできました。でも残ると決めたのは私です。アイリスさんを助けたいと思ったのも、黒神くんについていくと決めたのも、全部私自身が選んだことです」
「…………」
零は何も返さない。
鈴華の声音には、一切の迷いがなかった。
「それに、言いましたよね?」
視線を上げた零へ、鈴華は迷いなく答えた。
「黒神くんの普通の学校生活――私も協力しますって」
四月、あの事件が終わったあとの夕暮れに交わした約束。
零が日本へ帰ってきた理由を知り、その普通の学校生活を手伝うと、鈴華自身が決めた。
それを今さら、危険な目に遭ったからという理由だけで、なかったことにするつもりはない。
「一度した約束を、こんなことでやめたりしません」
そこで鈴華は一度言葉を切った。
視線が、自然と零の右腕へ落ちる。
袖口からは、まだ包帯が覗いていた。
頬にも、消えきらない線が一本残っている。
「……黒神くんは、いつも一人で前に出ます」
あの日もそうだった。
殺し屋を一人で引き受けて、自分たちだけを先へ行かせて。
そして地下へ降りてきた時には、もう全身傷だらけになっていた。
けれど、と鈴華は顔を上げる。
その目に、迷いはなかった。
「それでも……今回の件で、よく分かったことがあります」
脳裏に蘇るのは、地下駐車場の最後の瞬間。
超新星を組み上げる零へ、侯爵が拳を振り下ろした。
あれを外させたのは、自分の『夢幻』だ。
「私の魔法でも、黒神くんの力になれるって」
鈴華は、そこで少しだけ言葉を選んだ。
「もちろん、他にも手はあったんだと思います」
一度も他人に使ったことのない、まだ覚えたばかりの技だった。
失敗すれば、無防備な零へ攻撃がそのまま届く。
それでもあの時、零はできるかと一度聞いただけで、それ以上は何も確かめなかった。
――上等だ。
たった一言。
それだけで、背中を預けてくれた。
「それでも黒神くんは、私を頼ってくれました」
「……あれは」
零が何か言いかける。
きっと、他に手がなかっただけだとでも言うつもりなのだろう。
「隣に並ぶには、まだ半人前ですけど」
鈴華は、その言葉を遮った。
そして真っ直ぐ零を見上げたまま、口元を柔らかく緩める。
「いつか、黒神くんが一人で前に出なくても済むように――これからも、支えさせてください」
零はしばらく、その顔を見つめていた。
やがて、観念したように頭を掻く。
「ったく……」
小さく漏らしたあと、呆れたように笑った。
「あんなことが起きた後だってのに、呑気だな」
「大丈夫ですよ」
鈴華は少しだけ楽しそうに目を細めると、零へ視線を向けた。
「いつも誰かさんに鍛えられていますから」
「…………」
零が一瞬だけ言葉を失う。
鈴華はそんな彼の反応を見ながら、どこか得意そうに微笑んでいた。
その笑顔を前に、零の口がわずかに開いて、閉じる。
そして次の瞬間――。
照れ隠しのつもりなのか、いきなり鈴華の頭へ手を伸ばした。
「えっ――」
わしゃわしゃと。
丁寧に整えられていた長い黒髪を、遠慮なく掻き回す。
「ちょっ……黒神くん!?」
鈴華は慌てて零の手から逃れると、乱れた髪を両手で押さえた。
碧色の瞳が、抗議するように零へ向けられる。
「何するんですか!」
「わりぃ」
零は悪びれる様子もなく答えた。
「急に頭をクシャクシャにしたかったんだよ」
「そんな理由で人の髪を乱さないでください!」
風に流れた髪を押さえながら、鈴華が声を上げる。
「もうやった後だし」
「そういう問題じゃありません!」
鈴華は頬を膨らませながら、手櫛で髪を整えていく。
髪を直すたび、その袖口が揺れた。
ハイネックの襟がアクセントになった、落ち着いたローズピンクのロングニット。
零の視線が、ふとそこで止まる。
「……ん?」
「……なんですか」
鈴華が髪を押さえたまま、警戒するように零を見る。
「いや。その服、あの時の店の――」
「っ……!」
鈴華の手が止まった。
事件のあと、一人であの店へ足を運び、買ってきたものだった。
零に見せるためではない。
自分で着てみたかっただけだ。
……そのはずだった。
零が何も言わないので、気づいていないのだと思っていた。
「……気づくの、遅いです」
「いや、さっきから見覚えあるなとは思ってたんだよ」
零は改めてその姿を眺めると、あっさりと言った。
「やっぱ似合ってるな、それ」
「――っ」
今度こそ、鈴華の頬が一気に赤く染まる。
何でもない調子で言うのが、一番ずるい。
「……そういうことは、髪をぐしゃぐしゃにする前に言ってください」
「順番、関係あるか?」
「あります」
赤い顔のまま言い切って、鈴華はぷいと顔を背けた。
「さて、と……」
零が何事もなかったように大きく伸びをする。
その声に、鈴華の肩がぴくりと跳ねた。
反射的に半歩下がり、整えたばかりの髪を片手で押さえる。
その目が、油断なく零の手元を追っていた。
「……今度はなんですか?」
「なんで身構えてんだよ」
零が心外そうに眉を上げる。
「誰のせいだと思っているんですか」
じとりとした視線が返ってきた。
「せっかくここまで来たんだ」
零は送迎デッキの出口へ身体を向けた。
「なんかうまいモン食べて帰ろうぜ」
「そうですね――」
鈴華もようやく警戒を解き、零の隣へ並んだ。
そこでふと、何かを思いついたように口元へ笑みを浮かべる。
「黒神くんが奢ってくれるなら、行きますよ」
「へ?」
間の抜けた声が漏れた。
鈴華はその反応を見て、先ほど頭を乱された仕返しとばかりに、楽しそうに笑う。
「ほら。早く行きますよ!」
「ちょっ――」
鈴華は零の手を取ると、そのまま出口へ向かって歩き始めた。
突然引っ張られた零が、慌ててその後を追う。
「ちょっと待て。白河! 俺まだ奢るなんて一言も――」
抗議の声が背後から飛んできても、鈴華は足を止めない。
二人はそのまま、人々で賑わう送迎デッキを後にしていった。
こうして、アルディア王国の王位と天輝花を巡る事件は終わりを迎えた。
アイリスは、自ら選んだ未来へ。
カイルは、止まった拳を鍛え直すために。
そして零と鈴華もまた、明日からいつもの学校生活へ戻っていく。
A級国際指名手配犯との死闘も、王位を巡る陰謀も乗り越えた。
けれど、そんな黒神零の前に、次の強敵がすでに迫っていた。
魔法も、戦闘経験も、アストラル・オーダー特別執行官という肩書きさえも、ほとんど役には立たない相手。
黒神零の学校生活史上、最大の難関。
期末試験である。
――第2章『天輝花』完
第2章『天輝花』、これにて完結です!
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