第2章エピローグ①:1番の思い出
あの事件から、しばらく――。
アルディア王国第一王女、アイリス・アルディアを巡って日本で起きた一連の事件は、国内外で大きく報じられることとなった。
アルディア王国の侯爵が王位を狙い、第一王女へ王位継承権の放棄を迫っていたこと。
そして、その過程で違法に流通していた天輝花が使用され、日本国内でも複数の襲撃事件が発生したことが公表された。
もっとも、事件のすべてが明らかになったわけではない。
アルディア王国で起きた女王と第一王子の死をはじめ、現在も調査が続いている事柄については、公表されていない情報も多く残されていた。
日本で起きた事件を解決した者たちについても、報道で明かされた内容は限られていた。
侯爵の企みに気づいたレオン伯爵と、日本側の関係機関、そして現場に居合わせた協力者の尽力によって解決された――そう発表された。
風紀部の名前は出たものの、個人が特定される形での公表は避けられている。
未成年の学生を国際事件の中心人物として世間へ晒すことを、日本側の関係機関が認めなかったからだ。
そこに、黒神零という名前もない。
アストラル・オーダーの名前も、発表のどこにも出てこなかった。
実際には、レオンが非公式に協力を求め、組織も裏で動いていた。
だが、表に出ない形での協力だった以上、公の記録に残ることはない。
特別執行官『漆黒の流星』が日本に滞在し、今回の事件へ関与していたことも、公にはされていない。
世間から見れば、零はあくまで現場に居合わせた協力者の一人。
それ以上の情報が明かされることはなかった。
零自身もそれを望んでいたが、本人の希望だけで通るような話ではない。
その名前が表に出なかった裏には、少なからずアストラル・オーダーの根回しがあった。
もっとも当の零は、そのあたりの事情を深く気にしてはいなかった。
一方で、今回の事件によって、それまで伏せられていたアイリスの日本滞在は広く知られることとなった。
本来であれば、女王の代理として極秘に出席し、人知れず帰国する予定だった。
だが、状況は大きく変わった。
アイリスはすぐには日本を離れず、滞在予定を改めて、しばらくの間、正式な外交活動を行うことになった。
日本政府の関係者との会談や、魔法関連施設への視察。
両国の友好を示すための歓迎行事にも参加し、晩餐会では日本を代表する料理が振る舞われた。
宿泊先として用意されたホテルも、王族を迎えるにふさわしい一流のものばかりだった。
その慌ただしい日程の合間に、アイリスは一度だけ、報道陣の目を離れて京都へ足を運んでいる。
そこで誰に会ったのかを知る者は、ごくわずかだった。
そうして数日が過ぎ――日曜日。
アイリスがアルディア王国へ帰国する日が訪れた。
国際空港のロビーには、朝から多くの報道関係者が集まっていた。
記者席の正面には小さな壇が設けられ、その周囲では日本側の関係者やアルディア王国の随行員たちが控えている。
壇上の中央に立つアイリスへ向けて無数のカメラが並び、絶え間なくシャッター音が響く。
その少し後方にはレオンが立ち、今回の日本滞在を支え続けた護衛とメイドも静かに控えていた。
二人とも、あの日の傷はまだ完全には癒えていない。
迎賓施設で追手を食い止め、アイリスたちを先へ行かせた。
約束どおり頃合いを見て退き、駆けつけた魔法警察に保護されたのは、すべてが終わったあとだった。
それでも今日は、こうして主のそばに立っている。
「今回の日本滞在に際し、多くの皆様から温かいお心遣いをいただきましたこと、アルディア王国第一王女として、心より御礼申し上げます」
アイリスの柔らかく澄んだ声が、空港のロビーへ響いた。
突然母と兄を失い、自らに突きつけられた未来へ戸惑っていた少女。
しかし今、その姿から以前のような迷いは感じられない。
もちろん、不安がすべて消えたわけではなかった。
国へ戻れば、王位継承を巡る問題をはじめ、向き合わなければならないことはいくつも待っている。
それでも、自分から逃げないと決めた意志だけは、もう揺らいでいなかった。
冒頭の挨拶を終えると、記者たちから次々と質問が飛んだ。
今回の外交活動について、日本とアルディア王国の今後の関係について、そして日本で起きた事件を経た現在の心境について。
アイリスは一つひとつの質問へ丁寧に答えていった。
事件については現在も調査中の部分が多く、答えられないものもあった。
それでも、自分の口から伝えられることには、真摯に言葉を返していく。
やがて、記者席の後方にいた一人の男性が手を挙げた。
「アイリス王女殿下。一つ、よろしいでしょうか」
「はい。どうぞ」
指名された記者は立ち上がると、手元のメモへ軽く視線を落としてから顔を上げた。
「今回の日本滞在では、大変な事件にも見舞われました。その一方で、事件後には様々な場所を訪問され、多くの経験をされたと伺っています。その中で、日本に来て一番思い出に残っていることを教えていただけますか?」
「一番の……思い出ですか?」
予想していなかった質問だったのか、アイリスは目を丸くした。
「はい。外交活動では様々な施設を視察され、歓迎の晩餐会などにも出席されています。特に印象に残っていらっしゃることがございましたら、お聞かせください」
記者の言葉を聞きながら、アイリスは少し考えるように視線を伏せる。
今回の滞在では、本当に様々な場所を訪れた。
日本を代表する施設を案内され、多くの人々と交流した。
晩餐会では一流の料理が並び、宿泊したホテルも、王族のために用意された豪華なものだった。
どれも貴重な経験であり、きっとこれから先も忘れることはないだろう。
けれど、一番は何かと聞かれれば――答えは決まっていた。
アイリスの脳裏に浮かんだのは、格式ある会場でも、豪華な料理でもない。
夜の街を三人で歩いたこと。
一緒に店を回り、服を選んだこと。
ゲームセンターでは、魔法なら正確無比なはずの零が、驚くほどゲームを苦手としていた。
そんな零を見て、鈴華と一緒になって笑った。
そして、三人で行ったカラオケ。
零の歌は、音程が曲とほとんど合っていなかった。
それなのに、本人だけは満足そうに歌い切っていた。
困り果てた鈴華が、どうにか絞り出した『とても、自由な歌い方ですね』という感想まで思い出してしまう。
アイリスの口元から、自然と笑みが零れた。
「……殿下?」
なかなか答えないアイリスへ、記者が不思議そうに声を掛ける。
アイリスは我に返ると、少し照れたように首を振った。
「失礼しました。少し、思い出してしまって」
そう言ってから、記者たちへ改めて顔を向ける。
その表情には、王族として作ったものではない、心から楽しそうな笑みが浮かんでいた。
「一番の思い出は――友達と三人で、夜通し遊んだことです」
一瞬、ロビーが静まり返った。
記者席に並ぶ者たちが、揃って意外そうな表情を浮かべる。
日本を代表する場所への訪問や、王女を歓迎するために行われた行事。
あるいは豪華な晩餐会。
そうした答えが返ってくるものと思っていたのだろう。
「……ご友人と、ですか?」
「はい」
アイリスは嬉しそうに頷いた。
「三人で街を歩いて、お買い物をして、ゲームセンターへ行きました。それからカラオケにも行って……気づいた時には、朝になっていたんです」
記者席の間から、どよめきが広がっていく。
誰と一緒だったのか。
どうして一国の王女が、夜通し街を遊び歩いていたのか。
その場にいる記者たちには、アイリスが何の話をしているのかまでは分からない。
けれど、その言葉を聞いただけで、すぐに理解した者たちもいた。
あの夜のことは、護衛とメイドもあとからレオンに聞かされている。
アイリスの後方に控えていた護衛が、ふっと表情を和らげた。
その隣ではメイドも、嬉しそうに笑うアイリスを見つめながら、柔らかな笑みを浮かべている。
レオンもまた、何も言わず静かに目を細めていた。
あの夜、レオンは何も言わずに、アイリスを零と鈴華へ託した。
王女として常に誰かに守られ、王族として振る舞うことを求められてきた彼女に、ほんの少しだけ普通の少女として過ごせる時間を与えるために。
あの二人と一緒なら任せられる。
そう信じて送り出した夜だった。
その時間を、アイリスが日本で一番の思い出として選んだ。
それが分かっただけで、十分だった。
「それは、今回の外交日程の一環だったのでしょうか?」
別の記者から飛んできた質問に、アイリスは少し楽しそうに笑った。
「いいえ。あれは――私個人の思い出です」
先ほどよりも大きなどよめきが起こり、記者たちが一斉に手元のメモへ視線を落とす。
そんな光景を眺めながら、レオンの口元にも笑みが浮かんでいた。
豪華なホテルでも、一流の料理でも、華やかな外交行事でもない。
王女という肩書きをほんの少しだけ横へ置き、一人の少女として友人たちと笑った時間。
それがアイリスにとって何より大切な思い出になったのなら、あの夜、二人へ託したことは間違っていなかったのだろう。
-----
記者会見が終わると、空港のロビーには再び慌ただしい空気が戻ってきた。
アイリスは日本側の関係者へ最後の挨拶を済ませ、レオンたちと共に搭乗口へ向かって歩いていく。
周囲にはまだ報道関係者や空港を利用する人々が行き交い、先ほどまでとは違う日常の喧騒が戻り始めていた。
そんな中、不意にアイリスの足が止まる。
何かを探すように周囲へ視線を巡らせた先。
少し離れた場所に、一般客へ紛れるようにして二人の高校生が立っていた。
零と鈴華だった。
帰国の日時は、レオンを通じて伝えてあった。
公の場で顔を合わせるわけにはいかない。
それでも、最後に一目だけでも。
そんな願いを、二人は汲んでくれたらしい。
見つけた瞬間、アイリスの表情がぱっと明るくなる。
鈴華もすぐに気づいたらしく、柔らかな笑みを浮かべながら、胸元で小さく手を振った。
その隣では零が、いつもの気の抜けた表情のまま、片手を軽く上げている。
周囲には、まだ多くの記者たちが残っていた。
アイリスはほんの一瞬だけ動きを止めたものの、すぐに柔らかく笑うと、二人へ向かって小さく手を振り返した。
言葉を交わす必要はなかった。
いつかまた会える。
今度会う時には、事件も任務もなく、ただ三人で街を歩き、くだらないことで笑いながら過ごせたらいい。
そんな願いを胸に、アイリスはゆっくりと手を下ろした。
「参りましょう、アイリス様」
「はい」
レオンの言葉に頷き、アイリスは再び搭乗口へ向かって歩き始める。
母と兄を失い、王位を巡る争いに巻き込まれ、それでも自分の意思で前へ進む道を選んだ。
これから国へ戻れば、向き合わなければならないことはいくつも待っている。
それでも、日本で得たものは、王族としての経験だけではなかった。
友達と街を歩き、笑い、遊び、気づけば朝になっていた夜。
王女でも、王位継承者でもない。
ただ一人の少女として過ごした時間は、きっとこれから先も彼女の中に残り続ける。
その思い出を胸に――。
アイリス・アルディアは、祖国へ帰っていった。




