15話:最後に行きたい場所②〜前へ〜
翌日――。
京都。
山あいに建つ寺院は、朝の静けさに包まれていた。
石段の脇には青々とした木々が立ち並び、葉の間から差し込む柔らかな光が、参道へ斑に落ちている。
街の喧騒は遠く、聞こえてくるのは風に揺れる葉擦れと、時折どこかから届く鳥の声だけだった。
五月の空気は、朝のうちはまだ涼やかだった。
その一角にある墓地を、三人の人影がゆっくりと歩いていく。
先頭を歩くのは零。
片手には、小さな紙包みを提げている。
その少し後ろをアイリスが続き、腕には白い花束を抱えていた。
レオンは彼女から一定の距離を保ちながら、周囲へ気を配っている。
アイリスの帰国は、一週間ほど先になる。
事件が公になった以上、極秘の来日として人知れず帰るわけにはいかなくなった。
改めて組まれた外交日程を一つずつこなし、それを終えてから国へ戻る。
その合間を縫って、昨夜のうちに東京を発ってきた。
やがて、零の足が止まる。
「着いたぞ」
アイリスも歩みを止めた。
その視線の先には、一つの墓石が佇んでいる。
刻まれている名前を見た瞬間、アイリスの琥珀色の瞳が揺れた。
神桜家――そして、神桜蕾。
「……蕾さん」
小さな声が、朝の静けさへ溶けていった。
アイリスは花束を胸元で一度抱えるようにしてから、墓前へ歩み寄る。
ゆっくりとしゃがみ込み、丁寧に花を供えた。
零は少し離れた場所に立ったまま、その様子を見守っている。
零がここへ来るのは、初めてではない。
それでも、墓石へ刻まれた名前を見るたび、胸の奥には今も簡単には言葉にできないものが残っていた。
アイリスは墓前で両手を合わせる。
しばらく、何も言わなかった。
三年前の記憶を、一つずつ辿っているのかもしれない。
護衛として自分の前へ立ってくれた少女。
冗談を言いながら零とぶつかり合い、どんな状況でも明るさを失わなかった少女。
最後に別れた時には、また会えると思っていた。
「……お久しぶりです」
やがて、アイリスが口を開いた。
「三年前は、本当にありがとうございました」
返事はない。
ただ風が墓地を抜け、供えた花をそっと揺らした。
「もっと早く来たかったんです。でも……ずっと来られなくて」
あの知らせが届いたのは、一昨年の冬だった。
王宮の自室で、ただ短い報告として聞かされた。
信じられなくて、けれど確かめる術もなくて、王女という立場では日本へ来ることもできなかった。
あれから、ずっと胸の奥に残っていた。
「きちんとお礼も言えないままでした」
アイリスは少しだけ寂しそうに微笑んだ。
その声を聞きながら、零は黙って墓石を見つめていた。
三年前の自分たちは、まだ幼かった。
任務が終わったあとも、蕾はいつもの調子で笑っていた。
そして自分も、その日々がずっと続くのだと、疑いもしなかった。
「今回、また零くんに助けてもらいました」
アイリスが少しだけ顔を上げる。
「それから……素敵な人たちにも出会いました」
零はその言葉に何も返さない。
アイリスの脳裏には、当然、一人の少女の姿も浮かんでいた。
自分を守るために何度も前へ出てくれた、長い黒髪と碧色の瞳を持つ少女。
けれど、その名前をここで口にすることはなかった。
三年前、零の隣にいたのは蕾だった。
今、その場所に別の誰かがいると告げるのは、自分の役目ではない。
それは零が、いつか自分の言葉で伝えることだ。
「私、決めたんです」
アイリスの表情から、先ほどまでの寂しさが少しずつ消えていく。
「国へ帰ったら、女王になります」
昨日までの自分なら、そんな言葉を口にすることすら怖かったかもしれない。
けれど、今は違う。
「まだ、自信はありません。きっとこれからも迷いますし、失敗もたくさんすると思います」
それでも、アイリスは墓石から目を逸らさなかった。
「でも、逃げません。三年前、蕾さんが私を守ってくださったように――今度は、私が守る側になります」
柔らかな風が吹き抜ける。
供えられた花が揺れ、木々の間から差し込んだ朝の光が、墓石を淡く照らした。
「だから――見守っていてくださいね、蕾さん」
アイリスはそう告げると、もう一度手を合わせた。
長い祈りだった。
けれど零も、レオンも急かすことはない。
やがてアイリスがゆっくりと立ち上がる。
その表情は、ここへ来た時よりも少しだけ晴れていた。
「ありがとうございました、零くん」
「ん?」
零が顔だけをそちらへ向ける。
「連れてきてくれて」
「別に。俺も来たかったしな」
零はいつもの調子で答えたあと、墓石へ視線を移した。
アイリスはそんな横顔を一度だけ見つめると、何かを察したように微笑む。
「レオン。少しだけ、先に行きましょうか」
「……承知いたしました」
二人はそれ以上何も言わず、ゆっくりと墓地を離れていった。
足音が十分に遠ざかるまで、零はその場から動かなかった。
墓地に、一人だけ残る。
「…………」
墓石を見つめる。
あの日から、何度ここへ来ただろう。
やがて零は、ポケットへ片手を入れたまま口を開いた。
「久しぶり。っつっても、この春にも来たけどな」
返事はない。
分かっていても、いつもこうして話しかけてしまう。
「学校、ちゃんと行ってるぜ。……まあ、中間は散々だったけど」
言い訳するように付け加える。
蕾がここにいたら、間違いなく呆れた顔をしていただろう。
勉強しろと、何度言われたか分からない。
「友達もできた。変な奴らばっかだけどな」
影山の顔が浮かぶ。
天野の呆れ顔も。
そして――。
「……今回も、無茶したって怒られた」
包帯の巻かれた右腕へ、自然と視線が落ちる。
丁寧に巻かれていた。
痛いなら痛いと言えと、真剣な顔で言われた。
零はそこで一度、言葉を切った。
「……あとさ」
少しだけ声を落とす。
「アイリス姉、女王様になるってさ」
もちろん、返事はない。
それでも、もし蕾がここにいたなら――。
きっと自分のことのように喜んで、大げさに騒いで、アイリスの手を取っていたに違いない。
「三年前のお姫様も、随分強くなったよな」
零は墓石を見つめたまま、少しだけ目を細める。
あの日、時間が止まったのは自分だけだった。
止まったまま、どこへも行けずにいた。
けれど少しずつ――本当に少しずつではあるけれど。
「……俺も、ちょっとは進んでるかもな」
柔らかな風が通り抜け、零の髪を揺らした。
供えられた花が、それに応えるように揺れる。
零はそこで、手にしていた紙包みへ目を落とした。
ここへ来る前、東京の店で買ったものだ。
包みを開くと、桃色と白と緑の三色が串に並んでいる。
膝を折り、供えられた花の隣へそっと置く。
「ほら。好きだったろ」
蕾は、和菓子に目がなかった。
中でも好きだったのが三色団子で、嬉しいことがある日は、だいたい和菓子だった。
ロンドンにいた頃も、行きつけの和菓子屋へ何度付き合わされたか分からない。
半分こだと言って渡され、うまいだろうと笑われて、仕舞いには自分の分まで取られていた。
気づけば、自分まで甘いものが好きになっていた。
「……ったく。お前のせいだからな」
零は口元を緩める。
「責任取れよ」
答える声はない。
それでも、もしここにいたなら――。
きっと得意げに胸を張って、それのどこが悪いのかと言い返してきただろう。
零はゆっくりと立ち上がった。
「また来るよ」
それだけ告げると、墓石へ背を向ける。
少し先では、アイリスとレオンが待っている。
零は二人のもとへ向かって歩き出した。
その背後で、朝日に照らされた白い花と三色の団子が、寄り添うように並んでいた。




