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漆黒の流星《ブラックスター》  作者: ショウ
第2章:天輝花

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15話:最後に行きたい場所① 〜会いたい人〜

事件から、数時間後――。


迎賓施設の一階、被害を免れた応接室には、先ほどまでの騒乱が嘘のような静けさが戻っていた。


もっとも、廊下の向こうは違う。

魔法警察の捜査員が慌ただしく行き交い、無線のやり取りが絶えず響いている。

地下駐車場と一階の連絡廊下、上階の客室は封鎖され、倒れていた男たちは順次搬送されていった。

侯爵の身柄も、すでに国際的な手続きのもとで拘束されている。


窓の外では、傾き始めた陽が街を橙色に染めていた。


部屋の中央では零が椅子へ腰掛け、その前に立った鈴華が、裂けたジャケットの袖を捲り上げて右腕の傷を手当てしている。

駆けつけた救護班には「あとで病院行くから」と言って手当てを後回しにしたため、見かねた鈴華が救急箱を借りてきたのだ。

借り物のカーディガンの左腕には、風紀部の腕章が巻かれていた。

制服のスカートのポケットに、入れたままにしていたものだ。


事件現場に居合わせた以上、鈴華も星峰支部の一員として動く必要があった。

駆けつけた支部の仲間へ状況を伝え、警察の聞き取りにも応じた。

腕章は、そのために付けたものだった。

もっとも、今の彼女がしているのは、現場対応でも避難誘導でもない。


「……やっぱり、全然大丈夫じゃないですね」


消毒を終えた傷口へガーゼを当てながら、鈴華は呆れたように眉を寄せる。

戦っている最中は確かめる余裕もなかった。

改めて見れば、前腕から二の腕にかけて走る深い裂傷のまわりにも、細かな傷がいくつも残り、まだ血が滲んでいる箇所もあった。


「だから大丈夫だって。これくらい」


零は椅子の背へ身体を預けたまま、気の抜けた調子で答える。


「さっきも同じことを言っていましたよね?」


「で、実際大丈夫だっただろ?」


「どこがですか」


鈴華は返事と同時に、ガーゼを少し強く押さえた。


「いっ……」


一瞬だけ、零の顔が引きつる。

それを見た鈴華は手元を止め、じっと黄金色の瞳を見つめた。


「痛いんじゃないですか?」


「……気のせいだ」


「そういうことにしておきます」


どう考えても納得していない声音だったが、鈴華はそれ以上追及せず、包帯を丁寧に巻いていく。

先ほどまで命を懸けて戦っていた二人とは思えないほど穏やかなやり取りに、少し離れた場所で見守っていたアイリスの表情も、わずかに和らいでいた。


レオンはそんなアイリスのすぐそばに立っている。

事件が終わったとはいえ、護衛としての警戒はまだ解いていないらしく、時折、室内の出入口へ視線を向けていた。


その出入口の向こうを、一人の少女が通り過ぎていく。

青みのあるグレーの長い髪。

制服の左腕には、鈴華と同じ風紀部の腕章。


鏡野澪。

風紀部星峰支部から現場対応に入った一人だった。

周辺の避難誘導を終え、関係機関への引き継ぎのために施設の中へ入っていた。

手にした端末へ何かを記録しながら、廊下を歩いていく。


その足が、ふと止まった。

開いたままの扉越しに、応接室の中が見える。

白河鈴華。

それは分かる。

風紀部の記録にも、今回の事件の協力者として名前が上がっていた。

問題は、その前に座っている少年だ。


「…………」


鏡野は数秒、そちらを見つめていた。

黒神零。

なぜ彼がここにいるのか。

要人の滞在先として封鎖されたこの施設に、一介の高校生が座り込んでいる理由が分からない。

しかも、あの傷の量。

零が視線に気づいたように顔を上げる。

ほんの一瞬、目が合った。

零は何事もなかったように視線を外し、鈴華へ何か言い返している。

鏡野もそれ以上見ることはなく、端末へ視線を戻して歩き出した。

ただ、その紫の瞳から、先ほどまでの事務的な色は消えていた。


「零くん」


しばらくして、アイリスが声を掛けた。


「ん?」


零が顔だけをそちらへ向ける。

アイリスは胸元で両手を重ねると、何かを確かめるように一度だけ視線を落とした。

その表情には、先ほど侯爵の前で見せた強さとは少し違う、どこか懐かしさを含んだ寂しげな色が浮かんでいる。


「最後に一か所だけ、行きたい場所があるんです」


「行きたい場所?」


「はい」


アイリスは静かに頷いた。

零は何も言わず、その表情を数秒見つめる。

三年前、自分とアイリスの間にある記憶。

そして夜明けの公園で、アイリスは蕾のことを『あとから、知りました』と言っていた。

思い当たる場所は、一つしかなかった。


「……あいつに会いに行くのか?」


「はい」


それだけで、話は通じた。

零の表情から、普段の軽さが一瞬だけ消える。

けれど深く問い返すことはせず、すぐにいつもの調子で口を開いた。


「ああ。分かった」


「ありがとうございます、零くん」


ほっとしたように、アイリスが微笑む。

その会話を聞きながら包帯を巻いていた鈴華は、二人の間だけで話が通じていることに、少し不思議そうな表情を浮かべた。

それでも、どこへ行くのかまで尋ねることはせず、包帯の位置を確かめながら口を開く。


「それでしたら、私もご一緒します」


「いや」


零は即答した。

答えるまでが、早かった。


「白河は来なくていい」


「……どうしてですか?」


予想外の返事だったのか、鈴華の手が止まる。


「明日、学校だろ。普通に学校行けよ」


「…………」


数秒――。

鈴華は何も言わずに零を見つめた。

やがて、ほんの少し首を傾ける。


「黒神くんもですよね?」


「俺はいいんだよ」


「何がいいんですか?」


間髪入れずに返され、零は一瞬だけ言葉に詰まった。

それでも鈴華から目を離さないまま、何か理由を探すように眉を寄せる。

やがて思いついたらしく、軽く頷いた。


「ほら。俺の家、親いねぇし」


「…………」


「休んでも、家で怒る奴いねぇから大丈夫だ」


なぜか自信満々だった。

鈴華は包帯を持ったまま、しばらく無言で零を見つめている。

アイリスも意味を理解しようとしているのか、二人を交互に眺めていた。


「……それ、学校を休んでもいい理由にはなっていませんよ?」


「そうか?」


「そうです」


鈴華がきっぱりと言い切る。

それでも零は納得していない様子で、わずかに眉を寄せた。


「でも白河は風紀部だろ。風紀部が学校サボったらまずいだろ」


「黒神くんが言いますか、それを」


今度は鈴華の方が呆れた表情になる。


「俺は風紀部じゃねぇし」


「そういう問題ではありません」


まるで自分の方が正しいと言わんばかりの零を見ながら、鈴華は小さく息を吐いた。

それから手元へ視線を戻し、残っていた包帯を巻いていく。

二人の間でだけ通じた、行きたい場所。

そこへ自分がついていくべきではないことくらいは、なんとなく分かった。

学校の話は、たぶんその言い訳だ。

それなら、これ以上は聞かない。

包帯を巻き終え、ずれがないことを確かめて端を留めると、鈴華は先ほどまでの呆れ顔から一転して、柔らかな笑みを浮かべた。


「……分かりました」


「お、分かってくれたか」


「はい」


鈴華は最後に、包帯の具合を確かめる。

そして――。


「終わりました」


「おう、ありが――痛っ!?」


ぺしっ、と軽い音が響いた。

今しがた手当てを終えたばかりの右腕を、鈴華が掌で軽く叩いたのだ。

反射的に腕を引いた零は、信じられないものを見るように彼女を見上げる。


「おまっ……何すんだよ!」


「大丈夫なんですよね?」


鈴華は何事もなかったように首を傾げる。

その口元には、隠しきれない小さな笑みが浮かんでいた。


「これくらい、どうってことないんじゃなかったんですか?」


「いや、傷をわざわざ叩くのは別だろ……!」


「そうですか?」


零が右腕を庇いながら恨めしそうな視線を向けても、鈴華はまるで気にした様子もなく、使い終えた救急用品を片づけ始める。


「次からは、痛い時はちゃんと痛いと言ってください。それと、病院にはちゃんと行ってくださいね」


「……覚えてたらな」


零がぼそりと返すと、鈴華の手がもう一度包帯の方へ伸びた。


「では、もう一度確認しますか?」


「やめろ」


今度だけは即答だった。

そのやり取りを眺めていたアイリスから、思わず小さな笑い声が漏れる。


「あ……ごめんなさい」


「いや、別に謝ることじゃねぇけど」


零が少し不思議そうに返す。

アイリスは口元へ手を添えながら、もう一度小さく笑った。

母と兄を失ってから、ずっと張り詰めていたもの。

それが、ようやく少しだけ解けたような笑顔だった。

鈴華もそんなアイリスを見て、何も言わずに微笑んだ。

窓の外では、長かった一日が静かに終わろうとしていた。

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