14話:王として
地下駐車場には、重い静寂が戻っていた。
砕けた床や柱から細かな埃が舞い落ち、地上へ続く車路には、漆黒の砲撃が駆け抜けた痕跡が一直線に残っている。
その奥、侯爵が倒れている辺りには、もう黄金色の魔力の名残すらない。
人の形を一回り大きく見せていた厚い魔力の層はどこにもなく、ぼろぼろのスーツをまとった中年の男が一人、床に横たわっているだけだった。
零は右腕を軽く押さえたまま、その姿へもう一度だけ目を向けた。
カイルとの戦いから酷使し続けた腕には、まだ鈍い痛みが残っている。
けれど、それを気にする素振りは見せなかった。
隣では鈴華も、荒くなった呼吸を整えている。
『夢幻』を長く維持し続けた疲労は隠せず、額には薄く汗が滲んでいた。
それでも倒れることなく、舞い上がる埃の向こうへ碧色の瞳を向けている。
「黒神様、白河様」
背後から、レオンの声が届いた。
二人が振り返ると、レオンに守られながらアイリスがこちらへ歩いてくる。
戦いが終わったあとも、レオンの警戒は解けていなかった。
周囲へ視線を配りながら、王女のそばを離れない。
「お二人とも、本当にありがとうございました」
レオンは二人の前まで来ると、深く頭を下げた。
「お二人がいなければ、アイリス様をお守りすることはできなかったでしょう。この御恩は――」
「そういうのはいいって」
零は気恥ずかしそうに片手を振った。
「黒神くんは、もう少し自分の身体も大事にしてください」
すぐ横から返ってきた声に、零が鈴華を見る。
彼女は笑ってはいなかった。
その目は、裂けたジャケットの袖と傷の残る腕へ向いている。
「……その話、まだ続くのか?」
「当然です」
即答され、零は面倒そうに頭を掻いた。
そんな二人のやり取りに、レオンの表情がわずかに緩む。
一方で、アイリスだけは会話に加わらず、少し離れた場所を見つめていた。
そこに倒れているのは、自分の叔父だった。
幼い頃から王宮で何度も顔を合わせ、母の弟として身近にいた人。
その人が今は、母と兄の死に関わっているかもしれない男として、王位のために自分へ継承権の放棄を迫った男として、目の前に横たわっている。
アイリスの表情に気づき、レオンがそっと声を掛けた。
「アイリス様」
「……少しだけ、行ってきます」
静かな返事だった。
レオンはすぐには頷かなかった。
倒れているとはいえ、侯爵へ近づかせることに迷いがあるのだろう。
その横で、零が侯爵へ一度目を向け、軽く顎を引いた。
「大丈夫だ。もう何かできる状態じゃねぇよ」
「…………」
レオンは数秒だけ迷い、やがて道を空けた。
「承知いたしました。ですが、何かございましたらすぐに――」
「はい」
アイリスは小さく頷き、侯爵のもとへ歩き始めた。
足元には、砕けたコンクリート片が散らばっている。
踏むたびに乾いた音が響き、その音だけが不自然なほど静かな地下駐車場へ広がっていった。
やがて侯爵の前まで来ると、アイリスは足を止めた。
「……おじさま」
呼びかけに、すぐ返事はなかった。
それでもアイリスは目を逸らさず、しばらく叔父の姿を見つめていた。
胸の中にあるのは、怒りだけではない。
悲しみも、戸惑いも、まだそこに残っている。
どうしてこうなってしまったのか。
なぜ母と兄がいなくなり、叔父と自分がこんな形で向き合わなければならなくなったのか。
まだ、何もかもが明らかになったわけではない。
「……私、は……」
微かな声が聞こえた。
侯爵の指先が震え、薄く開いた瞼の奥から、濁った視線がアイリスへ向けられる。
「まだ……終わって……いない……」
声は途切れ途切れで、まともに身体を動かす力も残っていない。
それでも、口から漏れた言葉には、最後まで手放せない執念が滲んでいた。
「王位は……私が……」
その先は声にならなかった。
アイリスは黙って聞いていた。
以前の自分なら、その言葉を聞いただけで怖くなっていたかもしれない。
突然母と兄を失い、押しつけられたように感じていた王位という重さから、逃げたいと思ったことも一度や二度ではない。
自分に国を背負えるのか分からなかった。
母のように強くあれるのか、兄のように多くの人から信頼される人間になれるのか。
考えれば考えるほど、自分には足りないものばかりが目についた。
「……私も、怖かったです」
アイリスは、ゆっくりと口を開いた。
「お母様のあとを継ぐことも、アルディアという国を背負うことも……私にできるのか分からなくて、ずっと怖かったです」
少し離れた場所で、零たちは何も言わずにその背中を見守っている。
「今だって、自信があるわけではありません。お母様のような王になれるのかも、お兄様のように民から信頼していただけるのかも分かりません」
アイリスは胸元で重ねた手へ、ゆっくりと力を込めた。
これまで、自分は多くの人に守られてきた。
三年前、ロンドンで自分を守ってくれた二人。
飄々と笑う少年と、桜色の瞳をした明るい少女。
今回は、レオンが最後までそばを離れなかった。
日本へ来てからも、零や鈴華が何度も自分のために危険へ飛び込み、傷つきながら戦ってくれた。
そんな人たちを見てきたからこそ、ようやく分かったことがある。
『できないって決めつけないで。自分に合ったやり方を探せばいいんだよ』
三年前、蕾がくれた言葉。
そして今朝、夜明けの公園で零が言ってくれた言葉。
『アイリス姉は、アイリス姉にできることをやればいい』
母の代わりになる必要はない。
兄の代わりになる必要もない。
自分は自分のまま、できることを積み重ねればいい。
「でも、もう逃げません」
その言葉とともに、アイリスは顔を上げた。
「私はお母様ではありませんし、お兄様でもありません。きっと、お二人と同じように国を導くことはできないと思います」
声に震えはなかった。
「それでも、私には私にできることがある。私を信じてくださる人たちと一緒に、自分のやり方でアルディアを守っていきます」
「……アイリス様」
後方で聞いていたレオンが、思わず声を漏らした。
その表情には、これまでずっと守ってきた少女の変化を目の当たりにした驚きと、言葉では表しきれない想いが滲んでいる。
零もまた、黙ってアイリスを見つめていた。
夜明けの公園で、自分が何をすればいいのか分からず立ち止まっていた少女。
あれから、まだ半日も経っていない。
すべての迷いが消えたわけではないだろう。
それでも彼女は、その迷いを抱えたまま、自分で進む道を選んだ。
――見てるか、蕾。
三年前に出会った王女が、今は自分の足で立っている。
それで十分だと、零は思った。
アイリスは叔父から目を逸らさなかった。
「だから、おじさま。あなたに王位を渡すことはありません」
弱々しく開かれていた侯爵の瞳が、わずかに揺れる。
「国を自分のものにするためでも、力を手に入れるためでもありません。私を信じてくださる人たちと、この国で生きる人たちが、これからも安心して暮らしていける場所を守るために――私は前へ進みます」
アイリスは背筋を伸ばした。
もう、叔父に怯える少女ではない。
これまでずっと、自分は誰かに守られる王女だった。
母がいて、兄がいて、その後ろに立っていればよかった。
もう、そこには誰もいない。
ならば、自分が立つしかない。
アルディア王国第一王女として、そしてこれから国を背負っていく者として、琥珀色の瞳を正面から侯爵へ向ける。
「アルディアの王になるのは――この私です」
その声が、静まり返った地下駐車場へ響いた。
侯爵は何も答えなかった。
濁った瞳がゆっくりと閉じられ、それきり動かなくなる。
息はある。
ただ、もう言葉を返す力は残っていなかった。
アイリスはしばらくその姿を見下ろしていたが、やがて静かに背を向けた。
「レオン。この方の身柄を」
「……はっ」
レオンが深く頭を下げる。
その返事に込められていたのは、忠誠だけではなかった。




