13話:天輝花④〜秘策〜
地下駐車場へ現れた零の姿を改めて見て、鈴華は言葉を失った。
黒いジャケットの右袖は肩口まで裂け、露出した腕には深い裂傷が走っている。
その下のシャツも胸元が焼け焦げ、覗いた皮膚が赤黒く変色していた。
頬にも血が滲み、いつもは気怠げに揺れている肩が、浅く上下している。
これまで何度も、訓練で零の戦う姿を見てきた。
息を切らしているところなど、一度も見たことがない。
「……その傷、大丈夫なんですか?」
掠れた声で、ようやくそれだけを口にした。
「ああ」
零は何でもないことのように答え、傷の残る右腕を軽く回してみせる。
「これくらい、どうってことねぇよ」
「……本当ですか?」
疑うような碧色の瞳を向けられても、零はいつもの調子を崩さなかった。
「本当だって」
そう言って笑うものの、腕を下ろした直後、右手が一瞬だけ震えた。
鈴華はそれを見逃さない。
今も、裂けたジャケットの袖から覗く前腕には血が伝っている。
「……無茶したんですね」
「まあ、その話はあとでな」
追及をかわそうとした零だが、そこで一度、言葉を切った。
視線を鈴華に落とす。
借り物の白いTシャツは埃で汚れ、上から羽織った黒いカーディガンも裾が擦り切れている。
制服のスカートから覗く膝は擦りむき、髪は乱れ、立っているだけで腕が細かく震えていた。
床は割れ、車は歪み、壁には無数の亀裂。
この中で一人、持ちこたえていたのだ。
自分が来るまで、ずっと。
「……悪かったな」
零の声から、軽さが抜けていた。
「すぐ追いつくって言ったのに、こんなになるまで待たせた」
「……っ」
鈴華が目を見開く。
謝られるとは思っていなかった。
怖くなかったと言えば嘘になる。
何度も吹き飛ばされて、立ち上がるたびに脚が言うことを聞かなくなって、それでも前を向いていられたのは、必ず来ると信じていたからだ。
その人が今、目の前で頭を下げるように詫びている。
「……いいえ」
鈴華は首を横へ振った。
「来てくれました。それで十分です」
それから、少しだけ表情を緩める。
「それに――ちゃんと約束、守ってくれましたから」
零は数秒、鈴華を見つめた。
やがて、口の端だけで笑う。
「白河こそ大丈夫か?」
「私は大丈夫です」
即答した鈴華に、零は一瞬だけ何とも言えない顔をした。
「……人のこと言えねぇだろ」
「黒神くんほどではありません」
少しだけむっとしたように返す鈴華を見て、零の口元に小さな笑みが浮かぶ。
けれど、その空気が続いたのはほんの一瞬だった。
地下駐車場の奥で、低い呻き声が響いたからだ。
二人が同時に視線を向ける。
先ほど零の銀河星によって弾き飛ばされた侯爵が、ひび割れた床へ片手をつきながら身体を起こそうとしていた。
その全身を覆う魔力は大きく揺らぎ、膨張と収縮を不規則に繰り返している。
「……天輝花か」
零の黄金色の瞳から、軽さが消える。
床には、空になった銀色の自動注射器が転がっていた。
三年前の任務の前、エレノアから聞かされた花。
本来は、魔力欠乏症の治療に使われる薬だ。
治療に使う量で、あれほどの魔力が溢れ出すはずがない。
「濃縮したやつを、まるごと打ったな」
それだけ言って、零は侯爵へ視線を戻した。
「……あれ、長くは保たねぇぞ」
だが、その薬効はまだ終わっていなかった。
「まだ……足りない……」
掠れた声が漏れた。
侯爵は震える腕へ力を込め、無理やり身体を起こしていく。
先ほどまで辛うじて保たれていた理性や余裕は消え、血走った瞳には異様な執念だけが残っていた。
「私は……王になる……」
「おじさま……」
レオンに守られたアイリスが、その姿を見つめる。
先ほど、この人は自分を叩き潰そうとした。
母と兄を奪ったのも、おそらくはこの人だ。
許せるはずがない。
それでも、幼い頃、庭で手を引いてくれた叔父の姿を、まだ覚えている。
「おじさま、もうおやめください!」
堪えきれず、アイリスが声を上げた。
「それ以上力を使えば、お身体がもちません!」
悲痛な訴えが届いた様子はなかった。
侯爵はアイリスへ血走った瞳を向けると、怒りに任せるように魔力を噴き上げる。
「黙れぇッ!」
爆発的な魔力が地下駐車場を駆け抜けた。
レオンは即座にアイリスを背へ庇い、鈴華も顔の前へ腕を上げて踏み止まる。
零は二人より一歩前へ出ると、ジャケットの裾を激しく煽る魔力の風の中で侯爵を睨んでいた。
侯爵の首筋から肩へ、肩から腕へ。
天輝花の淡い黄金色を帯びた魔力が脈打ちながら流れ、身体の外へまで溢れ出していく。
溢れた魔力は何重にも折り重なりながら、侯爵を包み込んでいった。
「ぐっ……ああああああッ!」
苦痛に満ちた絶叫が響き渡る。
全身を覆う魔力が、さらに厚みを増していく。
肩に、背に、腕に、折り重なった魔力が輪郭を歪ませ、人の形を一回り大きく見せた。
姿が変わったわけではない。
その下にあるのは、汗を流し、血管を浮かせ、限界を超えて軋んでいる人間の身体だ。
変わったのは、それを覆う魔力の量だけ。
だが、その量が尋常ではなかった。
ただ立っているだけで床へ亀裂が広がり、近くに停められていた車が軋む。
天輝花から無理やり引き出した力は、もはや侯爵自身にも制御できていない。
零は目を細めた。
――ありゃ、自分を燃やしてるな。
「王に……なる……」
厚い魔力の向こうから、低い声が漏れる。
「邪魔する者は……全員……消す……!」
次の瞬間、床が砕けた。
「来るぞ、白河!」
「はい!」
零の警告と同時に、侯爵が一気に距離を詰めてくる。
鈴華はすぐに『夢幻』を展開した。
侯爵が捉えた鈴華の姿が実際の位置から大きくずれ、振り抜かれた拳は誰もいない床へ叩き込まれる。
ドォンッ――!
コンクリートが陥没し、砕けた破片が周囲へ飛び散った。
その隙を逃さず、零が側面へ回り込む。
「銀河星――バージョン隕石」
漆黒の魔力球が次々と周囲へ生まれ、その一つ一つを紫銀色の粒子が星屑のように取り巻いていく。
「連射」
一斉に放たれた銀河星が、異なる軌道を描きながら侯爵へ殺到した。
正面だけではない。
側面、頭上、さらに踏み込もうとした足元へも漆黒の魔力球が襲いかかり、爆発音が立て続けに地下駐車場を揺らす。
「ぐおおおおッ!」
黄金色の魔力へ、いくつもの黒い爆発が咲く。
それでも侯爵は倒れなかった。
「……頑丈だな、おい」
爆煙の奥から現れた姿を見て、零の表情が険しくなる。
侯爵を覆う魔力には何本もの裂け目が走っていた。
だが、その隙間へ内側から新たな魔力が溢れ出し、破れた場所を再び埋めていく。
身体が癒えているわけではない。
ただ、削られる以上の速さで魔力が漏れ出しているだけだ。
その分だけ、あの男の命が削れている。
侯爵が煙を突き破る。
「――っ!」
腕が横薙ぎに振るわれる。
零は身体を沈めて直撃をかわしたものの、纏っていた魔力の余波までは避けきれない。
衝撃に身体を持っていかれ、床を滑りながら数メートル後退した。
「黒神くん!」
侯爵が追撃へ移ろうとした瞬間、横合いから眩い光が飛び込んだ。
鈴華の光魔法が顔の前で炸裂し、その視界を一瞬だけ白く染め上げる。
零はその隙に立ち上がったものの、右腕を動かした瞬間、傷口を抉るような痛みが走った。
顔には出さなかったが、一瞬だけ動きが止まる。
鈴華はそれを見逃さない。
「やっぱり、無茶してるじゃないですか」
「無茶してるつもりはねぇんだけどな」
苦笑する零に、鈴華は何か言いたげな視線を向けた。
しかし侯爵の咆哮が響くと、すぐに表情を引き締めて正面へ向き直る。
「その言い訳は、あとで聞きます」
「覚えてたらな」
軽口を返しながらも、零の黄金色の瞳はすでに侯爵の動きを追っていた。
再び侯爵が迫る。
鈴華は『夢幻』で攻撃を外し、その死角から光魔法を撃ち込む。
零も隕石で動きを制限し、何度も魔力の壁へ攻撃を叩き込んだ。
それでも決定打にはならない。
『夢幻』そのものは通じていた。
侯爵は何度も存在しない鈴華へ拳を振るい、そのたびに本物を見失っている。
だが、天輝花によって膨れ上がった出力が、その弱点を強引に補っていた。
標的の正確な位置が分からないなら、周囲ごと吹き飛ばす。
侯爵が両腕を振り回すたびに黄金色の魔力が衝撃波となって広がり、床や柱を無差別に削っていく。
鈴華が『夢幻』で攻撃そのものを外しても、その余波までは完全に消せない。
「くっ……!」
吹き荒れた衝撃に押され、鈴華の身体が後方へ滑った。
すぐ横へ降り立った零も、着地した瞬間、右膝が一瞬沈んだ。
――思った以上だな。
立て直しながら、零は内心で舌を打った。
万全なら、とっくに終わらせている。
彗星――いや、あの防壁なら、超新星だ。
削っても削っても埋め直されるなら、埋め直す暇も与えない威力で一度に撃ち抜けばいい。
天輝花で膨らんだ魔力ごと、侯爵を撃ち抜ける。
それだけの威力はある。
だが、今は違った。
カイルとの戦いで、想像以上に持っていかれている。
腕の傷も、脇腹の痛みも、まだ引いていない。
何より、あの男を相手に注ぎ込んだ魔力が戻っていなかった。
今の残りで組み上げられる超新星は、一発が限度。
外せば、次はない。
そしてもう一つ。
零は周囲へ視線を巡らせた。
頭上には低い天井。
四方はコンクリートの壁と柱。
こんな場所で超新星を放てば、侯爵ごと施設が崩れる。
後方にはレオンとアイリスがいる。
鈴華が倒した黒服の男たちも、まだ床に転がったままだ。
撃つなら、範囲を絞り、外へ向ける。
零の視線が、侯爵の向こうで止まった。
地上へ続く広い車路が、一直線に伸びている。
その前を塞いでいたはずの黒服たちの姿は、もうない。
侯爵が天輝花を打って暴れ始めたあたりで、巻き込まれるのを恐れて逃げ出したのだろう。
――あそこだ。
あの正面へ侯爵を追い込み、車路の先へ向けて撃つ。
方向と威力を精密に制御すれば、地下を崩さずに済む。
ただし、そこまで絞り込むには、組み上げにいつも以上の手間が掛かる。
問題は、その間ずっと自分が無防備になることだった。
あの魔力の塊は、鈴華の『夢幻』を力ずくで踏み潰してくる。
生成中の零へ突っ込まれたら、避ける余裕はない。
誰かが足を止めさせるか。
あるいは――。
「…………」
零の思考が、ふと昨夜へ飛んだ。
ホテルの一室。
アイリスの姿になった影山が、優雅なドレス姿のまま、不満げな顔を浮かべていた。
あれも鈴華の幻影魔法だ。
他人に掛けていた。
姿を変える魔法と、認識をずらす『夢幻』。
掛かり方はまるで違う。
だが、どちらも同じ幻影魔法だ。
――だったら。
「白河」
「はい?」
鈴華も侯爵から意識を外すことなく応じる。
「昨日、影山とアイリス姉の姿を変えてたよな」
唐突な問いに、鈴華が一瞬だけ怪訝そうな顔をした。
「……はい。それが何か?」
「あれ、他人に掛けてたわけだ」
鈴華の眉が寄る。
「そうですけど……」
零はそこで、初めて鈴華へ視線を向けた。
「じゃあ夢幻も、他人に掛けられるか?」
「――……!」
鈴華の碧色の瞳が見開かれる。
考えたこともなかった。
『夢幻』は自分の位置を誤認させる技だ。
訓練でも、零の魔法を避けるために自分へ使い続けてきた。
けれど、姿を変える幻影を他人へ重ねられるのなら。
相手が魔力で拒みさえしなければ、幻影は他人にも掛かる。
相手の認識をずらすこの技も、本来は同じはずだ。
「……できます」
確信ではなかった。
それでも、鈴華はそう答えた。
「やったことはありません。でも――同じ幻影魔法です……やってみせます」
「上等だ」
零の口元が上がる。
それ以上、説明はしなかった。
ほんの一瞬だけ二人の視線が重なる。
鈴華は零の視線を追い、その先にあるものを確かめた。
侯爵、その背後へ伸びる車路、そして、再び零。
「…………」
すぐに意図を理解したらしい。
鈴華は頷いた。
「分かりました」
一度だけ息を吸い、はっきりと続ける。
「黒神くんには、指一本触れさせません」
その言葉を聞いた零は、侯爵を見据えてジャケットの内ポケットへ左手を入れる。
「そんじゃ、そろそろ決めるか」
取り出したのは、一冊の黒い手帳だった。
表紙に刻まれた星の紋章を見たアイリスが、息を呑む。
三年前、同じ紋章を掲げた少女がいた。
桜色の瞳をした、自分より年下の子。
あの夜、彼女の背中がどれほど大きく見えたかを、今もはっきりと覚えている。
隣ではレオンも、表情を引き締めていた。
零は手帳を開くと、自らの身分を示す頁を侯爵へ向けて掲げた。
ジャケットの右袖は裂け、頬にも腕にも傷が残っている。
外見だけなら、どこにでもいる高校生にすぎない。
けれど、黄金色の瞳から普段の気怠さが消えた瞬間。
その場を包む空気が変わった。




