13話:天輝花①〜忠誠〜
少し前――。
迎賓施設、地下駐車場。
重い防火扉を押し開け、鈴華たちは薄暗い地下へ飛び込んだ。
先頭を走っていた鈴華は数歩進んだところで速度を緩め、背後を振り返る。
アイリス、そのすぐ傍にはレオン。
二人とも無事についてきていることを確かめると、張り詰めていた表情がいくらか和らいだ。
上の階から響いていた戦闘音も、ここまで下りてくればほとんど聞こえない。
等間隔に並んだ照明がコンクリートの床へ白い光を落とし、静まり返った駐車場には三人分の足音だけが乾いて響いていた。
――黒神くんは、まだ。
一瞬だけ頭を過った考えを、鈴華は前を向くことで振り払う。
零から任されたのは、アイリスを守ることだ。
今は、自分の役目を果たす時だった。
「この先です」
レオンが呼吸を整えながら前方を示す。
何台もの車が並ぶ駐車区画のさらに奥、太い柱の陰に一台の黒塗りの車が停められていた。
「あの車でここを離れます。地上へ出たあと、別の安全な場所へ――」
「……待ってください」
鈴華の声に、レオンが言葉を止めた。
車は見えている。
地上へ続く車路も、その先にある。
けれど鈴華は足を進めず、碧色の瞳を細めたまま黒塗りの車の周りを見つめていた。
車の脇の柱だけ、落ちる影が濃い。
照明の位置からすれば、あそこまで暗くなるはずがなかった。
風紀部の活動で何度も現場へ出てきた感覚が、これ以上近づくなと告げている。
「鈴華さん?」
アイリスが不思議そうに声を掛ける。
その直後、柱が作る濃い影の中から、一人の男がゆっくりと姿を現した。
仕立てのいいスーツに身を包み、髪にも乱れ一つない。
施設全体が襲撃を受けている最中とは思えないほど、その男の佇まいには異様な落ち着きがあった。
続いて、左右の柱の陰から数人の男たちが姿を見せる。
揃いの黒服。
いずれも既に魔力を纏い、三人を囲むように広がった。
「……おじさま?」
アイリスの足が止まった。
琥珀色の瞳を大きく見開き、信じられないものを見るように男を見つめている。
対する侯爵は、そんな姪の動揺とは対照的に、穏やかな微笑みを浮かべていた。
「久しぶりだね、アイリス」
「どうして……どうして、おじさまがここに……?」
掠れた声が地下駐車場へ落ちる。
侯爵が一歩こちらへ進むと、レオンは迷うことなくアイリスの前へ出た。
自らの身体で王女を隠すように立ち、その歩みを遮る。
「本国から姿を消したと聞いておりましたが……日本へ渡っておられたとは」
レオンの声が低く沈む。
「……やはり、あなたでしたか」
「レオン」
侯爵は旧知の相手へ向けるように、静かにその名を呼んだ。
鈴華も自然と位置を変え、レオンとは反対側からアイリスを守れる場所へ立つ。
女王と第一王子の死、天輝花、そしてアイリスを狙う一連の襲撃。
そのすべての中心にいるのではないかとレオンが疑っていた人物が、今まさに自分たちの目の前に立っている。
しかも、脱出用の車の前で待っていた。
発信機でこの施設を突き止めた以上、逃げ道まで見張られていても不思議はない。
上の階の襲撃は、アイリスをここへ追い込むためのものだったのかもしれない。
「そこまで警戒する必要はない。少なくとも、今すぐ君に手を出すつもりはないよ」
侯爵は三人の様子を見回したあと、再びアイリスへ視線を戻した。
その声音は穏やかだったが、鈴華にはかえって不気味に感じられた。
昨夜、殺し屋を差し向けた側の人間が口にする言葉ではない。
「私は君と話をしに来ただけだ」
「……私と?」
「ああ」
一拍の間を置き、侯爵は告げる。
「アイリス。王位継承権を放棄しなさい」
「……っ」
アイリスの肩がびくりと揺れた。
地下駐車場には、換気設備の低い駆動音が流れている。
それ以外の音が消えてしまったような静けさの中、侯爵は姪の反応を確かめながら言葉を続けた。
「姉上と第一王子が亡くなった今、王位に最も近いのは君だ。だが、第一王女である君が自ら王位を継ぐ意思がないと宣言すれば、状況は変わる」
侯爵の口元に、薄い笑みが浮かぶ。
「君さえ退けば――次に王位へ手を伸ばせるのは、この私だ」
「おじさまが……王に……?」
その問いに、侯爵は隠す素振りすら見せなかった。
「何かおかしいかな?」
悪びれる様子はない。
それどころか、自分の主張こそが最も合理的だと信じているようだった。
「君はまだ若い。母親と兄を失ったばかりでもある。そんな君に一国を背負わせるより、経験のある私が王位を継ぐ。その方がアルディアにとってもいい」
アイリスは何も答えない。
「国民の前で、王位を継ぐ意思がないと宣言するだけでいい。そうすれば君は、もうこの争いから降りられる」
鈴華は侯爵の横顔を見据えたまま、唇を引き結んだ。
降りられる、という言葉ほど当てにならないものはない。
王位を手放したあとのアイリスが、この男にとってどれほどの価値を持つのか。
用が済んだ相手を、そのまま無事に帰すとは思えなかった。
アイリスの胸元で重ねられた手が、微かに震えている。
母を失った。
兄を失った。
そして今度は、自分自身まで命を狙われている。
恐怖が消えたわけではなく、自分が女王として国を背負えるのかという迷いも、まだ胸の中には残っている。
それでも、アイリスはゆっくりと顔を上げた。
「……いいえ」
侯爵の笑みが止まった。
「アイリス?」
「私はまだ、自分が女王にふさわしい人間なのか分かりません。お母様のように国を導けるのか、お兄様のように民から信頼していただけるのかも……今の私には分かりません」
声はまだ震えている。
それでも、叔父から視線を逸らすことはなかった。
「女王になると、この場でお約束することもできません」
一度だけ息を吸う。
その琥珀色の瞳から、叔父を見る色が消えた。
「でも――怖いからという理由で、あなたに言われるまま王位を捨てることだけはしません。これから私がどうするのかは、私自身で決めます」
侯爵は黙ったまま、しばらくアイリスを見つめていた。
鈴華も振り返らない。
ただ、その言葉を聞いた瞬間、ほんの少しだけ表情を緩めていた。
昨日まで深い悲しみの中にいた少女が、恐怖を消せないままでも自分の足で立とうとしている。
「……そうか。残念だよ」
やがて侯爵の顔から穏やかな笑みが薄れ、その視線がレオンへ移った。
「では――君はどうする、レオン?」
レオンはアイリスを庇ったまま答えない。
「君ほどの男が、先の見えない少女と運命を共にする必要はないだろう。私の側へ来なさい」
侯爵は穏やかな口調のまま、右手を差し出した。
「私が王位を継いだ暁には、君を公爵へ取り立てよう。それだけではない。新たなアルディアの中枢で、今以上の地位と権限を約束する」
しかし、レオンは差し出された手を見ることすらしなかった。
「お断りいたします」
「即答か」
侯爵の眉がぴくりと動く。
レオンは正面から相手を見据えたまま、アイリスの前から一歩も退かなかった。
「私がお仕えするのは、アルディア王国の正統な王家。そして――アイリス殿下ただお一人です」
「レオン……」
背後から、アイリスが小さく名を呼ぶ。
それでもレオンは振り返らない。
視線は侯爵へ向けたまま、王女を守るように立ち続ける。
「公爵位であろうと、それ以上の地位であろうと、私には何の価値もございません。私の忠誠は、爵位と引き換えにできるほど安くはありません」
そこで一度、レオンの声が低くなった。
「まして――陛下が禁じられた天輝花を、金と力に変えようとする方の下では」
侯爵の表情から、初めて余裕が消える。
「そこまで掴んでいたか」
その言葉は、否定ではなかった。
やがて侯爵は、うんざりしたように肩をすくめる。
「……つくづく、話の通じない者ばかりだ」
それまでの穏やかな声音から、すっと温度が消えた。
侯爵が軽く顎を引く。
それだけで、囲んでいた男たちが一斉に距離を詰め始めた。
「――!」
鈴華は即座に一歩前へ出た。
右手には、すでに淡い光の魔力が集まり始めている。
「アイリスさんは下がっていてください」
「鈴華さん……」
隣ではレオンも構えようとしていたが、鈴華は侯爵から視線を外さないまま、片手でそれを制した。
「レオン伯爵は、アイリスさんを守っていてください」
「しかし、白河様。お一人では――」
「大丈夫です」
そこで鈴華は、顔だけをわずかに振り向かせる。
「レオン伯爵まで前へ出たら、アイリスさんの傍に誰もいなくなります」
レオンは一瞬だけ言葉を失った。
鈴華は再び前へ向き直る。
自分の身が先。
今朝、零とそう約束した。
忘れたわけではない。
けれど、逃げ道はもう塞がれかけている。
ここで下がれば、アイリスの前に立つ者がいなくなるだけだった。
警察と風紀部の支部には、上の階で連絡を入れてある。
零も、すぐ追いつくと言った。
勝てるとは思っていない。
それでも、足は震えていなかった。
――黒神くんが来るまで。
それだけ持ちこたえられればいい。
「私が止めます。ですから――アイリスさんのことは、お願いします」
その背中を数秒見つめたあと、レオンは静かに頷いた。
「……承知しました」
アイリスのすぐ前へ立つと、今度こそ完全に護衛へ徹する。
「アイリス様。決して私の傍を離れませんよう」
「……はい」
その返事を背中で聞き、鈴華は小さく息を吐いた。
「学生一人で、私を止めるつもりか?」
侯爵の声には、隠す気もない侮りが滲んでいた。
「はい。そのつもりです」
迷いのない返答に、侯爵の目が細められる。
「……ふむ」
侯爵は片手を上げ、動きかけた男たちを制する。
「私が出るまでもない。三人で十分だろう」
黒服の男が三人、前へ出た。
残りはその場に留まり、車路と防火扉の前をそれぞれ塞ぐ。
――退路は、断たれた。
鈴華はそれを視界の端で確かめながら、掌の光を強めた。
「悪く思うな、お嬢さん」
一人が言い終えるより早く、床を蹴っていた。
迫る拳。
鈴華は避けなかった。
「――!」
男の拳が、鈴華の頬をすり抜ける。
いや、すり抜けたのではない。
そこに鈴華はいなかった。
拳が捉えたのは、前へ出た瞬間に残しておいた幻影だった。
「な――」
男が目を見開いた瞬間、その死角から光が走った。
鋭い光弾が脇腹へ突き刺さり、男の身体が横へ吹き飛ぶ。
車の側面へ叩きつけられ、そのまま動かなくなった。
「幻影魔法か!」
残る二人が同時に踏み込む。
左右から挟み込むような攻撃。
だが鈴華は下がらなかった。
前へ、二人の間へ自ら踏み込む。
「なっ……!」
交差した攻撃は、どちらも空を切った。
二人の目には、確かに鈴華が映っている。
それなのに、拳も魔法も、必ずほんのわずか外れる。
「夢幻」
澄んだ声が、地下駐車場へ落ちた。
相手の認識の中に自分の姿を残したまま、本体だけをその外へ移す。
零との訓練で見つけた、鈴華だけの幻影魔法。
一人が振り抜いた腕が、鈴華の残像を貫く。
たたらを踏んだその背中へ、光の刃が叩き込まれた。
「がっ……!」
最後の一人が距離を取ろうと後退する。
だが、その足が止まった。
自分が今どこを見ているのか、一瞬分からなくなったのだ。
「どこだ――」
「ここです」
真横から声がした。
振り向いた顔面へ、至近距離から光弾が放たれる。
三人目が床へ崩れ落ちるまで、一分と掛からなかった。
鈴華は乱れた呼吸を整えながら、侯爵へ向き直る。
額に汗が滲んでいる。
『夢幻』は、集中を切らせば維持できない。
発動していられる時間も、まだ長くはなかった。
訓練で課題にしていたそのままの弱点が、今の短い攻防だけで、確かな消耗となって身体へ残っている。
それでも、まだ立っている。
「…………」
侯爵の目から、先ほどまでの侮りが消えていた。
「ほう」
残った男たちが動こうとするのを、今度は手で完全に制する。
「下がっていろ」
「しかし、閣下――」
「下がれと言った」
侯爵は一歩、自ら前へ出た。
「日本の学生とは、皆こうなのかね」
「……いいえ」
鈴華は掌へ再び光を集めながら答える。
「私は、教えてくれる人に恵まれただけです」




