12話:流れ星②〜近接戦〜
零は構えたまま、顎で軽く促した。
「ほら――来いよ」
その言葉を待っていたかのように、カイルの重心が沈む。
次の瞬間、数メートルあった距離が消えた。
「――っ!」
真正面から迫った右拳を、零は上体を逸らして躱す。
鼻先を掠めた拳が風を切るが、カイルはそのまま振り抜かない。
踏み込んだ右足を軸に身体を捻り、返す左肘を零の脇腹へ叩き込んだ。
零は咄嗟に前腕を差し込む。
鈍い衝撃が骨の奥まで響き、強化したはずの腕がじんと痺れた。
「っと……!」
だが、カイルの攻撃は止まらない。
零の意識が肘へ向いた瞬間には、低い足払いが来ていた。
床を蹴って回避した零は、宙で腰を捻る。
そのまま振り抜いた踵が側頭部へ迫るが、カイルは片腕を上げて受け止めた。
乾いた衝撃音が廊下へ響き、互いに弾かれるように距離を取る。
窓から差し込む光の帯を、二人分の影が横切った。
着地した零は、先ほど肘を受けた腕を軽く振った。
「やるじゃねぇか」
「余裕だな」
カイルの声に感情はない。
ただ、事実を確かめるような響きだけがあった。
「そう見えるか?」
口元にはいつもの軽い笑みがある。
だが、黄金色の瞳は笑っていなかった。
足の向き、肩の高さ、呼吸、視線。
ほんのかすかな重心移動まで、目の前の殺し屋から一瞬たりとも意識を外していない。
昨夜、暗闇の中で止めた一撃。
あれは全力ではなかった。
今なら分かる。
カイルも同じだった。
短い沈黙の後、二人はほぼ同時に床を蹴る。
今度は真正面。
拳と拳が交差する。
零の右をカイルが首だけで躱し、その腕を外へ流すと、空いた懐へ膝を突き上げた。
「っ」
零が腰を引いたことで、膝頭がシャツの布を掠めて抜ける。
その直後、零は身体を沈め、カイルの脇腹へ拳を返した。
しかし、それも肘で落とされた。
拳と肘がぶつかった瞬間には、もうカイルの左拳が飛んでいる。
零は掌で軌道を外し、その手首を掴んだ。
引く。
だが、カイルは逆らわなかった。
引かれる勢いを利用して逆に一歩踏み込み、至近距離から零の顎へ肘を跳ね上げる。
「――!」
零は咄嗟に腕を跳ね上げ、直撃だけは防いだ。
その一瞬の体勢の崩れを、カイルは見逃さない。
胸元を掴むと、一気に腰を沈めた。
「おっと――!」
視界が反転する。
背中から床へ叩きつけられる寸前、零は片手をついた。
腕一本で身体を支え、そのまま投げられた勢いを利用して身体を回転させる。
低い位置から放たれた蹴りが、カイルの胸元を薙いだ。
「……!」
カイルが後方へ跳ぶ。
靴先が上着を掠める中、零は回転の勢いをそのまま使って立ち上がった。
「危ねぇな」
「今ので受け身を取るか」
零は襟元を直しながら、口の端を上げた。
「床に叩きつけられる趣味はねぇからな」
軽口を返しながらも、零の中では目の前の男に対する評価が一段上がっていた。
速いだけではない。
力が強いだけでもない。
身体の崩し方、急所への入り方、相手の反応を利用した次の一手。
そのすべてが競技として磨かれたものではなく、人間を確実に仕留めるための動きだった。
資料にあった「A級」の二文字で片づけていい相手ではない。
「A級ってのは、伊達じゃねぇんだな」
「物足りんか」
「いや」
零の口元が、わずかに上がる。
「だから面白ぇんだよ」
遠く、上の階で衝撃音が響いた。
まだ続いている。
レオンの護衛とメイドが、今もあの部屋で踏みとどまっている。
こちらも、いつまでも遊んではいられない。
今度は零から踏み込んだ。
右拳を外へ流されたところへ左の蹴りを繋ぎ、それを受けた腕を掴む。
引き寄せようとした瞬間、カイルは自ら懐へ飛び込み、零の喉へ手刀を走らせた。
首を捻る。
鋭い指先が皮膚を掠める。
返す零の拳はカイルの頬へ――届く寸前、腕を割り込まれて止められた。
そこからは、ほとんど息をつく暇もなかった。
拳、肘、膝、蹴り。
受け、流し、躱し、そのまま返す。
二人の攻防だけが、昼の光が差す廊下の中央で異様な速度で積み重なっていく。
靴底が磨かれた床を擦り、大きな窓のガラスが打撃の風圧に細かく震えた。
その最中――カイルの拳が、初めて零の防御を抜いた。
「っ……」
拳が頬を浅く掠め、数本の髪が宙を舞う。
零は一歩退き、親指で頬を拭った。
薄く裂けた皮膚から流れた赤い血が、指先へ付着する。
「へぇ……久しぶりに食らったな」
「俺の拳をその程度で凌いだのは、お前が初めてだ」
褒めるでも煽るでもない。
ただの報告のような声だった。
「そりゃどうも」
零が再び腰を落とそうとした、その時だった。
バチッ――。
乾いた音と共に、カイルの肩口で青白い光が弾けた。
次に来るのは雷撃か、放電か。
そう考えたが、カイルは腕を向けようともしない。
むしろ逆だった。
身体の表面で弾けていた雷が、そのまま皮膚の内側へ沈んでいく。
筋肉を走り、さらに深い場所――神経へと流れ込んでいくのが、魔力の動きから分かった。
「……なるほど」
零の黄金色の瞳に、好奇心が浮かぶ。
「雷を撃つんじゃなくて、自分に流してんのか」
人の身体を動かす神経の電気信号へ、雷属性の魔力を重ねる。
それによって反応速度を引き上げ、さらに筋肉へ流した魔力で収縮速度そのものまで強制的に高める。
思考から動作へ移るまでのほんの一瞬の遅れを削り取り、同時に一歩の踏み込みや打撃から生まれる力まで底上げする。
雷を攻撃として放つのではない。
自分自身を、一つの武器へ変えるために使っている。
「普通、雷ってのは外に飛ばすもんだろ?」
零は感心したように笑った。
「変な使い方するな」
「お前にだけは言われたくない」
黒い星を撃ち出す、得体の知れない魔法の使い手。
カイルからすれば、そう言いたくもなるのだろう。
零は喉の奥で小さく笑った。
「それもそうか」
その言葉が終わるより早く、青白い光が爆ぜた。
カイルの姿が消える。




