11話:再襲撃③〜再戦〜
重い防火扉を押し開け、四人は非常階段へ入った。
廊下の騒ぎが遠ざかり、代わりに足音がコンクリートの壁へ反響する。
零が踊り場の先を確かめ、階段を下りる。
鈴華たちも、その後ろへ続いた。
上の階からは、時折、鈍い衝撃音が伝わってくる。
「…………」
踊り場を折り返したところで、アイリスが一度だけ上を見上げた。
零はその横顔を見て、足を止めずに口を開く。
「気になるか?」
「……はい」
アイリスは隠さず頷いた。
零も軽い慰めを重ねることはしなかった。
「ちゃんと引くって言ってたろ。今は、あの二人を信じようぜ」
「零くん……」
アイリスは少しだけ目を伏せた。
離れたくないと留まれば、それだけ二人も退けなくなる。
そのことは、分かっていた。
「……そうですね。信じます」
今度は、自分から下の階へ目を向けた。
鈴華もその隣につき、二人は階段を下りていく。
やがて、一階の踊り場へ辿り着いた。
今下りてきた階段は、ここまでしか続いていない。
「地下へは、向こうの区画から下ります」
レオンが通路側の扉を示した。
「連絡廊下の先に、駐車場へ続く階段があります」
「分かった」
零は扉を少しだけ開け、外を確かめた。
すぐそばに、人影はない。
四人は再び施設内の通路へ出て、地下へ下りる階段を目指した。
角を曲がると、幅のある連絡廊下が伸びていた。
左右の大きな窓から昼の光が差し込み、磨かれた床へ白い帯を落としている。
上の階の騒ぎが嘘のように、そこだけは静まり返っていた。
「この先です。突き当たりを右へ進めば――」
「……待った」
零の声に、レオンの言葉が止まった。
鈴華も足を止め、アイリスを自分のそばへ引き寄せる。
「黒神くん?」
零は返事をしなかった。
黄金色の瞳が、廊下の奥を捉えている。
先ほど、客室の外を囲んでいた集団の中にはなかった気配。
それが今は、進む先にある。
視線を追った鈴華も、息を呑んだ。
「……!」
広い連絡廊下の中央に、一人の男が立っていた。
何をするでもなく、ただ立っている。
まるで、誰かが来るのを待っていたかのように。
アイリスの顔から、血の気が引いた。
忘れるはずがない。
昨夜、停電したパーティー会場で、一瞬にして自分へ迫った男だ。
零が割って入らなければ、その手は喉へ届いていた。
零も男の顔を見据える。
今朝、エレノアから届いた資料の顔と一致している。
数多くの要人暗殺に関わってきた、A級国際指名手配犯。
だが、男はアイリスを見なかった。
その視線は、最初から一人にだけ向けられている。
「待っていたぞ――漆黒の流星」
鈴華の碧色の瞳が見開かれた。
この男は、零の正体を知っている。
アイリスも驚いたように零へ顔を向けたが、呼ばれた本人は目を細めただけだった。
「へぇ……昨日のあれだけで、そこまで辿り着いたのか」
「紫銀の星屑をまとう、漆黒の魔力弾」
男は淡々と答えた。
「裏の世界で、その魔法を知らない者はいない。名前と学校が分かれば、あとは確かめるだけだった」
昨夜、零が会場で放った隕石。
大勢の目がある中で、口上を伏せても、魔法そのものの色までは隠せなかった。
それを目の前で見たのは、一流の殺し屋だ。
噂に聞く《漆黒の流星》と結びつけるのに、時間はかからなかったのだろう。
零は半歩前へ出て、三人を自分の後ろへ置いた。
「A級国際指名手配犯――カイル・ヴェルナー」
その名を口にすると、今度はカイルの目が細くなる。
「俺の名も知っていたか」
「今朝、こわ――優しい上司が情報を送ってきてな」
言いかけた言葉を、零は何事もなかったように言い直した。
その後ろで、鈴華は思わず苦笑する。
笑顔のまま説教されると怖い――零がそう話していたことを、今朝、鈴華自身が本人へ伝えてしまったばかりだ。
どうやら、さすがの零も少しは学習したらしい。
「お互い、自己紹介の手間は省けたな」
カイルは答えず、零を見据えた。
その間も、アイリスへ視線を向けることはない。
昨夜、命を狙った相手がすぐそこにいるというのに、踏み込んでくる様子もなかった。
「……なるほどな」
零はカイルを見たまま、背後へ声を掛けた。
「白河。先に行ってろ」
「……私たちだけで、ですか?」
鈴華の表情が強張る。
零は短く頷いた。
「アイリス姉を頼む。伯爵と一緒に、地下駐車場まで行ってくれ」
カイルの視線が、一瞬だけ動いた。
だが、逃げ道を塞ごうとはしない。
「こいつは、俺に用があるみたいだしな」
「お前は残るんだろうな」
カイルが低く口を開いた。
零の口元が、わずかに上がる。
「ああ。わざわざ待っててくれたんだろ。付き合ってやるよ」
その返事を聞くと、カイルはゆっくりと窓際へ寄った。
通路の片側が空く。
先へ通すつもりはあるらしい。
それでも零は、三人とカイルの間から動かなかった。
「黒神くん……」
鈴華は、零の横顔を見つめた。
今朝聞いたばかりの情報が頭を過る。
A級国際指名手配犯。
昨夜も、何人もの護衛をすり抜けてアイリスへ迫った相手だ。
そんな男を前に、零は一人で残ろうとしている。
「本当に、一人で大丈夫なんですか?」
零は少しだけ困ったように口元を緩めた。
カイルを視界に捉えたまま、隣へ来た鈴華の頭に、ぽん、と手を置く。
「心配すんなって」
「……っ」
不意の仕草に、鈴華の身体が一瞬だけ固まった。
こんな状況だというのに、その手つきはあまりにも自然だった。
「すぐ追いつくから」
頭に触れた手の感触に、張り詰めていた胸の奥が、ほんの少しだけ緩む。
心配がなくなったわけではない。
けれど、零は無理に笑っているわけでもなかった。
いつもの気の抜けた調子で告げられた言葉を、信じたいと思った。
「……約束ですよ?」
「ああ。約束だ」
短い返事とともに、零の手が離れる。
鈴華はその横顔を見つめ、それから息を吸った。
何かあった時は、零の指示に従う。
自宅でそう約束したからこそ、ここまで一緒に来たのだ。
自分が残れば、零はカイルを相手にしながら、こちらも気に掛けることになる。
今、任されたのはアイリスを守ることだった。
「……分かりました」
鈴華は頷き、表情を引き締めた。
「アイリスさんのことは、任せてください」
その返事に、零も口元を緩める。
鈴華はもう一度だけ彼を見てから、アイリスへ身体を向けた。
「アイリスさん、行きましょう」
「でも……」
アイリスは、零とカイルを見比べた。
昨夜、自分へ伸ばされた手を思い出すだけで、身体が強張る。
その相手の前に零を残していくことに、ためらいはあった。
零は、そんな彼女へいつもの調子で声を掛ける。
「大丈夫だって、アイリス姉。白河と一緒に、先に行っててくれ」
「零くん……」
呼びかけた声に滲む不安を受け止めるように、零は短く頷いた。
「あとで、ちゃんと追いつくから」
言いながらも、零はカイルの動きを見ていた。
自分たちを守るために、二人の間へ立っている。
アイリスは一度だけ胸元へ手を添え、やがて頷いた。
「……必ず、来てくださいね」
「ああ」
その返事を聞いて、アイリスは前を向いた。
レオンも零へ視線を向ける。
残るべきかという迷いを押しとどめ、アイリスのそばへ移動した。
「黒神様。お願いいたします」
「任せてくれ」
零が応じると、レオンは深く頷いた。
「白河様、私の後ろへ。階段まで案内します」
レオンが先に進み、鈴華はアイリスに付き添った。
三人が通路の空いた側へ足を踏み出す。
零もそれに合わせて位置を変え、常にカイルとの間へ身体を置いた。
相手が動けば、すぐに割って入れる距離を保つ。
カイルは、動かなかった。
横を抜けていくアイリスを追おうともせず、ただ零だけを見据えている。
三人がその脇を通り抜けたところで、零は足を止めた。
「行け」
短い声に背中を押され、レオンたちが駆け出す。
鈴華は走りながら、一度だけ振り返った。
昼の光が差し込む広い廊下。
その中央で、一人、カイルと向き合う零の背中が見えた。
先ほど頭へ置かれた手の感触が、まだ残っている。
――約束ですよ。
胸の内で繰り返し、鈴華は前へ向き直った。
三人の姿が、廊下の角へ消えていく。
足音も、次第に遠ざかっていった。
その間、零はカイルから目を離さなかった。
十分に距離が開いたところで、ようやく小さく息を吐く。
広い廊下に残されたのは、二人だけだった。
A級国際指名手配犯、カイル・ヴェルナー。
そしてアストラル・オーダー第一執行部『星刻』特別執行官――『漆黒の流星』。
互いの視線が、静かな廊下の中央で交差する。
零の黄金色の瞳が、すっと細くなった。
王女ではなく、自分を待っていた男。
その狙いが何なのかを探るように、零は目の前の男を見据えていた。




