10話:真相④〜鈴華の決意〜
食事を終えて食器を片づけ、出発の準備に取りかかろうとしたところで――。
「白河」
「はい?」
呼び止められ、鈴華が振り返る。
零はテーブルのそばに立ったまま、彼女を見ていた。
「お前は、もう帰れ」
「……え?」
予想していなかった言葉に、鈴華の碧色の瞳が見開かれる。
零の表情には、からかっている時の笑みはなかった。
「昨日は助かったよ。お前がいなきゃ、あんな簡単にホテルを抜けられなかったしな」
鈴華の幻影魔法だけではない。
服を選ぶ時も、街を歩いている時も、彼女はアイリスを気にかけてくれた。
一人の少女として接し、一緒に笑ってくれた。
そのことには、零も感謝している。
だからといって、この先まで付き合わせていいことにはならなかった。
「けど、ここから先は別だ。相手が分かった以上、これ以上は巻き込めねぇ」
鈴華は零を見つめたまま、黙っていた。
昨夜の襲撃者は、A級国際指名手配犯だった。
さらに、アルディア王国では女王の弟である侯爵の消息も途絶えている。
王位継承と事件の関わりも、まだ分かっていない。
昨夜の襲撃を退けたからといって、危険が去ったわけではなかった。
「さっきの話を聞かせたのだって、白河なら大丈夫だと思ったからだよ」
零は淡々と続ける。
「昨日あんなことに巻き込まれたんだ。相手のことは知っといた方がいいしな」
「…………」
鈴華は、階段で聞いていた通信の内容を思い返した。
自分なら聞いても構わないと言われた時の、零の顔も。
「けど、それと危ないところまで付き合うのは別だろ」
黄金色の瞳が、逸らされることなく鈴華を捉える。
「相手はA級の殺し屋だ。次に来たら、昨日みたいには済まないかもしれねぇ」
零はそこで言葉を切り、少しだけ間を空けた。
「白河は、ここまでだ」
鈴華はすぐには答えなかった。
零が心配してくれていることは分かる。
自分はアストラル・オーダーの執行官ではない。
今回の事件に関わる任務を受けているわけでもなかった。
零との訓練を経て、以前より強くなった。
新しい魔法――《夢幻》も身につけた。
それでも、零と同じようにA級の犯罪者へ立ち向かえるなどとは思っていない。
自分に足りないものがあることは、誰より自分がよく知っていた。
けれど、それを理由に何もせず帰ってしまうのも違うと思った。
「……帰りません」
「白河」
零が眉を寄せる。
鈴華はその目を避けず、はっきりと言葉を続けた。
「心配してくれているのは、分かっています。私が黒神くんと同じように戦えるとも思っていません」
力を試したいわけではない。
危険を知ったうえで、それでも自分にできることを考えたかった。
「それでも、私にできることがあるなら、黒神くんの力になりたいんです」
「…………」
零は何も言わなかった。
鈴華は一度息を整えてから、続ける。
「それに、私も風紀部の一員ですから」
その言葉に、零の眉がぴくりと動いた。
「支部への連絡や、周りの方の避難を手伝うことなら、私にもできます。戦うことだけが、できることではないはずです」
魔法学生風紀機構。
学生によって構成され、街の治安維持や魔法犯罪への初動対応を担う組織だ。
もちろん、国の王位継承やA級国際指名手配犯が絡む事件は、鈴華が普段担っている役目を大きく越えている。
風紀部員だからという理由だけで、その捜査に加われるわけではない。
だが、ここは星峰市だ。
鈴華が普段から活動し、守ろうとしている街でもある。
土地勘に加え、支部との連携や周囲の避難誘導。
もし市街地で何かが起きれば、彼女の経験が役立つ場面はあるだろう。
「無茶をしたいわけではありません」
鈴華は真っ直ぐ零を見つめる。
「自分にできることを、させてください」
少し離れたところで、アイリスも二人の話を聞いていた。
口を挟まず、鈴華の言葉を受け止めたまま、零の返事を待っている。
「…………」
零は黙って考えた。
危険を理解せずについてこようとしているわけではない。
自分に何ができて、何ができないのか。
そのうえで、どう役に立てるのかを考えている。
昨夜の脱出でも、鈴華の幻影魔法には助けられた。
今、彼女が挙げた役割も、ただの強がりとして退けられるものではなかった。
「……分かったよ」
やがて、零が口を開いた。
「黒神くん……」
鈴華の表情が、ぱっと明るくなる。
けれど、零の目はまだ真剣だった。
「ただし、約束しろ」
その声に、鈴華も背筋を伸ばす。
「まず、自分の身が先だ。何かあったら俺の指示に従え。下がれって言ったら、迷わず下がれよ」
「はい」
鈴華は零の目を見て頷いた。
言葉だけで済ませてはいけない約束だと、分かっていた。
「それが守れないなら、連れてはいけねぇ。いいな?」
「分かりました。約束します」
迷いのない返事を受け、零も短く頷く。
「なら、いい」
ようやく表情を緩め、後頭部を掻いた。
そして、誰に聞かせるでもなく呟く。
「ったく……強情というか、頑固というか」
「何か言いました?」
鈴華がすかさず顔を上げた。
小声でも、すぐ目の前にいれば聞こえる。
「なんでもねぇよ」
「……そうですか?」
零が素知らぬ顔で返すと、鈴華は確かめるようにその顔を覗き込んだ。
いつもの調子へ戻った二人を見て、アイリスもようやく微笑んだ。
-----
出発の支度を再開しようとして、鈴華は改めて自分の格好を見下ろした。
零から借りた大きめのTシャツにスウェットパンツ。
部屋で休むには楽だったが、このままホテルへ向かうわけにはいかない。
「どうかしましたか?」
「いえ……何を着ていこうかと思って」
アイリスに尋ねられ、鈴華は困ったように笑った。
二階には制服を置いてある。
ただ、一晩中着ていたシャツは、できれば洗ってから着直したかった。
昨夜買ったのは、アイリスの着替え一式だけだ。
その服は、これから彼女自身が着ることになる。
鈴華の分まで替えがあるわけではなかった。
「俺のでよけりゃ、貸すぞ」
「黒神くんの服ですか?」
零はあっさりと頷いた。
「他にねぇしな」
「それは、そうですけど……」
鈴華は言葉を濁す。
今だって零の服を借りている。
けれど、寝るために部屋着を借りることと、その服で外を歩くこととでは、少し違う気がした。
そんなためらいを見て、零の口元に悪戯っぽい笑みが浮かぶ。
「なんなら、そのまま普段着にするか?」
「しません」
即答だった。
鈴華の真面目な顔を見て、零はさらに面白がる。
「遠慮すんなって」
「遠慮ではありません。ちゃんと洗ってお返ししますから」
鈴華は念を押すように言った。
「そりゃ残念」
「……何が残念なんですか」
呆れた視線を向けると、零は楽しそうに笑った。
先ほどまでの張り詰めた空気は、もう薄れていた。
「ちょっと待ってろ。何か探してくる」
そう言い残し、零が二階へ向かう。
ほどなくして戻ってきた手には、白いTシャツと黒のカーディガンがあった。
「これなら着られるだろ?」
「ありがとうございます」
鈴華は受け取った服を広げてみる。
やはり自分のものより大きいが、これなら少しゆったりした服として着られそうだった。
「でも、下は……」
「あー……ズボンは、でかいか」
零が考えるように目を細める。
紐で調節できるスウェットならともかく、外出用のズボンは腰回りも丈も合いそうになかった。
鈴華は少し考えてから、二階に置いた制服を思い浮かべた。
「スカートは、制服のものを合わせます。それなら大丈夫だと思います」
「ああ。それがいいな」
白いTシャツと黒いカーディガンに、制服のスカート。
シャツを替えるだけでも気分は違うし、組み合わせとしても不自然ではなさそうだった。
「では、着替えてきますね」
「私も、支度をしてきます」
アイリスが鈴華に続く。
零から借りた服を抱え、二人は二階へ上がっていった。
-----
「お待たせしました」
しばらくして、階段の方から声がした。
リビングで待っていた零が顔を上げる。
下りてきた鈴華は、白いTシャツの上に黒いカーディガンを羽織り、制服のスカートを合わせていた。
普段はきっちりと制服を着こなしているだけに、いつもとは随分と印象が違う。
カーディガンの袖は少し長く、鈴華は折り返した袖口を気にしていた。
「……どうでしょう?」
「お、いいな」
零はその姿を眺め、気軽に答えた。
鈴華は袖口から手を離すと、少しためらいがちに顔を上げる。
「その……変では、ありませんか?」
「どこが? 普通に似合ってるぞ」
零は何を気にしているのか分からないという顔で答えた。
今度は、鈴華の反応が遅れた。
自分から感想を求めたのだから、褒められてもおかしくはない。
それでも、何でもないことのように言われると、少しだけ落ち着かなくなる。
「……ありがとうございます」
鈴華は借りた服へ視線を落とし、そっと裾を整えた。
その隣では、アイリスも昨夜買った白いブラウスと、淡いラベンダー色のロングスカートへ着替えていた。
長い金髪も整えられ、寝起きの面影はもうない。
けれど、二人を眺める表情は、先ほどからずっと楽しそうだった。
「……アイリスさん?」
「いえ。何でもありません」
アイリスが微笑んで首を横に振る。
鈴華は不思議そうにしていたが、零が玄関へ向かったため、それ以上は尋ねなかった。
「よし。じゃ、行くか」
「はい」
アイリスも玄関へ向かう。
けれど、扉の前まで来たところで、その足がふと止まった。
ここを出れば、再び向き合わなければならないものが待っている。
母と兄を失った現実も、王位継承への不安も、何一つ消えてはいない。
自分を狙う者がいることも変わらない。
それでも――。
今の自分にできることから、始めればいい。
アイリスは胸元でそっと手を握り、顔を上げた。
「行きましょう」
零は何も言わず、口元を緩める。
玄関の扉を開き、通りへさりげなく目を配ってから、その扉を押さえた。
開かれた戸口の先へ、アイリスが自分の足で一歩を踏み出す。
零と鈴華も、その隣へ並んだ。
三人は零の家を後にし、再びホテルへ向かって歩き出した。




