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漆黒の流星《ブラックスター》  作者: ショウ
第2章:天輝花

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9話:立ち上がる王女

夜の名残を残していた空が、少しずつ青みを増していく。

木々の隙間から差し込む柔らかな光が、静かな公園を照らし始めていた。

零の肩では、鈴華が変わらず穏やかな寝息を立てている。

その反対側では、アイリスが昇り始めた朝日を眺めていた。


「今日は、どこへ行きましょうか?」


昨夜までとは違う、少し弾んだ声だった。

自分で服を選び、三人で同じ鉄板を囲み、遊び、歌った。

王女としてではなく、一人の少女として過ごした時間。

まだ終わらせたくないという思いが、その声から伝わってくる。


「そうだな……」


零は少しだけ考えるように、明るくなっていく空を見上げた。

それから、隣にいるアイリスへ目を向ける。


「その前に、そろそろ戻らないとな。待ってる奴らのところへ」


「…………」


アイリスの笑顔が止まった。

待っている者たちーー

それが誰を指しているのか、聞き返す必要はなかった。

自分の帰りを待っているレオンたち。

そして、その先にある――アルディア王国。

アイリスは膝の上へ視線を落とし、重ねた両手をそっと握った。


昨夜は楽しかった。

久しぶりに王女であることを忘れられた。

けれど、いつまでもこの時間の中へ留まり続けることはできない。


それくらい、アイリス自身が一番よく分かっていた。


「……そう、ですよね」


寂しさを含んだ声が、朝の空気へ溶けていく。

零は何も言わなかった。

急かすことも、帰れと命じることもしない。

肩で眠る鈴華を起こさないよう身体を動かさず、ただ静かに朝日を眺めていた。

しばらくの間、三人の間を朝の風だけが通り抜けていく。


「零くん」


やがて、アイリスが口を開いた。


「ん?」


零が顔だけを向ける。

アイリスは膝の上で重ねた手を見つめながら、僅かに言いよどんだ。


「一つ、聞いてもいいですか?」


「いいぞ」


気の抜けた返事だった。

それでも、零の黄金色の瞳は静かにアイリスへ向けられている。

アイリスは一度だけ唇を結び、意を決したように顔を上げた。


「零くんは……どうやって、もう一度前を向けたのですか?」


「どういう意味だ?」


「蕾さんが……いなくなったあとで」


「…………」


今度は、零が黙る番だった。

黄金色の瞳が僅かに細くなる。

公園を抜けていく風が零の前髪を揺らした。


「……知ってたのか」


「はい。あとから、知りました」


アイリスは静かに頷いた。

三年前、ロンドンで出会った少女――神桜蕾。

明るくて、優しくて、誘拐された自分を助けるため、危険を顧みずに駆けつけてくれた。

そして何より、零にとってかけがえのない人だった。


「そっか」


零は朝日から目を逸らし、僅かに視線を落とした。

肩では、鈴華が何も知らずに眠っている。

その穏やかな寝息を聞きながら、零は蕾を失った頃の記憶を辿った。


「最初は無理だったよ。何もかも、どうでもよくなってた」


いつもの気の抜けた話し方とは違う、静かな声だった。

蕾がいない。

ただそれだけで、世界から色が消えてしまったように思えた。

自分がどうなろうが、この先に何が待っていようが、どうでもよかった。


「…………」


アイリスは何も言わず、零の言葉へ耳を傾けている。

零は過ぎ去った日々を遠くに見るように、目を細めた。


「今だって、前を向けてるかって聞かれたら、よく分かんねぇ」


「今でも……ですか?」


「ああ。忘れたわけじゃねぇし、忘れるつもりもない」


零は迷いなく答えた。


「ただ、立ち止まるのをやめただけだ」


乗り越えることと、忘れることは違う。

失った事実も、その痛みも、消えたわけではない。

今も胸の奥へ抱えたまま、零はここにいる。


「それでも、零くんはここにいるのですね」


「まあな」


零は短く答えたあと、朝焼けの空へ視線を戻した。


「一人だったら、たぶん無理だったけど」


「……?」


アイリスが僅かに首を傾げる。

零は話し慣れないことを口にする気恥ずかしさを隠すように、空いている手で頬を掻いた。


「自分にできることをやればいい。一人で何でも抱え込むなって、教えられたんだよ」


失ったものが戻ってくるわけではない。

悲しみが消えるわけでもない。

それでも、止まったままでは何も変わらない。


「あとは、いろんな奴に引っ張られてさ。気づいたら、ここまで来てた」


「零くんは、強いのですね……」


アイリスが零の横顔を見つめる。

三年前も、昨夜も、零は強かった。

どれほど危険な状況でも迷わずに動き、アイリスを守ってくれた。

けれど、零は本気で分からないような顔をした。


「だから、違うって」


「え……?」


「俺一人だったら、今もどっかで止まったままだよ」


零はそう言って、肩で眠る鈴華へ一度だけ目を落とした。


「助けられたんだ。いろんな奴にな」


「…………」


アイリスの琥珀色の瞳が零と鈴華の間を静かに往復する。

鈴華も昨夜、危険を承知でついてきてくれた。

服を選び、食事をし、何気ない言葉を交わしながら、王女ではない自分へ寄り添ってくれた。

零が言う「助けられた」という言葉が、少しだけ分かった気がした。


「私は……」


アイリスは膝の上で両手を握り直した。


「お母様やお兄様の代わりにならなければと、思い込んでいたのかもしれません」


昨夜、胸の内へ押し込めていた思いをすべて口にした。

そのあとでようやく、自分が何を恐れていたのかが見え始めていた。


「お二人と同じようにできなければ、国を背負う資格はない。ずっと、そう思っていました」


琥珀色の瞳が不安そうに伏せられる。


「でも……私には、できると思えないのです」


「そりゃ無理だろ」


あまりにも迷いのない返事に、アイリスが顔を上げた。


「え……?」


「アイリス姉は、母親でも兄貴でもないんだからさ」


零は責めるでもなく、ごく当たり前のことを口にするように続ける。


「違う人間なのに、同じになれるわけねぇだろ」


「…………」


アイリスの瞳が僅かに揺れる。

零はそんな彼女を見つめ、少しだけ口元を緩めた。


「でも、それでいいんじゃねぇの?」


「それで……いいのでしょうか」


「ああ。同じになる必要なんてないだろ」


零は迷うことなく頷いた。


「アイリス姉は、アイリス姉にできることをやればいい」


それは、女王になれという命令ではない。

王位を捨てろという答えでもない。

これから何を選び、どんな道を歩くのか。

その答えは、アイリス自身が決めなければならない。


「でも、私一人で国を背負うなんて……」


「だから、なんで一人でやる前提なんだよ」


「……え?」


零の呆れを含んだ言葉に、アイリスが目を瞬かせる。


「分からないことは、分かる奴に聞けばいい。できないことは、できる奴に頼ればいいだろ」


零は朝日に目を細めながら、何でもないことのように続けた。


「そいつら、何のためにアイリス姉のそばにいるんだよ」


その言葉を受け、アイリスの脳裏へ一人の人物が浮かぶ。


「レオン伯爵だっているだろ」


「レオン……」


「昨夜だって、全部分かったうえで俺たちを見逃した」


暗殺未遂が起きた直後だった。

それでもレオンは、入れ替わった二人の姿からすべてを察し、最後には零へアイリスを託した。


「あの人、アイリス姉のためなら結構無茶するぞ」


「……はい」


アイリスの表情へ、ほんの少しだけ柔らかさが戻る。

幼い頃から、いつもそばにいてくれた人。

母と兄を失ったあとも、自分を支え続けてくれている人。

思い返せば、自分は最初から一人ではなかった。


「白河だって、危ないと分かっててついてきたんだ」


零は肩で眠る鈴華を、横目で示した。


「味方なら、ちゃんといるだろ」


「…………」


アイリスは眠っている鈴華を見つめた。

長い黒髪が零の肩へ流れ、朝の光を柔らかく弾いている。


「一人じゃないのに、一人で全部背負おうとすんなよ」


ぶっきらぼうな言葉。

けれど、その声には確かな温かさがあった。

母のような女王になれるかは分からない。

兄の代わりになれるとも思わない。

王国へ戻った先に何が待っているのか、今も怖い。

それでも、自分にできることを一つずつ選ぶことならできるかもしれない。


「……私にも、できるでしょうか」


アイリスが尋ねる。

零は一瞬だけ目を丸くしたあと、いつものように迷いなく笑った。


「できるだろ」


短い言葉だった。

けれど、その声には根拠のない励ましではなく、アイリスへの信頼があった。


「少なくとも、無理だって決めるには早すぎる」


「…………」


アイリスの琥珀色の瞳が、大きく揺れる。

零は肩で眠る鈴華へ一度だけ目を落とし、再びアイリスを見た。


「やってみて、どうしても駄目なら誰かに頼れ。俺も、そうやってここまで来たんだ」


昇ったばかりの朝日が、二人を柔らかく照らす。


「だから今度は、アイリス姉が周りを頼ればいい」


「…………!」


零はそれ以上、何も言わなかった。

アイリスが何を選ぶのかを、零が決めることはできない。

これから何をして、どんな自分になりたいのか。

その答えを選べるのは――アイリス自身だけだった。


「…………」


アイリスはゆっくりと朝日へ目を向けた。

東の空から広がる光が夜の名残を追い払うように街を照らしている。

レオンのもとへ戻れば、まだ怖いことがいくつも待っている。

王国の未来も、自分が進むべき道も、今は何一つ定まっていない。

それでも、立ち止まったままではいられない。

今すぐすべてを決める必要はなくても、まず戻ることならできる。


「……零くん」


「ん?」


アイリスは膝の上で握っていた手を解き、胸の前へそっと添えた。


「レオンのもとへ、戻りましょう」


その声には、まだ僅かな迷いが残っていた。

けれど、戻ることを恐れて立ち止まっていた少女の声ではない。

自分の意志で戻ることを選んだ、アイリス自身の声だった。


「おう」


零は満足そうに口元を緩める。

その瞬間――。


「……ん……」


肩から、小さな声が聞こえた。

二人が同時にそちらを見る。


 鈴華が零の肩へ頭を預けたまま、零の袖を掴み僅かに身じろぎしていた。


「……黒神くん……」


「ん?」


突然名前を呼ばれ、零が肩へ視線を落とす。

けれど、鈴華の瞼は閉じたままだった。

どうやら寝言らしい。


「……それは、三つ目です……」


零の表情が固まった。


「何の夢見てんだよ……」


思い当たる節なら、いくらでもある。

昨夜のお好み焼き屋でも、食事を終えた直後に当然のような顔でデザートのメニューを開いていた。

もしかすると、夢の中でまで鈴華に止められているのかもしれない。


「ふふっ……」


隣から、小さな笑い声が聞こえた。

零が横目を向くと、アイリスが口元へ手を添えている。


「笑うとこか?」


「ごめんなさい。でも……」


アイリスは楽しそうに笑いながら、零の肩で眠る鈴華を見つめた。


「鈴華さん、夢の中でも零くんのお世話をしているのですね」


「別に世話されてねぇよ」


零が不満そうに返す。

すると――。


「……甘いものは……別腹ではありません……」


「白河?」


追い打ちまで飛んできた。

零は、じっとりと肩の鈴華を見る。

本人はそんなことなど知らず、気持ちよさそうに眠り続けていた。


「……起きたら覚えとけよ」


そう呟きながらも、零は鈴華を起こそうとはしなかった。


「ふふっ」


そんな二人を見て、アイリスがもう一度笑う。

昨夜までのように、誰かを安心させるための笑顔ではない。

これから待つものを受け止め、自分の足で戻ると決めた少女の笑顔だった。

そして、長い夜を越えた三人を包み込むように――。

朝の光が公園いっぱいに降り注いでいた。


挿絵(By みてみん)


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