8話:王女の休息②〜美人?〜
途端にすることがなくなった零は、再び壁へ背中を預けた。
鈴華もアイリスが出てくるのを待っていたが、ふと周囲に並んでいる服へ目を向ける。
先ほどまでアイリスの服を選んでいたからだろうか。
自分なら、どの服を選ぶだろう。
そして――隣にいる零は、どんな服が自分に似合うと思うのだろう。
何気なく浮かんだ疑問。
けれど、一度意識してしまうと、急に気になり始めた。
「その……黒神くん」
「ん?」
零が気の抜けた返事をしながら、鈴華へ顔を向ける。
鈴華は近くに掛けられた服へ視線を向けたまま、少しだけ言いよどんだ。
「黒神くんは、私にどんな服を着てほしいと思いますか?」
「急になんだよ」
「アイリスさんの服を選んでいたら、少し気になっただけです」
そう答えながらも、鈴華は零の反応を窺うように視線を上げた。
その頬には、本人も気づかないほど微かな赤みが差している。
「そうだな……」
店内へ視線を巡らせていた零の目が、奥に立つ一体のマネキンで止まった。
身につけているのは、細いストラップだけで身体へ留める黒のホルターネックトップス。
胸元は大きく切り込まれ、背中も腰近くまで大胆に開いている。正面から見ても後ろから見ても、本当に服を着ているのかと疑いたくなるほど布面積が少なかった。
普段からミニスカートを穿いている鈴華でも、さすがにこれは選ばないだろう。
これを勧めたら、いったいどんな顔をするのか。
少しくらい意地悪をしてやろうと思ったのか、零の口元へ悪戯っぽい笑みが浮かぶ。
「俺に選ばせると、あとで後悔するかもしれないぞ?」
「…………」
明らかに、こちらをおちょくっている。
鈴華は僅かに目を細めた。
それでも引くことはせず、逃げ道を塞ぐように零の目をまっすぐ見返す。
「黒神くんが、きちんと私に似合うものを選んでくださるなら……着てみます」
「……マジで?」
零の笑みが止まった。
「本当です。ですから……ちゃんと選んでくださいね」
言い終えた鈴華が、少し恥ずかしそうに視線を逸らす。
冗談半分でからかっただけなのに、本当に着ると言われるとは思っていなかったらしい。
零は困ったように頭を掻いた。
「急に難易度上がったな……」
「ご自分で上げたのでしょう?」
「そうだけどさ」
まさか、本当に着ると返されるとは思っていなかった。
しかも鈴華が言ったのは、きちんと自分に似合うものなら、という条件つきだ。
からかうためだけに先ほどの服を選べば、逃げたのは零の方になる。
零は布面積の少ないトップスをもう一度だけ見て、小さく息を吐いた。
こうなってしまうと、下手なものは選べない。
壁に預けていた身体を起こし、改めて店内を見回す。
ブラウス、ニット、スカート、ワンピース。
普段、ファッションなどほとんど気にしない。流行にもブランドにも詳しくなかった。
それでも、鈴華にあそこまで真っすぐ応じられた以上、適当に選ぶのは違う気がした。
「…………」
何着か真剣に見比べたあと、零の視線が壁際に飾られた一着で止まる。
ハイネックの襟がアクセントになった、落ち着いたローズピンクのロングニット。
身頃には細い縦のラインが入り、柔らかな色合いながらも、甘くなりすぎない上品なデザインだった。
服に詳しいわけではない。
それでも、それを着た鈴華の姿は不思議なくらい簡単に思い浮かんだ。
落ち着いたピンク色は、鈴華の長い黒髪にもよく映えそうだった。
「白河なら、これじゃね?」
「こちらのニットですか?」
鈴華も零の視線を追う。
零はニットと鈴華を見比べるように一度だけ視線を動かし、何でもないことのように続けた。
「白河は美人だし、変に飾るより、こういう清楚で落ち着いた服の方が似合うだろ」
「……美人?」
鈴華の思考が、その一言で止まった。
意味を理解した瞬間、頬が一気に熱を帯びていく。
「…………」
今、何と言ったのだろう。
聞き間違いではない。
零の口元からは、先ほどまでの悪戯っぽい笑みも消えている。
からかう様子などなく、ただ当たり前のことを口にしただけのような顔をしていた。
確かに零は、自分のことを――美人だと言った。
「お待たせしました」
「っ!」
その時、試着室のカーテンが開いた。
鈴華の思考が強制的に中断され、二人は同時にそちらへ振り返った。
そこには、ドレスから私服へ着替えたアイリスが立っていた。
白い長袖のブラウスと、淡いラベンダー色のロングスカート。
腰に巻かれた細いベルトが、柔らかな色合いの装いをほどよく引き締めている。
金色の長髪と琥珀色の瞳は、そのまま。
それでも華やかなドレスを脱いだだけで、その印象は大きく変わっていた。
王族として人前に立つ第一王女ではない。
どこにでもいそうな、少し育ちのよい一人の少女だった。
「どう……でしょうか?」
アイリスが、どこか落ち着かない様子でスカートへ手を添える。
「…………」
「鈴華さん?」
「えっ!? あ、はい!」
名前を呼ばれ、鈴華は我に返った。
慌ててアイリスへ視線を戻す。
「とてもよくお似合いです、アイリスさん」
「本当ですか?」
「はい。やはり、その組み合わせにして正解でした」
鈴華は今度こそアイリスの装いをしっかりと見つめ、大きく頷いた。
その言葉を聞き、アイリスも嬉しそうに自分の服を見下ろす。
「いいじゃん」
零も壁から身体を起こした。
「よく似合ってるぞ、アイリス姉」
「ありがとうございます、零くん」
アイリスの表情が、柔らかく綻んだ。
王宮で用意された服ではない。
誰かから着るように言われた服でもない。
自分の目で見て、鈴華と一緒に悩んで、自分で着たいと思って選んだ服。
ただそれだけのことが、アイリスには新鮮で、嬉しかった。
「…………」
その隣で、鈴華はまだ熱の残る頬へそっと手を添えた。
(……美人)
先ほどの零の言葉が、なぜか頭から離れてくれない。
本人の様子を見る限り、深い意味などなかったのだろう。
服を選ぶために、思ったことをそのまま口にしただけ。
それくらい、鈴華にも分かっている。
なのに――。
(どうして私、こんなに気にしているのでしょう……)
「白河?」
「っ!?」
突然名前を呼ばれ、鈴華の肩が跳ねる。
「な、何ですか?」
「いや。さっきから、ぼーっとしてるけど」
零が不思議そうに首を傾げる。
「なんでもありません」
「……ならいいけど」
妙に強く返され、零は少しだけ怪訝そうな顔をした。
そんな二人を見て、アイリスが小さく笑う。
「ふふっ」
「アイリスさん?」
「いえ。何でもありません」
アイリスは楽しそうに微笑んだまま、首を横へ振った。
鈴華は不思議そうにしていたが、それ以上は尋ねなかった。
「これなら、外を歩いても問題なさそうだな」
零は改めてアイリスを見る。
金髪の外国人など、今時それほど珍しくもない。
華やかなドレス姿ならともかく、私服へ着替えて街の人混みへ紛れてしまえば、一目でアルディア王国の第一王女だと気づく者もそうはいないだろう。
その後、零が会計を済ませ、脱いだドレスは店員に頼んで大きな袋へ収めてもらった。
「よし」
袋を片手に持った零が満足そうに頷く。
「じゃ、次行こうぜ」
「次は、どちらへ?」
アイリスが尋ねる。
「飯」
「…………」
その一言を聞いた鈴華が、零へじっとりとした視線を向けた。
「黒神くん……まだ食べるつもりですか?」
「違うって」
零は即座に否定すると、隣にいるアイリスを親指で示した。
「俺じゃなくて、アイリス姉だよ」
「私、ですか?」
突然話を振られ、アイリスが自分を指差す。
「ああ。パーティーじゃ、出てきてすぐあの騒ぎだっただろ。ろくに食ってないんじゃねぇの?」
「それは……そうですね」
アイリスは会場で起きたことを思い返すように、僅かに視線を下げた。
姿を現して間もなく停電と襲撃が起き、その後も落ち着いて食事を取れるような状況ではなかった。
「それにさ」
零は片手をポケットへ入れ、店の外に広がる夜の街へ目を向ける。
「日本を案内するって約束したのに、ホテルの料理だけで終わったら、案内したことにならねぇだろ?」
「…………」
アイリスが目を瞬かせる。
やがて、その表情が嬉しそうに綻んだ。
「そうですね。では、せっかくですから、日本らしいものを食べてみたいです」
「おう。それでこそだ」
零は満足そうに頷いた。
「何が食いたい?」
「私が決めてもよろしいのですか?」
「アイリス姉が食うものを、俺が勝手に決めてどうすんだよ」
あまりにも当然のように言われ、アイリスは一度目を瞬かせた。
それから店の外へ目を向け、楽しそうに考え始める。
その横で、鈴華は零の横顔を見つめていた。
最初は単に、自分がまだ食べ足りないだけなのかと思った。
けれど、どうやら違ったらしい。
アイリスが食事を取れていないことにも、きちんと気づいていた。
「……黒神くんらしいですね」
「なんだよ、それ」
零が鈴華へ顔を向ける。
「褒めているんです」
鈴華は小さく笑い、考え込んでいるアイリスの隣へ並んだ。
「私も一緒に探します。せっかくなら、アイリスさんに日本らしいものを楽しんでいただきましょう」
「ありがとうございます、鈴華さん」
三人は並んで、店の出口へ向かって歩き出す。
ホテルを出たばかりの頃には、まだどこか遠慮がちだったアイリス。
けれど、その足取りは――少しずつ軽くなり始めていた。




