第七章 「しまなみの途中で」
第七章
「しまなみの途中で」
翌日。
空は少し曇っていた。
春の瀬戸内は、 晴れていてもどこか霞んで見える。
湊は港近くのベンチに座り、 缶コーヒーを握っていた。
待ち合わせの時間より、 十五分早い。
昔から、 こういう時だけ妙に早く着く。
真白との“仕事の話”。
その言葉が、 昨夜から頭に残っていた。
戻る気はあるのか。
夢を捨てたのか。
東京から逃げたのか。
たぶん今日、 そういう話になる。
フェリーが岸に寄る。
ロープの音。
カモメの声。
東京では聞かなかった種類の静けさだった。
「朝倉さん」
振り返る。
真白が歩いてくる。
今日はスーツじゃなかった。
白いシャツに、 薄いグレーのカーディガン。
少しだけ、 この島の空気に馴染んで見えた。
「待ちました?」
「いや全然」
嘘だった。
でも、 待っていた時間は嫌じゃなかった。
真白は隣に座る。
「観光協会の人に、 しまなみ海道すすめられました」
「まぁ定番やし」
「朝倉さん、 昔ここ走ったことあります?」
「高校ん時、自転車で少し」
「青春ですね」
「途中で足つった記憶しかない」
真白が笑う。
珍しく、 声を出して笑った。
その笑顔を見て、 湊は少し驚く。
会社では、 ここまで気を抜いた顔を見たことがなかった。
「仕事の話って?」
湊が聞く。
真白は少し海を見る。
それから、 まっすぐ言った。
「戻ってきませんか」
やっぱり、 その話だった。
「今、 朝倉さん抜けた穴、 結構大きいんです」
「俺の代わりなんかいくらでもおるやろ」
「いますよ」
即答だった。
でも真白は続ける。
「朝倉さん、数字より先に“人の顔”見るじゃないですか」
「……」
「ああいう企画、今ほとんど通らないんです」
「でも、 “同じ仕事する人”と、 “同じ景色見れる人”は違うので」
その言葉に、 湊は黙る。
真白は、 昔からこういう言い方をする。
感情じゃなく、 事実みたいに大事なことを言う。
「この前の企画、 通りました」
「……え?」
「朝倉さんが最後まで粘ってたやつ」
頭の奥が、 少し揺れる。
地方の風景をテーマにした短編映像企画。
数字にならないと、 何度も却下されかけた。
でも湊は、 最後まで諦めきれなかった。
「配信決まりました」
真白が言う。
「だから、 戻ってきたら、 続きできます」喉の奥が、少し熱くなる。
あれだけ通らなかった企画だった。
「地方じゃ数字が取れない」
何度も言われた。
それでも、自分は諦めきれなかった。
海風が吹く。
フェリーの白波が揺れる。
夢だった。
確かに。
やりたかったことだ。
なのに。
胸が、 前みたいに高鳴らない。
真白は、 そんな湊を見ていた。
「……怖いですか」
「え?」
「戻るの」
湊は苦笑する。
「情けないけどな」
「別に」
真白は静かだった。
「壊れた場所に戻るのって、 普通怖いですよ」
その言葉に、 少し救われる。
真白だけは、 東京での自分を知っている。
笑えなくなっていったことも。
終電後、 編集室でぼーっとしていたことも。
“好き”だったはずの映像が、 ただの作業になっていたことも。
真白は言う。
「でも」
少し間を置く。
「朝倉さん、 ここでもまだ途中ですよね」
昨夜、 レモナにも同じようなことを言われた。
途中。
どっちにも、 完全には進めていない。
真白は立ち上がる。
「急がなくていいです」
「……うん」
「ただ、 まだ終わってないなら、 終わらせ方くらい選んでください」
「……戻ってきてくれたら、助かります」
真白はそう言ってから、 少しだけ視線を逸らした。 その言葉だけ残して、 真白は歩き出す。
風が吹く。
その背中を見送りながら、 湊は深く息を吐いた。
ポケットのスマホが震える。
レモナからだった。
『今日ヒマ?』
短いメッセージ。
その下に、 レモンのスタンプ。
湊は少し笑う。
『まぁ』
すぐ返信が来る。
『じゃあ夕方、灯台』
灯台。
高校時代、 何度か二人で行った場所だった。
海が一番綺麗に見える場所。 告白スポットとして有名で、 でも二人は結局、何も言えなかった場所。
あの日、言えなかった言葉が、 まだあの灯台に残っている気がした。
春の風が吹く。
どこへ行っても、 逃げきれない気がした。
夢からも。 過去からも。 そして、この恋からも。 第八章へ続く。




