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第六章 「閉店後のレモンケーキ」

第六章

「閉店後のレモンケーキ」

夕方になると、 店は少しだけ忙しくなった。

観光客のカップル。 サイクリング途中の大学生。 常連の老夫婦。

『nagi』は広くない。

だから人が数組入るだけで、 店内はすぐに満ちる。

湊は最初、 窓際でぼんやりしていただけだった。

でも、 レモナが一人で動き回っているのを見て、 なんとなく立ち上がる。

「何か手伝う?」

レモナは驚いた顔をした。

「え、いいの?」

「座ってるの落ち着かん」

「じゃあ皿下げて」

「はい店長」

「時給はレモンクッキーです」

「ブラック企業や」

そんなやり取りをしながら、 湊は皿を運ぶ。

昔、 文化祭で一緒に喫茶店をやったことを思い出した。

レモナが注文を取り、 湊が運ぶ。

その時も、 周りから妙に 「夫婦感ある」 と言われていた。

結局、 付き合わなかったけれど。

カウンター越しに、 レモナが笑う。

「意外とできるじゃん」

「元映像業界やぞ。雑用能力高い」

「悲しいスキル紹介」

店の空気は柔らかかった。

真白も、 途中からノートパソコンを閉じ、 静かにその光景を見ていた。

湊が、 自然に笑っている。

東京では、 あまり見なかった顔だった。

仕事中の湊は、 いつもどこか張り詰めていた。                  気づけば、 朝まで編集室に残っている人だった。

真白が帰る頃も、

まだモニターの前に座っていたことがある。真白は、あの頃の湊を思い出す。

編集室の白い光の中、

何本目かわからない缶コーヒーを机に置いていた背中を。

閉店後。

店の照明が少し落ちる。

外は夕暮れだった。

海がオレンジ色に染まっている。

「終わったぁ……」

レモナがカウンターに突っ伏す。

「お疲れ」

湊が水を渡す。

「ありがとう、バイト君」

「まだ働かされるん?」

「閉店後ミーティングあるんで」

「嫌な響き」

真白が少し笑う。

その笑顔を見て、 レモナが言う。

「高城さんって、 もっと怖い人かと思ってました」

「よく言われます」

「仕事めっちゃできそう感ある」

「実際できます」

真白は真顔で言う。

湊が吹き出した。

「そこ否定せんのや」

「謙遜しても意味ないので」

レモナも笑う。

少しずつ、 三人の空気が馴染み始めていた。

でも。

時々、 ふっと沈黙が落ちる。

その時だけ、 見えない何かが横たわる。

レモナは、 二人の会話を見て思う。

知らない時間だ。

東京で過ごした日々。

自分の知らない湊。

深夜の仕事。 コンビニ。 編集室。

そこに自分はいない。

当然なのに、 少しだけ胸がざわつく。

真白が席を立つ。

「そろそろホテル戻ります」

「送ろうか?」

湊が言うと、 真白は首を振った。

「大丈夫です。近いので」

そして。

少しだけ迷う顔をしてから、 湊を見る。

「明日、 少し時間あります?」

「え?」

「仕事の話、 したいです」

空気が変わる。

レモナは、 無意識にグラスを拭く手を止めていた。

湊も気づく。

「……うん」

真白は小さく頷く。

「じゃあまた明日」

店のベルが鳴る。

からん。

静かに扉が閉まる。

夕暮れの光だけが残った。

しばらく、 二人とも喋らなかった。

外では、 フェリーの最終便が港へ入ってくる。

レモナがぽつりと言う。

「綺麗な人だね」

湊は少し困る。

「まぁ……仕事できるし」

「そういう意味じゃなくて」

レモナは笑う。

でも、 少しだけ疲れた笑顔だった。

湊は、 何か言わなきゃと思う。

でも、 適切な言葉が見つからない。

昔からそうだ。

大事な時ほど、 言葉が遅い。

レモナは冷蔵ケースを閉める。

「ねぇ湊」

「ん?」

「東京、戻るの?」

まっすぐな声だった。

逃げ道がないくらい、 静かな声。

湊は海を見る。

夕焼けが揺れている。

「……わからん」

夢を諦めたくない気持ちはある。

でも、 東京へ戻る想像をすると、 胸が重くなる。

この島に残る未来も、 まだ現実感がない。

どっちにも、 ちゃんと立てていない。

レモナは、 そんな湊を見つめる。

それから、 少しだけ笑った。

「湊ってさ」

「ん?」

「昔から、 “途中”の顔してる」

その言葉が、 妙に胸に残った。

閉店後の店内には、焼きたてのレモンケーキの匂いが、まだ少し残っていた。              第七章へ続く。

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