五十八章 「春は、少しレモンの味がする」
第五十八章
「春は、少しレモンの味がする」
映像は終盤へ向かっていた。
会場は静かだった。
誰も話さない。
誰も動かない。
ただスクリーンを見つめている。
春の海。
港。
坂道。
レモン畑。
島の日常。
映像は派手ではない。
大きな事件もない。
けれど。
そこには確かに人生が映っていた。
港で笑う人。
卒業の日のフェリー。
閉店後の商店街。
レモン畑の朝。
春を待つ海。
帰りたくなったこと。
帰れなくなったこと。
それでも前を向こうとしたこと。
そんな時間が映っていた。
スクリーンには夕暮れの港が映る。
オレンジ色の海。
ゆっくり進むフェリー。
風に揺れる旗。
そして。
湊のナレーションが流れる。
「昔は、この島には何もないと思っていた。」
会場は静まり返る。
「早く出て行きたかった。」
東京の映像。
ビル群。
電車。
夜の街。
若い頃の湊が撮った映像。
夢を追っていた頃の景色。
「東京へ行けば、何かになれると思っていた。」
映像が切り替わる。
島の海。
レモン畑。
商店街。
春の風。
「でも。」
短い沈黙。
「離れてみて初めて気づいた。」
スクリーンに映る。
島の朝。
漁港で働く人。
店を開ける人。
畑へ向かう人。
学校へ行く子どもたち。
当たり前の景色。
だけど。
当たり前ではない景色。
「ここには何もないんじゃなかった。」
客席の誰かが涙を拭う。
「気づいていなかっただけだった。」
レモナはじっと映像を見ていた。
隣には航平。
前には島の人たち。
後ろには真白。
みんな同じ映像を見ている。
同じ春を見ている。
そして。
同じ時間を生きている。
スクリーンに『nagi』が映る。
朝の店内。
窓から見える海。
コーヒーを淹れるレモナ。
笑うお客さん。
夕方の光。
レモナは少しだけ目を伏せる。
映像の中の自分は。
知らないうちに。
誰かの大切な景色になっていた。
そのことが少し嬉しかった。
少し照れ臭かった。
湊の声が続く。
「人は変わる。」
春の海。
「島も変わる。」
閉まった店。
減ったフェリー。
空き家。
「それでも。」
レモン畑。
港。
笑う人たち。
「変わらず残るものもある。」
会場の誰もが聞いていた。
静かに。
真っ直ぐに。
そして。
映像は最後の場面へ向かう。
春の朝。
港にフェリーが入る。
桜が風に舞う。
光が海に揺れる。
そこは、湊が帰ってきた港だった。
あの日と同じ場所。
映っている景色は少し違う。
あの日は曖昧だった。
今日は鮮やかだった。
春の光が満ちていた。
そして。
最後のナレーションが流れる。
「帰る場所は。」
少し間が空く。
会場が静まり返る。
「最初からそこにあるんじゃない。」
海が映る。
「誰かと過ごした時間が。」
レモン畑。
「誰かを想った記憶が。」
港。
「少しずつ作っていくんだと思う。」
レモナの目に涙が浮かぶ。
航平も黙っている。
真白は静かに笑った。
そして。
最後に。
春の海が映る。
白い光。
潮風。
穏やかな瀬戸内。
湊の声。
少しだけ笑った声。
「だから今年も。」
桜が舞う。
「春は来る。」
海が光る。
「少しレモンの味を連れて。」
その瞬間。
一年前の言葉が帰ってきた。
『春は、少しレモンの味がする。』
それは、恋の始まりだった言葉。
そして。
今。
物語の終わりへ続く言葉。
映像がゆっくり暗転する。
黒いスクリーン。
静寂。
誰も動かない。
誰も拍手しない。
数秒。
長い長い数秒。
その静寂の中で。
みんなそれぞれの春を思い出していた。
そして。
一人が拍手した。
小さな拍手だった。
やがて。
もう一人。
また一人。
拍手は広がる。
会場いっぱいに。
春の波のように。
優しく。
温かく。
鳴り響いていった。 第五十九章へ続く。




