第五十四章 「おかえり」
第五十四章
「おかえり」
フェリーが港へ近づいていく。
春霞の向こうに、 島の輪郭が少しずつ浮かび上がる。
レモン畑。
白い灯台。
港の待合所。
見慣れた景色だった。
それでも。
湊は少し緊張していた。
一年前。
ここへ帰ってきた時。
自分は何も持っていなかった。
仕事を辞めた。
夢も見失った。
未来もわからなかった。
でも今は違う。
迷いはある。
不安もある。
けれど。
前へ進みながら帰ってこられた。
それだけで十分だった。
フェリーが接岸する。
汽笛が鳴る。
ロープが投げられる。
係員の声が響く。
春の港の音。
乗客たちが降り始める。
観光客。
帰省客。
仕事の人。
湊もキャリーケースを引いて歩き出す。
タラップを降りる。
桟橋。
そして。
顔を上げる。
思わず足が止まった。
港に人がいた。
想像していたより、ずっと多かった。
「あ……」
航平。
商店街のおばちゃん。
漁師のおっちゃん。
高校生たち。
みんながそこにいた。
「なんでおるん」
湊が言う。
航平が笑う。
「上映会の主役じゃけぇ」
「主役ちゃう」
「細かい」
相変わらずだった。
高校生たちが手を振る。
「湊さん!」
「上映会楽しみです!」
「絶対行きます!」
笑い声が広がる。
その時。
人の輪が少しだけ開いた。
湊の視線が自然とそちらへ向く。
そして。
一人が前へ出てくる。
レモナだった。
春色のカーディガン。
風に揺れる髪。
少しだけ日に焼けた頬。
二人の視線が合う。
一年前の春の日。
偶然バーガーショップで再会した時とは違う。
あの頃は。
何を話せばいいかわからなかった。
でも今は。
沈黙さえ自然だった。
レモナが少し笑う。
何か言おうとして、
でも言葉を探すように一度だけ息をついた。
そして。
「おかえり」
たった一言。
その言葉を聞いた瞬間。
湊は胸の奥が熱くなった。
「……ただいま」
自然に返事が出る。
レモナが笑う。
本当に嬉しそうに。
それを見て。
湊も笑った。
ようやく帰ってきた。
そう思えた。
その後。
みんなで『nagi』へ向かう。
店には上映会のポスターが貼られていた。
『春が来る上映会』
手作りの文字。
色鉛筆の桜。
島の子どもたちが描いたレモン。
少し不格好で。
でも温かい。
店内には準備のメモが並んでいる。
椅子の数、音響確認、受付担当、駐車場案内。
カウンターの上には新メニューの試作品。
『瀬戸内レモンタルタルベーコンてりたま』
「上映会の日に出すんよ」
レモナは試作品の皿を指さした。
「まだ改良中じゃけど」
少し得意そうに笑う。
上映会はまだ始まっていない。
それなのに。
島全体がもう準備を始めていた。
湊は窓の外を見る。
春の海、港、桜。
一年前には見えなかった景色がある。
景色は同じなのに。
見ている自分が変わったのだ。
上映会まで。
あと三日。
春は静かに。
でも確かに。
島へやって来ていた。
そして湊もまた、
「おかえり」の待つ場所へ帰ってきていた。 第五十五章へ続く。




