第五十三章 「帰る場所があること」
第五十三章
「帰る場所があること」
四月初旬。
東京の桜は満開だった。
ビル街の中で咲く桜は、 どこか不思議な感じがする。
忙しい人たちは立ち止まらない。
写真だけ撮って通り過ぎる人。
スマホも見ずに急ぐ人。
風に舞う花びらさえ、 都会では少し忙しそうだった。
湊は段ボール箱を閉じる。
引っ越しではない。
だが、 長く使ったデスクを整理していた。
上映会のために島へ帰る。
数日だけの予定だ。
それでも、 なぜか落ち着かなかった。
机の上には、 完成した映像のデータが入ったハードディスク。
ノート。
メモ帳。
何度も書き直した構成表。
全部がこの一年だった。
「忘れ物ないですか」
真白が後ろから声をかける。
「子供か」
「朝倉さんなので」
失礼だった。
でも最近は、 こういうやり取りにも慣れた。
真白は机を見る。
「終わりましたね」
その言葉に、 湊は少し考える。
終わった。
確かに映像は完成した。
でも。
本当に終わるのは、 まだ先の気がした。
島の人たちが見て。
笑って。
泣いて。
何かを感じて。
その時に初めて完成する。
そんな気がしていた。
真白は窓の外を見る。
春の東京。
そして小さく言った。
「羨ましいです」
「何が」
「帰る場所があること」
真白は少し笑った。
「多分…待っている人がいること、かもしれません」 静かな声だった。
湊は返事に困る。
しばらく沈黙。
そして言った。
「まだ見つかっとらんだけやろ」
真白は少し驚く。
「え?」
「帰る場所も」
「待っとる人も」
真白は苦笑する。
「そうですね…たぶん…」
その顔は少し寂しそうだった。
湊は思い出す。
島へ来た時の真白。
海を見ていた横顔。
港を見ていた時の表情。
もしかすると。
真白も何か探しているのかもしれない。
帰る場所を。
自分の春を。
湊は窓の外を見る。
春だった。
あの日、真白が島の海を見ていた姿を思い出す。
「来るか」
気づけば口にしていた。
真白が振り返る。
「上映会」
数秒。
真白は驚いた顔をした。
「いいんですか…」
「別に島の人間しか入れんわけじゃない」
真白は笑う。
本当に少しだけ。
柔らかく。
「……考えておきます」
真白はそう言った。
だが。
その顔は、もう少しだけ島の方を向いているように見えた。
翌朝、新幹線、在来線。
そして港。
長い移動だった。
春の空、潮の匂い。
フェリー乗り場。
待合所には旅行客や帰省客の姿があった。 湊は切符を握る。
一年前……。
仕事を辞めて帰った時は。
逃げるような気持ちだった。
自分が何者かわからなくなっていた。
未来も見えなかった。
あの時は、 フェリーへ乗る足取りも重かった。
でも今は違う。
少し緊張している。
少し怖い。 だけど、帰りたいと思っている。
それが何より違った。
汽笛が鳴る。
フェリーが港へ入ってくる。
白い船体、青い海、春の光。
その景色は昔と変わらない。
だが。
見ている自分は変わった。
乗船口へ向かう。
デッキへ出る。
風が吹く。
海が広がる。
島へ向かう航路。
何度も見た景色。
それなのに。
今日は少し違って見えた。
ポケットのスマホが震える。
レモナだった。
短いメッセージ。
「今どこ?」
湊は海の写真を撮る。
そして送る。
「帰る途中」
数秒後。
返信。
「知っとる」
その下に。
もう一文。
「みんな待っとる」
湊は笑った。
みんな。
その言葉が嬉しかった。
レモナだけじゃない。
航平も。
商店街のおばちゃんも。
港のおっちゃんも。
高校生たちも。
島の人たちが待っている。
映像を、上映会を。
そして。
帰ってくる自分を。
フェリーは春の海を進んでいく。
遠く、霞の向こうに島影が見え始めた。
あと少し。
島が近づく。
春が近づく。
そして――
帰る場所が、そこにあった。 第五十四章へ続く。




