第五十一章 「おかえりは当日まで取っとく」
第五十一章
「おかえりは当日まで取っとく」
三月中旬。
東京。
編集室の窓から見える桜並木が、 少しずつ色づき始めていた。
春だった。
島にも春が来ているだろうか。
湊はそんなことを考えながら、 最後の編集作業を続けていた。
上映会の話が決まってから一週間。
島では思った以上に話が広がっているらしい。
航平からは、
「公民館じゃ狭い」
という連絡が来た。
商店街の人は、
「チラシ作るぞ」
と言っているらしい。
レモナから送られてきた写真には、
『島の上映会開催予定!』
という手書きポスターまで写っていた。
「早すぎるやろ……」
湊は思わず笑う。
まだ完成していないのに。
だが。
その写真を見た時。
胸の奥が少し熱くなった。
島の人たちは、 自分の映像を待ってくれている。
それは不思議な感覚だった。
東京では、 数字で評価される。
再生数。
視聴維持率。
反応。
結果。
もちろん大切だ。
「待っとるぞ」
その一言だけで、 こんなにも頑張れることを知らなかった。
午後、会議室。
映像の最終試写。
上司、プロデューサー、スタッフ、真白。
全員がスクリーンを見る。
映像が終わる。
静寂。
そして拍手。
プロデューサーが立ち上がった。
「いい作品だ」
短い言葉だった。
十分だった。
さらに続ける。
「公開後、次の企画も頼みたい」
湊は顔を上げる。
大きな案件だった。
全国規模。
予算も大きい。
映像業界にいる人間なら、 誰もが欲しがる仕事。
少し前の自分なら。
「やります」
そう即答していただろう。
全国公開、大型企画、映像屋としては願ってもない仕事だ。
なのに。
頭に浮かんだのは、 レモン畑だった。
フェリーや『nagi』、 レモナ、 そして上映会の準備で騒いでいる島の人たち。
全国規模の企画より先に、 その景色が浮かんでしまった。
プロデューサーは笑った。
「返事は急がない」
「上映会終わってから考えろ」
湊は驚く。
すると。
「顔に書いてある」
会議室が少し笑いに包まれた。
真白まで笑っている。
珍しかった。
帰り道。
真白と並んで歩く。
東京の夕暮れ。
桜の蕾。
ビルの灯り。
真白が言う。
「なんか、変わりましたね」
「何が?」
「朝倉さん」
湊は苦笑する。
最近よく言われる。
自分でもそう思う。
以前は。
仕事のために生きていた。
今は。
生きるために仕事をしている。
少しだけ順番が変わった。
真白は立ち止まる。
そして。
「帰るんですか」
「帰る」
「仕事じゃなくて?」
「仕事もや」
湊は少し笑った。
「でも今回は、それだけじゃない」
湊は空を見る。
春の夕空だった。
上映会のために、島の人たちのために。
そして。
自分のために。
真白は小さく笑う。
「知ってました」
「ずっと前から」
「帰る人の顔してました」
「なんやそれ」 失礼だった。
でも少し当たっている。
その夜。
『nagi』。
閉店後。
レモナは一人で店のテーブルを拭いていた。
スマホが震える。
湊からメッセージ。
『上映会の日』
『帰る』
たったそれだけ。
レモナは画面を見る。
何度も見る。
そして。
小さく笑った。
『おかえりは当日まで取っとく』
送信、数秒後、既読、返事。
『了解』
それだけだった。
十分だった。 窓の外では、港の桜が少しだけ咲き始めていた。
まだ満開ではない。
けれど。
春は確かに来ている。
あと二週間。
その頃にはきっと、
もっとたくさんの花が咲いている。
そして――
その桜が満開になる頃、 湊は帰ってくる。 第五十ニ章へ続く。




