第五十章 「上映会せん?」
第五十章
「上映会せん?」
三月上旬。
港へ続く坂道の脇に、菜の花が一列に咲いていた。
レモナは思わず足を止める。
「もう三月か」
春が近い。
誰の目にもわかるくらいに。
『nagi』の朝。
レモナは開店準備をしていた。
コーヒーを淹れる。
焼きたてのレモンケーキを並べる。
新しく改良した『瀬戸内レモンタルタルベーコンてりたま』の仕込みを確認する。
最近は観光客も少し増えていた。
SNSで紹介されたらしい。
本人はよくわかっていない。
でも客が増えるのはありがたい。
ドアベルが鳴る。
《カラン》
「はようさん」
入ってきたのは航平だった。
朝から漁協帰りらしい。
相変わらず仕事着だ。
「早いね」
レモナが言う。
「仕事や」
航平は当然のように席へ座る。
「コーヒー」
「はいはい」
レモナがカップを置く。
航平は一口飲んでから言った。
「そういや湊の映画」
レモナの手が止まる。
「映画じゃなくて映像や」
「どっちでもええ」
航平は続ける。
「完成近いんやろ?」
「らしいね」
「見たいな」
「俺らも映っとるんやろ?」
「映っとるんじゃない?」
「ならなおさら、見んといけんな」 レモナは少し笑う。
自分も見たい。
誰よりも。
島の人たちもきっと見たいだろう。
港、レモン畑、漁港、商店街。
高校生たちや島の日常。
全部映っているのだから。
その時だった。
奥の席から声がする。
「東京の人に見せるんやったら先に島で、上映会したらええじゃん」
常連の松本のおばあちゃんだった。
店内が静かになる。
「上映会?」
レモナが聞き返す。
「そうそう」
松本のおばあちゃんは平然と言う。
「映画館ないんだから」
確かに。
「みんなで見たらええやん」
レモナは少し考える。
みんなで。
その言葉が残った。
昼。
港へ出る。
春の風が吹いていた。
レモナはスマホを取り出す。
東京へ電話をかける。
数回の呼び出し音。
「もしもし」
湊だった。
「なぁ」
「うん?」
「上映会せん?」
沈黙。
数秒。
「上映会?」
驚いた声だった。
当然だ。
レモナは港を見ながら言う。
「島で」
フェリーが見える。
「みんなでさ」
風が吹く。
「見たいじゃん」
その言葉に。
電話の向こうで湊は黙った。
しばらく何も聞こえない。
レモナは少し不安になる。
変なことを言っただろうか。
その時。
『それ、ええな…』
『東京の人に見てもらうより先に』
『島の人に見てほしい』
静かな声だった。
レモナは笑う。
「じゃろ?」
『うん』
そして。
少しだけ声が変わる。
『めっちゃ見てほしい』
その一言は。
たぶん本音だった。
東京で評価されるのも嬉しい。
会社の人に見てもらえるのも嬉しいけど、港のおっちゃんが笑ってくれる顔や商店街のおばちゃんの「あら懐かしいねぇ」だったり、高校生たちの照れくさそうな顔。
そんなものを、湊は見たかった。
湊が撮ったのは。
その人たちの人生だったから。
電話を切ったあと。
レモナは港を見た。
春の海。
フェリー、白い波。
そして。
ふと思う。
湊が帰ってきたあの日。
港で偶然再会した。
あの日はただ…一人の男が帰ってきただけだった。
でも今は違う。
島の誰かとして。
この場所へ帰ろうとしている。
夕方。
『nagi』には人が集まっていた。
上映会の話をすると。
みんな勝手に盛り上がる。
「公民館使えるぞ」
「パイプ椅子足りるか?」
「俺のスピーカー貸したる」
「ねえ、ポスター作ろうか?」
話がどんどん大きくなる。
レモナは笑っていた。
気づけば店の中は上映会の話でいっぱいだった。
「ポスター貼る場所なら商店街で聞いてやる」
「フェリー乗り場にも貼ろうや」
「あ〜そうだ!その前に日付決めんと」
誰も頼んでいないのに話だけが進んでいく。
レモナはカウンターの中で笑った。
まだ何も決まっていない。
それなのに。
店の中には、もう春の準備が始まっていた。
春は、こうやって始まるのかもしれない…。 港の向こう、夕陽が海を染めていた。
東京にいる湊も、今ごろ同じ夕方を見ているのだろうか。
上映会の日まで。
あと一か月。
春はもう、すぐそこまで来ていた。
そしてレモナは思う。
今度帰ってくる時の湊は、
あの日港に立っていた男とは、
もう少し違う顔をしている気がした。
第五十一章へ続く。




