第四十九章 「真白の帰る場所」
第四十九章
「真白の帰る場所」
三月。
東京。
朝の駅は今日も人で溢れていた。
改札を抜ける人。
走る人。
スマホを見ながら歩く人。
誰もが急いでいる。
高城真白は、 その流れの中を静かに歩いていた。 昔から見てきた朝だった。
改札を抜ける人の流れも、 コンビニの明かりも、 編集室へ向かう足取りも。
ずっと変わらないと思っていた。
少し前までは。
編集室。
モニターには島の映像が流れている。
港、海、レモン畑。
高校生たち、フェリー。
真白は作業の手を止めた。
この映像を見るのも、 もう何度目だろう。
最初は仕事だった。
朝倉湊が撮ってきた素材。
編集を手伝う案件。
それだけだった。
今は少し違う。
島へ行った日のことを思い出す。
『nagi』。
レモナ、港、夕暮れ、潮の匂い。
東京にはない静けさ…
あの日見た景色が、 なぜか忘れられなかった。
「どうした?」
後ろから声がする。
湊だった。
コーヒーを持っている。
真白は首を振る。
「別に」
「別にじゃない顔しとる」
失礼だった。
でも少し当たっている。
湊は隣の席へ座る。
最近はこういう時間が増えた。
仕事の話だけではなく。
人生の話もするようになった。
「帰ったんですか」
真白が聞く。
「どこへ?」
「島」
湊は少し笑った。
「まだ」
そうだった。
上映会の準備は始まっている。
でも帰るのはもう少し先。
映像はほぼ完成。
最後の調整段階。
真白はモニターを見る。
港の映像。
子どもたちが走っている。
フェリーが入港する。
誰かが笑っている。
ただそれだけ。
派手な映像ではない。
なぜか見てしまう。
「不思議ですね」
真白が言う。
「何も起きないのに面白いです」
湊は笑った。
「島の人に聞かせたら怒られるぞ」
真白も少し笑う。
でも本当にそう思っていた。
東京の映像は刺激が多い。
情報も多い、展開も速い。
けれど。
この映像には別の力がある。
生きている人の時間。
それが映っている。
昼休み。
真白は珍しく会社の外へ出た。
近くの公園に行きベンチに腰を下ろす、片手には缶コーヒー。
まだ少し寒い。
木々の先には春の気配があった。
スマホを見る。
連絡先。
家族、仕事、取引先、が並んでいる。
ふと気づいた。
最近、 誰かに「ただいま」と言った記憶がない。
実家はあるし、両親も元気だ。
帰ろうと思えば帰れる。
考えてみると何年も帰っていない。
仕事を優先していた。
忙しかった。
それだけだった。
それなのに。
島へ行った一日が、 妙に心に残っている。
『おかえり』
あの日。
『nagi』で聞いた言葉。
レモナが湊に向けて言った。
何気ない一言。
なぜか忘れられない…真白自身、 誰かに「おかえり」と言われたのは いつだっただろう。
思い出せなかった。
真白は空を見上げる。
青空だった、東京の空。
見慣れたはずの空。
その夜。
仕事帰り。
真白は駅へ向かう途中で足を止めた。
小さな旅行会社のポスター。
春の帰省特集。
桜、地方の駅、笑顔の家族。
ありふれた広告だった。
その時。
真白は初めて思った。
帰る場所。
自分にもあるのだろうか。
ずっと仕事を追いかけてきた。
それは間違っていない。
後悔もない。
それだけだったのだろうか。
東京の夜景が輝いている。
ビルの灯りや車の列。
終電へ急ぐ人たち。
その中で。
真白は少しだけ立ち止まる。
春が近づいている。
それは島だけじゃない。
人の心にも、少しずつ、静かに。
そして、その頃…瀬戸内の島では。
上映会の話が、 少しずつ動き始めていた。
まだ誰も知らない。
それが島の春を変える一日になることを。 第五十章へ続く。




