第四十四章 「今度はちゃんと私に聞かせて」
第四十四章
「今度はちゃんと私に聞かせて」
年が明けた。
一月。
瀬戸内の冬は静かだった。
観光シーズンから外れた島は、 まるで大きく息を潜めているように見える。
港の待合室。
商店街。
海沿いの道。
どこを歩いても人は少ない。
それでも。
湊の撮影は続いていた。
冬の島を記録するために。
そして。
自分自身の答えを探すために。
その日の午後。
『nagi』の窓際席。
湊はノートパソコンを開いていた。
編集作業。
撮影した映像は、 すでに何十時間にもなっている。
港。
祭り。
高校生。
漁師。
レモン農家。
フェリー。
島の暮らし。
画面の中には、 この一年の島が詰まっていた。
その時。
スマホが震えた。
東京の会社からだった。
画面を見る。
真白も気づく。
「会社ですか」
「うん」
湊は電話に出る。
何気なく。
いつもの確認連絡だと思っていた。
しかし。
数分後。
湊の表情が変わる。
真白もそれに気づく。
レモナも。
電話は長かった。
十分ほど。
やがて終わる。
静寂。
湊はスマホを置く。
何も言わない。
真白が聞く。
「何かありました?」
湊は少し笑う。
その笑顔は複雑だった。
「企画」
「はい」
「通った」
真白の目が少し大きくなる。
「全部?」
湊は頷く。
全国配信決定。
さらに東京本社への復帰要請。
次期大型プロジェクトの中核メンバー候補。
そんな内容だった。
店内が静かになる。
レモナも思わず手を止めた。
全国。
それは。
東京で夢を追っていた頃の目標だった。
大きな仕事。
多くの人に届く作品。
会社も本気になる規模。
真白は素直に言う。
「おめでとうございます」
本当に。
心から。
それだけの価値がある企画だった。
しかし。
湊はあまり嬉しそうではない。
レモナはその理由がわかってしまう。
だから怖かった。
夢が叶う瞬間が。
夕方。
港。
湊は一人で海を見ていた。
冬の風。
灰色の空。
遠くの船。
スマホには、 送られてきた正式資料が残っている。
全国配信。
大型企画。
専属ディレクター候補。
次期プロジェクト責任者。
東京本社勤務前提。
どれも。
数年前の自分なら飛び上がって喜んでいた。
欲しかったものだ。
ずっと…
今は。
胸の奥が重い。
後ろから足音がした。
真白だった。
缶コーヒーを二本持っている。
一本を渡す。
「おめでとうございます」
改めて言う。
湊は受け取る。
「ありがとう」
しばらく沈黙。
そして。
真白が聞く。
「嬉しくないんですか」
湊は苦笑する。
「嬉しいよ」
それは本当だった。
努力してきた。
東京で。
何度も失敗して。
何度も徹夜して。
ようやく掴んだ。
夢の続きだった。
真白は海を見る。
「じゃあ問題ですね」
「何が」
「嬉しいのに困ってる」
湊は笑う。
図星だった。
真白は少しだけ真面目な顔になる。
「会社はたぶん」
言葉を選ぶ。
「戻ってくる前提で考えてます」
湊は黙る。
予想していた。
現実になると重い。
真白は続ける。
「朝倉さんじゃないと無理だと思ってます」
それも事実だった。
会社の期待は大きい。
チャンスも大きい。
そして。
逃したら二度と来ないかもしれない。
「正直に言います」
真白は海を見たまま言った。
「東京に戻ってほしいです」
湊が振り向く。
「会社のためでもあります」
少し間。
「でも、それだけじゃありません…」 「朝倉さんが東京にいた頃の映像、私は好きでした」
「だから、もっと見たいんです…」 湊は、黙るしかなかった。 夜。
『nagi』。
閉店後。
レモナはカップを洗っていた。
湊は窓際に座っている。
静かな時間。
二人とも、 昼の電話のことを知っている。
知らないふりはできない。
レモナが先に聞いた。
「すごいね」
湊は顔を上げる。
レモナは笑っていた。
ちゃんと。
心から。
「夢だったんでしょ」
湊は頷く。
「うん」
「じゃあおめでとう」
その言葉は本物だった。
だからこそ苦しい。
レモナは応援している。
ずっと。
今も。
応援することと、 寂しくないことは違う。
そのことを二人とも知っている。
湊は立ち上がる。
何か言おうとする。
しかし。
言葉が見つからない。
東京へ行く。
島に残る。
そのどちらも。
まだ言えない。
レモナはカップを置く。
そして。
静かに言った。
「湊」
「ん?」
「今度は逃げないでね」
店内が静かになる。
レモナは笑っていなかった。
怒ってもいなかった。
ただ。
まっすぐ見ていた。
「決める時は」
少し間。
「ちゃんと聞かせて」
その言葉だけだった。
「東京に行くなら行けばいんよ」
レモナは静かに言った。
「夢やったんやろ」
「だから止めたりせん」
「でも……」 少しだけ声が震える。
「何も言わずに決めるのだけは嫌……」
「今度はちゃんと私に聞かせて」 湊は何も言えない。
ただ頷く。
窓の外では、 冬の海が静かに揺れていた。
夢が近づいている。
そして同時に。
選択の時も近づいていた。 第四十五章へ続く。




