第四章 「春限定の帰り道」
第四章
「春限定の帰り道」
「……ありがと」
レモナはそう言って、 そっと腕を離した。
湊も、 慌てて手を引っ込める。
妙に心臓がうるさい。
二十八にもなって、 何を高校生みたいに動揺してるんだと、 自分で呆れる。
でも。
触れた瞬間、 昔の空気が一気に戻ってきた。
高校の帰り道とか。
文化祭の準備とか。
そういうの全部。
レモナは誤魔化すように笑う。
「危なかったー。レモン畑で転落事故するとこだった」
「ニュースの見出し弱いな」
「“島の女、レモンと共に散る”」
「無駄に文学的やめろ」
二人で吹き出す。
笑った瞬間だけ、 時間が昔に戻る。
でも、 笑い終わったあと、 少しだけ沈黙が残る。
二人とも、その理由を口にしなかった。
昼過ぎ。
収穫を終えた帰り道。
坂を下る二人の影が、 春の光に細く伸びていた。
「このあと店?」
湊が聞く。
「うん。夕方ちょっと混むから」
「観光客?」
「うちでも春限定バーガー出してんよ…春休み終わったのに、 なぜか“てりたま難民”来る」
「なんやそれ」
「毎年おる。終売前に食べとかんと死ぬ人たち」
レモナは真顔で言う。
昔から、 こういう変な言い回しをする。
それが好きだった。
……たぶん、今でも。
海沿いの道へ出る。
潮風が強くなる。
防波堤には高校生たちが座っていた。
制服姿。
コンビニ袋。
笑い声。
その景色に、 湊は少し目を細める。
「なんかさ」
「ん?」
「高校ん時って、 もっと世界広いと思っとった」
レモナが言う。
「広い?」
「うん。島の外出たら、 なんでもあると思ってた」
「まぁ実際、 なんでもはあるやろ」
「でも、 欲しかったもん全部あった?」
その問いに、 湊は答えられなかった。
東京には、 なんでもあった。
仕事も、人も、店も。
困ることなんかなかった。
なのに。
何が足りなかったのか、 うまく言えなかった。
レモナは、 海を見る。
「私ね、 東京行った友達に会うたび思うんよ」
「何を?」
「みんな、 ちょっと頑張りすぎた顔して帰ってくる」
風が吹く。
レモナの髪が揺れる。
「湊も、 そんな顔してる」
その言葉は優しいのに、 少しだけ痛かった。
店の前まで来る。
『nagi』
白い壁の小さなカフェ。
窓際にはドライフラワー。
黒板メニュー。
古い木の扉。
観光雑誌なら、 絶対“隠れ家カフェ”って書くタイプの店だった。
「入る?」
レモナが聞く。
「いいん?」
「客ゼロだから助かる」
からん、とベルが鳴る。
店の中には、 レモンケーキの匂いが漂っていた。
窓際の席に座ると、 海が真正面に見える。
レモナはカウンターへ入り、 エプロンをつけた。
「コーヒー?」
「うん」
「疲れてる人用ブレンドにしとく」
「そんな雑な分類ある?」
「ある」
彼女は豆を挽き始める。
静かな音。
そんな、レモナの姿を見ながら、 湊は思う。
窓の外では、フェリーがゆっくり港へ入ってくる。
それをぼんやり見ながら、湊は思った。
東京では、こんなふうに黙ってコーヒー飲む時間、あっただろうかと。
レモナがコーヒーを置く。
白いカップ。
小さなレモンクッキー付き。
「サービス」
「なんで」
「帰省者特典」
湊は笑う。
コーヒーを飲む。
少し苦い。
でも後味が柔らかい。
「……うま」
「でしょ」
レモナは、 どこか誇らしげだった。
その時。
店の扉が開く。
からん、とベルが鳴る。
「お邪魔しまーす」
入ってきたのは、 スーツ姿の女性だった。
黒髪。
細い黒のフレームの眼鏡。
都会的な空気。
湊の表情が止まる。
レモナが、 カウンターの奥で小さく瞬きをした。 女性も、 目を見開いた。
「……朝倉さん?」
空気が変わる。
レモナが、 静かに二人を見る。
湊は立ち上がった。
「……真白?」
高城真白。
東京で、 最後まで一緒に仕事をしていた相手だった。
どうしてここにいる。
頭が追いつかない。
真白は、 少し困ったように笑う。
「やっぱりここにいたんだ」
レモナが、何も言わなかった。
カウンターの向こうで、コーヒーの湯気だけが静かに揺れていた。 第五章へ続く。




