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第三章 「レモン畑へ続く坂道」

第三章

「レモン畑へ続く坂道」

翌朝、 湊は潮の匂いで目を覚ました。

窓を開けると、 白い光が海の上に広がっている。

穏やかな朝だった。

東京の朝は、 音で始まる。

電車。 通知。 誰かの足音。

でも島の朝は、 光で始まる。

ぼんやりと世界が明るくなり、 気づけば一日が動き出している。

何も急かされない朝なんて、 いつぶりだろうと思った。               階下から、 母の声がした。

「湊ー、昼どうするー?」

「まだ決めてない」

「じゃあレモナちゃんとこ行ってあげなさい。昨日会ったんでしょ」

湊は顔をしかめる。

島は狭い。

情報が回る速度が、 異常に速い。

「なんで知っとるん」

「航平くん」

「あいつほんま……」

母は笑いながら味噌汁をよそう。

「レモナちゃん、綺麗になったでしょう」

その言い方に、 少しだけ昔を感じる。

学生時代、 近所のおばちゃんたちは、 レモナを見るたび 「可愛いねぇ」と言っていた。

たぶん今でも、 この島の人間の何割かは、 二人がいつか付き合うと思っている。

そして、 十年経っても付き合っていないことを、 若干不思議に思っている。

湊は朝食を終え、 散歩するつもりで家を出た。

海沿いの道を歩く。

自販機。 古い郵便局。 閉まったままの写真館。

変わったものもある。

昔駄菓子屋だった店には、

『テナント募集』の紙が色褪せて貼られたままだった。               小学校の裏山から聞こえていた野球部の声も、今は聞こえない。

でも、 変わらないものもある。

潮風の匂いとか。

春の光とか。

ゆっくり流れる時間とか。

坂道を上がっていくと、 視界が急に開けた。

レモン畑だった。

段々畑みたいに、 黄色と緑が斜面に広がっている。

風が吹く。

葉が揺れる。

その向こうに、 瀬戸内海が見えた。

「……うわ」

思わず声が漏れる。

こんな景色、 高校時代は見慣れていたはずなのに。

その時だった。

「観光客みたいな顔しとる」

後ろから声がする。

振り返る。

帽子を被ったレモナが、 レモン籠を抱えて立っていた。

デニムのオーバーオール姿。

陽の光のせいか、 昨日より幼く見える。

「びっくりした」

「それこっちの台詞。何してんの」

「散歩」

「おじいちゃんみたい」

レモナは笑いながら、 畑の方へ歩いていく。

湊もその後をついていった。

「店の仕込み?」

「うん。今日レモン足りんくて」

「カフェってそんな自分で取るんや」

「うちの店、そういうとこだけ本格派だから」

坂の途中に、 小さな作業小屋があった。

木製のベンチ。

錆びたハサミ。

古いラジオ。

レモナは籠を置き、 空を見上げる。

「今日、フェリー見える日だ」

「見える日?」

「春って霞む日多いじゃん。今日は遠くまで見える」

言われてみれば、 海の向こうの島影までくっきり見えていた。

レモナは慣れた手つきで、 レモンを摘み始める。

「手伝って」

「え、俺?」

「東京帰りには難しい?」

「煽るやん」

湊も脚立を持つ。

高校時代も、こんな感じだった。

特別な約束なんかなくても、

気づけば隣にいた。

「湊さ」

「ん?」

「東京、どうだった?」

レモナはレモンを見たまま聞く。

真正面からじゃない。

でも、 逃げ道もない聞き方だった。

湊は少し考える。

「……速かった」

「速い?」

「全部。人も、仕事も、季節も」

レモナは静かに頷く。

「湊、昔から速い場所向いてなかったもんね」

「なんやそれ」

「信号変わる前から諦めるタイプ」

思わず笑ってしまう。

悔しいが、 当たっている。

レモナは脚立の上で、 少しだけ遠くを見る。

「でもさ」

風が吹く。

レモンの葉が揺れる。

「なんか安心した」

「何が?」

「ちゃんと疲れて帰ってきたんだなって」

その言葉に、 湊は返事ができない。

レモナは続ける。

「東京でキラキラしてたら、 ちょっとムカついてたかも」

笑って言う。

でも、 少しだけ本音が混じっていた。

湊はレモンを籠へ入れる。

「……レモナは?」

「ん?」

「後悔してない?」

その質問に、 レモナの手が止まった。

一瞬だけ。

本当に、 一瞬だけ。

「いっぱいあるよ」

彼女は笑う。

でもその笑顔は、 昨日より大人だった。

「東京行きたかったし」

「……うん」

「一人暮らしとかしてみたかったし」

「うん」

「失恋で夜中コンビニ行くとかもしてみたかったし」               「うん…?」

「終電逃して友達ん家泊まるとか、してみたかった」               「それって、青春っぽいじゃん!」         「…なんやそれ」              二人で笑う。

湊は笑った。

でも、その“してみたかった”の中に、 レモナの十年が少し見えた気がした。      笑い終わったあと、 風の音だけが残った。

レモナが、少しだけ遠くを見る。

「でもさ……なんか気づいたら、大人になってたし」

もし。

あの時。

違う選択をしていたら。

そんな“もし”が、 春の風みたいに通り過ぎていく。

その時、 レモナが脚立から降りようとして、 少しバランスを崩した。

「あっ」

咄嗟に、湊が腕を掴む。

近い。

驚くほど近かった。

レモナから、レモンの香りがする。

掴んだ腕が、少し熱い。

湊は、息をするのを忘れそうになる。

レモナも固まっていた。

風だけが吹く。

遠くで、 フェリーの汽笛が鳴った。

ゆっくり。

長く。

まるで、 止まっていた時間を動かすみたいに。                  第四章へ続く。

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