第二章 「島の夜は、昔の記憶を残している」
第二章
「島の夜は、昔の記憶を残している」
夜の瀬戸内は静かだった。
静かすぎて、 波の音が近い。
朝倉家の二階。 高校時代から変わっていない六 畳の部屋。
机も。 カーテンも。 壁に残った画鋲の穴も。
全部、 時間から置いていかれている。
湊は布団に寝転び、 天井を見上げていた。
スマホの通知は少ない。
東京にいた頃は、 夜中でも仕事の連絡が飛んで きた。
修正。 確認。 謝罪。 数字。
画面が光るたび、 心臓が少し縮むような感覚が あった。
今は、 何も来ない。
それなのに、 落ち着かない。
人間は不思議だ。
苦しかった場所から離れても、 すぐには自由に なれない。
窓の外で、 フェリーの汽笛が鳴った。
低く、 長い音。
子供の頃から聞いてきた音なのに、 今日は妙に 胸に残った。
――湊?
昼間の声が蘇る。
レモナ。
十年ぶりに会った。
もっと、 平気だと思っていた。
もっと、 「懐かしいね」 くらいで終われると 思っていた。
なのに。
彼女を見た瞬間、 高校時代の自分が、 身体の 中で急に息を吹き返した。
卒業式の日。
体育館裏。
結局、 行けなかった。
ネクタイを握って体育館裏を何度も見た。
何回もメッセージを打って消した。
でも、 最後の最後で怖くなった。
もし断られたら。
もし、 今の関係が終わったら。
その臆病さが、 十年経っても胸に残っている。
湊は顔を覆った。
「俺……だっさ」
自分で呟いて、 少し笑う。
その時。
ブブッ。
スマホが震えた。
航平からだった。
『暇なら港来い』
短い。
雑。
でも、 断る理由もなかった。
夜風は少し冷たかった。
港へ向かう坂道を歩く。
街灯は少ない。
コンビニも二十四時間営業じゃない。
東京なら不便だったはずなのに、 今はそれが少 し心地いい。
港には、 軽トラックが停まっていた。
荷台に座る航平が、 缶コーヒーを投げてくる。
「おう」
「危な」
「避けれる元気あるなら大丈夫や」
湊は缶を開ける。
甘い。
驚くほど甘い。
「……これ高校ん時も飲んどったな」
「お前、疲れたら甘いの飲むやろ」
覚えていたことに、 少し驚く。
航平は海を見る。
「レモナ、びっくりしとったぞ」
「やろな」
「お前、なんも連絡せんかったし」
その言葉が、 少し刺さる。
東京へ行ってから、 湊はほとんど地元の人間と 連絡を取らなかった。
忙しかった。
余裕がなかった。
――いや。
違う。
本当は。
帰れなくなっていた。
帰る理由が、 わからなくなっていた。
「……なぁ湊」
「ん?」
「お前まだ、好きなん?」
直球だった。
昔から、 航平はこういう聞き方をする。
湊は笑う。
誤魔化すみたいに。
「二十八やぞ、俺ら」
「だからなんや」
「もうそんな歳ちゃうやろ」
航平は呆れた顔をする。
「そういうとこやぞ」
「なにが」
「お前、“終わったこと”にしたがる」
風が吹く。
海面が揺れる。
遠くの灯台が、 ゆっくり瞬いていた。
航平は缶コーヒーを飲み干す。
「レモナな、高校卒業の日、ずっと待っとった ぞ」
湊の呼吸が止まる。
「……え」
「知らんかったんか」
知らなかった。
いや。
知っていたのかもしれない。
でも、 気づかないふりをしていた。
あの日、 体育館裏へ行かなかったのは、 断ら れるのが怖かったからじゃない。
本当は。
“うまくいってしまう”のが怖かった。
もし本当に付き合えたら。
もし本当に大切になったら。
失うのが怖くなる。
当時の湊には、 それを抱える勇気がなかった。
「まぁ今さら言ってもしゃーないけどな」
航平は立ち上がる。
「たださ…」
ポケットに手を入れたまま、 振り返る。
「島ってな、 終わった恋が終わりきらん場所なん よ」
それだけ言って、 軽トラに乗り込む。
エンジン音が夜に響いた。
一人残された港で、 湊は海を見る。
潮風が、 少しだけしょっぱかった。
その時。
背後で、 リンリン、と自転車のベルが鳴った。
振り返る。
街灯の下。
白いパーカー姿のレモナが、 自転車を止めてい た。
「……やっぱりおった」
彼女は笑う。
でも昼間より少しだけ、 静かな顔だった。
「航平から聞いた。港行っとるって」
「スパイかあいつ」
「昔からそうじゃん…」
二人の間に、 少しだけ沈黙が落ちる。
波の音だけが聞こえる。
高校時代なら、 この沈黙に耐えられなかった。
何か喋らなきゃと焦った。
でも今は。
黙って同じ海を見ている時間が、 不思議と苦し くない。
レモナが言った。
「湊さ」
「ん?」
「やっと寝れてる顔しとる」
その言葉に、 湊は少し笑った。
「なんやそれ」
「昔はずっと平気なふりしとった」
図星だった。
レモナは自転車を降りる。
潮風で、 髪が少し揺れた。
「……おかえり」
その一言が、 胸の奥に静かに沈んでいく。
湊は、 すぐに返事ができなかった。
帰ってきてしまった。
本当に。
この島にも。
この恋にも。 第三章へ続く。




