第一部「再生編」第一章 「春は、少しレモンの味がする」
第一章
「春は、少しレモンの味がする」
フェリーを降りた瞬間、潮とレモンの匂いがした。
朝倉湊は、小さく息を止める。
四月の瀬戸内は白い。
空も。 海も。 遠くの島影も。
全部が春霞に溶けて、 輪郭だけを残していた。
「……帰ってきたな」
独り言は、波の音に消えた。
桟橋の鉄板を踏むたび、 鈍い音が鳴る。
キャリーケースの車輪が、 少しだけ引っかかった。
東京で使っていた白いスニーカーに、 潮風がまとわりつく。
懐かしい。
やっぱり、 懐かしいと思ってしまった時点で、 もう自分はここを離れていたのだと気づく。
港の待合所には、 観光ポスターが並んでいた。
青い海。 レモン畑。 サイクリングロード。
どれも、 “瀬戸内らしい瀬戸内” の写真だった。
自転車に乗った中学生。 錆びたガードレール、干された漁網。
変わったものもあるはずなのに、 目に入る景色だけは、 昔のままみたいだった。
だけど…高校の頃は、自転車で埋まっていた港前に、 今は軽トラが二台止まっているだけだった。 「おい、湊!」
突然、 背中に声が飛んできた。
振り返る。
日に焼けた男が、 片手を上げて歩いてくる。
島崎航平だった。
高校時代より少し太った。 でも笑い方は変わっていない。
「マジで帰ってきたんか、お前」
「帰ってきたっていうか……ちょっと休みに」
「その“ちょっと”が長なるやつな」
航平は勝手にキャリーケースを持つ。
昔からこうだ。
人の距離感に、 一切ためらいがない。
「母さんから聞いたわ。仕事辞めたん」 「東京、しんどかった?」
「……まぁ」
「病んどったもんな、お前」
「やめろや」
「いや、ほんまに」
「笑えん」
そう答えると、 航平はそれ以上聞かなかった。
その沈黙が、 少しありがたかった。
港を出ると、 海沿いの道に春風が抜けていく。
漁港の網が風で動いて鳴る。
坂の向こうで、中学生の笑い声がした。
網の音も、坂の向こうの笑い声も、昔と変わらなかった。
「腹減ってない?」
航平が言う。
「まぁ少し」
「じゃあ“あれ”食い行くか」
“あれ”。
その言葉だけで、 何を指しているかわかってしまった。
湊は苦笑する。
「まだあるん?」
「春限定やからな。今年も始まっとる」
海沿いの小さなバーガーショップ。
高校時代、 帰り道によく寄っていた店。
観光客向けでも、 映える店でもない。
地元の高校生と漁師が来るような、 古い店。
入口のドアベルが、 からん、と鳴る。
油の匂い。 鉄板の熱気。店の床が少しベタつく。換気扇がうるさい。
一瞬で、 高校時代が蘇る。
カウンターの上には、 手書きのポップ。
『春限定 瀬戸内レモンタルタルベーコンてりたま』
まだあるんだ。
湊は、 なぜか少し安心した。
「二つでええ?」
航平が勝手に注文する。
窓際の席に座ると、 海が見えた。
フェリーがゆっくり横切っていく。
時間だけが、 置いていかれているみたいだった。
「お前さ」
航平がポテトをつまみながら言う。
「レモナに会うん?」
その名前に、 湊の指が止まる。
「……なんで今それ聞くん」
「いや、絶対会うやろ。島やぞ?」
レモナ。
柚木レモナ。
高校時代、 ずっと好きだった人。
たぶん、 今でも。
「まだ島におるん?」
「おるおる。実家のカフェで働いとる」
「……そっか」
胸の奥が、 少しだけざわつく。
十年近く会っていない。
なのに、 名前を聞いただけで、 こんなに簡単に揺れる。
自分でも呆れる。
その時だった。 《カラン》
「いらっしゃい」 「あら!」
店のおばちゃん声が、 途中で止まった。
湊は顔を上げる。
時間が、 一瞬だけ静かになる。
肩までの髪。
薄い黄色のカーディガン。
少し細くなった輪郭。
でも、 笑う前の目だけは、 昔のままだった。
柚木レモナが、 扉を開けたまま立っていた。
「……湊?」
その呼び方だけで、 高校時代に戻される。
湊は、 うまく息ができなかった。
「あー、やっぱり知っとる感じか」
航平がニヤニヤしている。
レモナは数秒遅れて笑った。
「え、なに。ほんまに帰ってきたん?」
「……まぁ、少しだけ」
「少しだけ、って顔じゃないけど」
湊は、少し目をそらす。 変わってない。
その軽い言い方も。
人の心に、 自然に入ってくる感じも。
でも。
昔より少しだけ、 寂しそうに笑うようになっていた。
レモナはおばちゃんから、トレーを受け取り湊の前に置く。
「はい、瀬戸内レモンタルタルベーコンてりたま、お待ちどーさま」
長い。
高校時代も、 注文するたび笑っていた名前だ。
バンズから、 タルタルソースが少しこぼれている。
レモンの香り。
甘いてりやきソース。
ベーコンの塩気。
タルタルがこぼれて、 てりやきソースが指につく。
高校の頃も、 食べにくいなって笑っていた気がする。
なのに、 なぜかまた食べたくなる味だった。
レモナが言う。
「……今年も春、来たんじゃね」
その言葉に、 湊はなぜだか、 少し泣きそうになった。 第二章へ続く。




