第三十八章 「冬の帰島」
第三十八章
「冬の帰島」
十二月の終わり。
東京駅は、 帰省客で溢れていた。
大きなキャリーケース。
家族連れ。
土産袋。
年末特有の慌ただしさ。
その人波の中を、 湊は一人歩いていた。
肩にはカメラバッグ。
手には撮影機材のケース。
今回の帰島は、 以前とは少し違う。
休暇ではない。
逃避でもない。
仕事だった。
会社から正式に通った追加企画。
「変わりゆく瀬戸内の島の記録」
その撮影のために帰る。
胸の奥では、 別の理由もわかっていた。
レモナに会うため。
ちゃんと話すため。
あのメッセージに向き合うため。
数時間後。
フェリーが港へ近づく。
冬の海は静かだった。
空は灰色。
風は冷たい。
島影が見えた瞬間。
湊は無意識に立ち上がっていた。
ほんの数か月前まで、 ただの帰省だった。
でも今は違う。
帰らなければならない理由があった
変わらない景色。
見慣れた海岸線。
小さな港。
何度も見たはずなのに。
東京へ行ってからは、 毎回少し違って見える。
帰る場所。
その言葉の意味が、 昔より重くなっていた。
フェリーが接岸する。
ゆっくり降りる。
潮の匂い。
冷たい風。
島の空気。
肺の奥まで入ってくる。
その瞬間。
湊はようやく気づく。
東京では、 ずっと息を詰めていたのかもしれない。
最初に向かったのは、 『nagi』ではなかった。
港だった。
カメラを取り出す。
ファインダー越しに見る。
減便の案内板。
待合室。
冬の海。
人の少ない乗り場。
夏には気づかなかった景色。
以前なら撮らなかった景色。
でも今は。
その全部が大切だった。
消えていくかもしれないから。
変わっていくから。
シャッターを切る。
一枚。
また一枚。
その時。
「湊?」
声がした。
振り返る。
航平だった。
漁協帰りらしい。
厚手の防寒着姿。
「帰ってきたんか」
「さっき」
航平は、 カメラを見る。
そして港を見る。
すぐ理解したらしい。
「仕事か」
「まぁ」
少し沈黙。
冬の風が吹く。
航平は、 ゆっくり言った。
「レモナには?」
湊は視線を逸らす。
「まだ」
航平は呆れた顔になる。
「お前なぁ」
昔から変わらない反応だった。
「まず行けや」
「わかっとる」
「わかっとる奴は先に行く」
反論できない。
航平は苦笑する。
「待っとるぞ」
短い言葉。
胸に重く落ちた。
夕方。
『nagi』。
店の灯りが、 冬の港を少しだけ明るくしている。
湊は店の前で立ち止まる。
ドアの向こうに、 レモナがいる。
会いたかった。
怖かった。
前に進む話をしなければならないから。
答えを出さなければならないから。
深呼吸する。
そしてドアを開ける。
ベルが鳴る。
「いらっしゃいま――」
レモナが顔を上げる。
動きが止まる。
数秒。
本当に数秒。
二人には長かった。
「……おかえり」
先に言ったのは、 レモナだった。
湊は、 少しだけ笑う。
「ただいま」
レモナが少し笑う。
それだけなのに。
東京で過ごした何か月より、 その数秒の方が長く感じた。 その言葉を口にした瞬間。
胸の奥が少し痛んだ。
“ただいま”と言ったのに。
自分はまだ、 ここに残るとも、 東京へ戻るとも決められていない。
帰ってきたのに。
まだ帰れていない。
そんな気がした。
閉店後。
店内には二人だけ。
窓の外では、 港の灯りが揺れている。
コーヒーの香り。
静かな夜。
久しぶりの距離。
だけど…
以前みたいに、 自然に話せない。
沈黙が増えている。
それが少し苦しい。
レモナが先に口を開く。
「撮影?」
「うん」
「どれくらい?」
「年明けまで」
レモナは頷く。
そして。
「仕事なんだね」
レモナは笑っていた。
その笑顔は少しだけ寂しそうだった。 それ以上は聞かなかった。
聞いてしまえば、 期待していることまで知られてしまいそうだった。その言葉に、 湊は返事ができなかった。
責められているわけじゃない。
その一言に、 今の二人の距離が全部入っていた。
会いに来た。
でも。
仕事で来た。
どちらも本当だった。
だからこそ。
簡単には答えられない。
店内に沈黙が落ちる。
外では。
最終フェリーの灯りが、 静かに港を離れていった。 第三十九章へ続く。




