第三十五章 「帰る理由と帰れない理由」
第三十五章
「帰る理由と帰れない理由」
東京。
十一月の終わり。
窓の外には、 冷たい雨が降っていた。
編集室の蛍光灯は、 今日も夜を昼みたいに照らしている。
時計は二十三時を過ぎていた。
スタッフの半分は帰り、 残っているのは数人だけ。
キーボードを叩く音。
パソコンの駆動音。
紙コップのコーヒー。
それだけが、 この空間の時間を動かしていた。
湊は、 スマホを見つめていた。
レモナから届いたメッセージ。
『今度帰ってきたら、ちゃんと話そう』
短い一文。
それなのに。
今まで届いたどんな言葉より重かった。
湊は、 画面を閉じる。
そしてまた開く。
返事を書こうとして、 消す。
何を書いても、 軽くなる気がした。
「難しい顔してますね」
真白だった。
いつの間にか、 隣の席に戻ってきている。
湊は苦笑する。
「仕事しろ」
「してます」
真白は、 モニターを見たまま言う。
「レモナさんですか」
否定しなかった。
真白は、 少しだけ視線を落とした。
「ちゃんと話そう、ですか」
湊が驚く。
「見てないやろ」
「見てません」
見てないのに、 だいたい当たる。
それが真白だった。
少し沈黙。
窓を叩く雨音。
遠くのサイレン。
東京の夜。
真白は、 静かに口を開く。
「私の父も、 帰る帰るって言ってました」
湊が顔を上げる。
真白が、 自分の話をするのは珍しい。
「もしかして、地方出身…?」
「広島です」
瀬戸内だった。
湊は少し驚く。
真白は、 モニターを見つめたまま続ける。
「小さい島じゃないですけど」
大学で東京へ出て。
就職して。
結婚して。
そのまま戻らなかった。
「帰りたいって、よく言ってました」
帰省するたびに『次はもっとゆっくり来る』 って。
でも、次は来なかった。 真白は少し笑う。
でも。
その笑顔は、 どこか寂しい。
「帰るつもりだったんです」
仕事が落ち着いたら。
子供が大きくなったら。
定年になったら。
そのうち。
いつか。
いつでも。
でも。
人生は思ったより早かった。
気づいたら、 故郷より東京の方が長くなっていた。
「結局、 父は帰れませんでした」
「仕事も大事だったんだと思います」
「本当に…」 真白は小さく頷いた。
「だから責められないんです」 真白は、 静かに言った。
責める口調ではない。
ただの事実。
でも。
その言葉は重かった。
湊は、 何も言えない。
真白は、 少し考えてから続けた。
「帰れなかったことを、 後悔してたかはわかりません」
でも。
亡くなる前。
一度だけ言ったらしい。
『帰りたかったな』
と。
編集室が静かになる。
真白は、 画面を見ながら笑った。
「だからたぶん…」
少し間。
「私は帰る人を見ると、 気になるんです」
湊は、窓の外を見る。
編集室のモニターに映る映像は、昔の自分が憧れた世界だった。
でも。
島にもある。
海と 港と 『nagi』と レモナ。
自分が、自分でいられた場所。
真白は、 ふと尋ねる。
「朝倉さんは、 何が怖いんですか」
湊は、 答えられなかった。
レモナに会いたい。
でも帰ったら仕事どうなるんだ?
いや、でもこのままも嫌だ。
真白は、 小さく頷く。
「ですよね」
それ以上聞かない。
答えを急がせない。
昔からそうだった。
真白は、 人を追い詰めない。
でも。
逃がしもしない。
その時。
湊のスマホが震える。
レモナだった。
写真、冬の港、夕暮れ。
減便になったフェリー時刻表。
添えられた一文。
『来年、また減るかもって』
湊は、 写真を見つめる。
何かが、 少しずつ消えている。
自分が迷っている間にも。
去年あった店がなくなる。
知っている顔が減る。
景色だけが残るわけでもない。
真白は、モニターの光を見つめたまま言った。
「時間って」
少しだけ疲れた声だった。
「待ってくれないですよね」
湊は、 何も答えられなかった。
外では、 冷たい雨が降り続いていた。
そしてその夜。
湊は、 久しぶりに編集データとは別のフォルダを開く。
そこには。
誰にも見せていない映像が入っていた。 春の港。
レモン畑。
夕暮れの『nagi』。
笑うレモナ。
風。
波。
フェリー。
島の日常。
再生ボタンを押す。
レモナがカメラの向こうで笑う。
「もーなに撮りよん」
その声に、
あの日の空気まで思い出した。 画面の中では、
レモナが笑っていた。
その笑顔を見ながら、
湊は初めて思う。
――自分は何を失おうとしているのだろう。
画面の中のレモナは、 何も知らないまま笑っている。 答えはまだわからない。
でも。
失ってからでは遅いことだけは、わかっていた。
けれど現実では。 冬が、確実に近づいていた。 第三十六章へ続く。




