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第三十三章 「戻れなくなる前に」

第三十三章

「戻れなくなる前に」

十一月。

東京の空気は、 完全に冬へ変わり始めていた。

朝のホームに立つ人たちは、 みんな足早だ。

コート。

マフラー。

白い息。

湊は、 缶コーヒーを片手に駅を歩く。

睡眠不足の頭が重い。

でも。

最近はもう、 疲れている状態が普通になっていた。

スマホが震える。

レモナから。

『今日そっち寒そう』

写真付きだった。

港にいる猫が、 店の前の日向で丸くなっている。

湊は、 少し笑う。

東京には、 こういう“止まった時間”が少ない。

何も生産していない時間。

ただ陽を浴びているだけの時間。

それが、 少し恋しくなる。

『寒い』

短く返す。

すぐ既読。

でも、 返事は来ない。

たぶん、 開店準備中だ。

以前なら、 その沈黙が寂しかった。

でも最近は、 お互いの生活時間がズレることに、 少し慣れ始めていた。

それが、 逆に怖かった。

編集室へ入る。

暖房、モニターの熱、誰かのタイピング。

真白が、 既に席にいた。

「おはようございます」

「……早」

「朝倉さんが遅いんです」

真白は、 モニターから目を離さない。

相変わらず、 感情が表に出にくい。

でも。

最近、 湊は少しわかるようになっていた。

真白も疲れている。

たぶん、 かなり。

机には、 空の栄養ドリンクが二本置かれていた。

湊が席へ座ると、 真白が資料を差し出す。

「追加企画、 正式決定しました」

湊は、 ページをめくる。

瀬戸内特集・長編ドキュメント企画。

撮影追加。

島への長期滞在。

配信前提。

予算も、 以前より大きい。

これは、 チャンスだった。

映像を続けるなら。

もっと上へ行くなら。

欲しかった仕事に近い。

でも。

ページを読むほど、 胸が重くなる。

真白は資料を閉じた。 指先で表紙をなぞる。 少しだけ言葉を選ぶように視線を落とした。

まるで、自分自身にも言い聞かせるように。「……会社、かなり期待してます」

「……うん」

「朝倉さん前提で進んでます」

数秒。

真白はモニターへ視線を戻したまま言った。

「戻れなくなる前ですよ」

湊が顔を上げる。

真白は、 画面を見たまま続けた。

「島」

短い言葉。

でも。

意味はわかった。

東京にいる時間が長くなるほど、 帰る感覚は鈍る。

最初は、一日離れるだけで気になった。

港の風。

『nagi』。

レモナ。

でも今は。 気づけば昼になっていて、 港の風を思い出さない日もある。

それが、 湊自身一番怖かった。

真白は、 淡々と言う。

「人って、 慣れるので」

東京にも。

孤独にも。

忙しさにも。

帰れないことにも。

湊は、 小さく笑う。

「それって…脅し?」

「経験談です」

真白は、 そこで初めて少しだけ笑った。

でもその笑い方は、 どこか寂しかった。

昼休憩。

湊は、 非常階段へ出る。

冬の空気が冷たい。

スマホを開く。

レモナとのトーク。

最近、 “好き” という言葉を使っていないことに気づく。

喧嘩もしていない。

嫌いになったわけでもない。

でも。

生活に飲まれると、 恋愛は少しずつ、 確認事項みたいになっていく。

『今日、 港どう?』

送信。

少しして、 写真が返ってくる。

曇った海。

減便になったフェリー時刻表。

『午後便また減った』

その一文に、 湊は胸がざわつく。

島も、 止まったままではない。

少しずつ変わっている。

減っている。

自分が悩んでいる間にも。

湊は、 非常階段から東京を見る。

高層ビル。

クレーン。

人波。

この街は、迷っている人間すら前へ運んでしまう。 だから時々、立ち止まる方が難しい。

湊は、スマホの画面を閉じる。

島は、そこにある。

なのに。

少しずつ遠くなっている気がした。

そのことを、レモナはまだ知らない。

同じ海でつながっているはずなのに……。

第三十四章へ続く。

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